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ゴディバのチョコレート

昨年末に12年間続けた事務のパートを辞めた。新しい出発のための円満退社である。パートとはいえ12年間の年月は長く、たくさんの思い出があり、卒業はあまりにも感慨深いものであった。

お世話になった方から個人的にゴディバのチョコレートをいただいた。「長い間ありがとう。」という気持ちを込めて渡してくれたのだ。私は涙が出そうになりながら受け取った。

花束やプレゼントを両手いっぱいに抱えて私は帰宅した。帰路の途中、感動で胸がいっぱいなり、感傷的な気持ちに浸りながら最後の通勤路を踏みしめた。

家に帰った途端、最初に耳に飛び込んできた言葉は、「長い間、お疲れ様でした。」ではなく、娘の「ゴディバだー!」という感嘆の声だった。持ち帰ったものを整理する間もなく、娘が「これ開けていい?」と畳みかける。渋々了承すると、美しく高級感にあふれた包み紙はあっという間にはがされた。

「16個あるから1人5個だね。ママは特別6個でいいよ。好きなのを選んでもいいよ。」

仕切り屋の娘がどんどん話を進めていく。3人家族の我家は、いつもそんな風にお菓子を分ける習慣がある。しかし、これは買ってきたお菓子ではないのだ。私が12年間汗と涙にまみれて働いた努力と、様々な思いが詰まった特別なチョコレートなのだ。

何も独り占めしようと思っているわけではない。もちろん、めったに食べられない高級チョコレートは家族にも食べてほしい。でも、皆が遠慮する中、私が優しい笑顔で「食べていいよ。」と差し出し、家族は遠慮しながらつまむのが正しいあり方じゃないのか。

そんな心の叫びが空回りする中、私は静かに6個のチョコレートを選ぶ。そして、娘だけではなく夫まで嬉々として食べているのだ。娘は仕方ないとしても、夫もちょっとは考えないのか?「これはママの努力の証だから、ママに食べてもらおうよ。」とは言えないのか?

私の中でどんどん怒りが渦巻いてきた。しかし、もし逆の立場だったらどうだろう。夫だったら当たり前に三等分してくれるだろう。逆にこんなことで怒りをため込んでいる人間なぞ願い下げだ。夫には、「おいしいものは、家族にこそ食べてほしい。」と思う人であって欲しい。なんと自分は心の狭い小さな人間だ。「私はいいからみんな食べて。」と心から笑顔で言えるのが理想の母親なのではないか。

私の中の自分勝手な葛藤と闘ってヘトヘトになっているうちに、私の分以外のチョコはあっという間になくなっていく。器が小さい私は、しばらく静かに悶々としていた。あきれる小ささである。

きっと娘にとっては、好きなチョコを選んだり、一粒多く食べたりできる権利は、「長い間お疲れ様。」という気持ちからの特権なのだろう。こんな風に楽しく分け合える家族がいることが幸せというのかもしれない。

1週間後、私はそんなことを考えながら6個目のチョコレートを食べた。

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