見出し画像

『ストーリーオブマイライフ』に込められた愛 -1949年版との比較を通して

公開前は観ようか迷っていた 『ストーリーオブマイライフ』でしたが、いかんせんリメイクの仕方が素晴らしくて愛に溢れていて観に行ってよかったと思えたので、考察とは言えませんが過去作との比較を含め記事にしようと思います。

迷っていた理由は、あまりにキャストが豪華すぎて、きっとディズニーの実写リメイク版的な、「まあ普通によかったよ〜」みたいな作品なんだろうなと思っていたから。
だってシアーシャローナン、エマワトソン、フローレンスピュー、ティモシーシャラメ、ローラダーン、メリルストリープよ?錚々たるキャストすぎてなんかもう画面が渋滞起こしそうだったよ…

でも結論としては、そんなディズニー的なみんな大好きハッピーエンドに収まることはない素晴らしいリメイク作品で、むしろ監督がここまでのキャストを用意してまで描きたかったことなのかもな、と思ったりした。

『若草物語』について

そもそも原作の『若草物語』については、お恥ずかしながら小さいときに「世界の文学」的な児童書でしか読んだことなくて、「心優しい4姉妹が最終的に幸せになる話」みたいなざっくりした印象しかなく、なんなら映画を観るまでキャスト的に英文学だと思ってました(ごめんなさい)。

でも『ストーリーオブマイライフ』を観て、これは原作や過去の映像化を観なければと思ったので、取り急ぎ1949年の映画『若草物語』を鑑賞。こういう何度も映像化されてるような名作は、「制作された時代の価値観が反映されてるから比較すると面白い」と、お世話になった教授も言ってたしね。ということでこの記事では1949年版との比較も交えながら書いていこうと思います。

わかりにくいので、『ストーリーオブマイライフ』はグレタ版、グレタ版の作中作は “Little Women”、 1949年の映画『若草物語』は1949年版、原作の『若草物語』は『若草物語』と表記しています。(全部 “Little Women” なんだもん!)

①時系列

グレタ版の最大の特徴はなんと言っても時系列。 基本的には現在のジョーが過去を思い出しながら “Little Women” を執筆していくという構成になっている。この過去と現在を交錯させることによってこんなにも作品にメリハリがついて、楽しかった過去があんなにキラキラして見えるんだということに感動した。この演出で物語を再構成したグレタガーウィグのセンスが良すぎる。

ライトニングも工夫されていて (現在は寒色系、過去は暖色系) より「温かい思い出」感が出るし、何より画面構成がめちゃくちゃ綺麗。
モネ、ルノワール、カイユボットなどの印象派を彷彿とさせるようなショットが多くて、文字通り絵を見ているみたいに綺麗な映像だった。

画像1

画像2

印象派は19世紀ヨーロッパで流行り始めた絵画技法で、それは原作者オルコットが生きた時代と同じ。だからこの時代の雰囲気を出すために、そしてアカデミー衣装デザイン賞を受賞したスーパーかわいい衣装たちを映えさせるためにも、印象派を意識したショットを多用したのかな、となんとなく思う。

②オルコットの存在

さて、そうやって時系列を交錯させながら描いたグレタ版は、最後“Little Women” を出版させるところで終わる。そこで気がついたのは、シアーシャローナンって実は1人二役してるよね?ということ。つまり、物語の中のジョーと、 “Little Women” を出版した作者オルコット自身の二役
『若草物語』はオルコットの自叙伝的な作品であるからジョー=オルコットではあるんだけど、1949年版ではジョーが作中で出版したのは
“My Beth” だった。内容がどんなものであるのかは明かされないし、4姉妹の話というより妹ベスについての話だったのかもしれない。そしてジョーはあくまでジョーのまま、オルコット著の『若草物語』の映画化作品として1949年版は終わる。

反対に、グレタ版では最後 “Little Women” を出版社に持っていくことから、ラストシークエンスのシアーシャローナンはジョーのモデルであるオルコット自身とみることができる。そしてそれまでの過去から現在がオルコットの書いた 『若草物語』 であり、この映画自体が入れ子構造になっていたことが判明する。
つまり、1949年版は書籍『若草物語』そのものの映像化であるが、グレタ版は『若草物語』+それを出版したオルコットの映画となる。

グレタ版で新しいのは、現実のジョー、つまり “Little Women” のモデルのひとりであるオルコット自身が最後どうなったのか明示されないところだ。これでどこまでが実際の回想で、どこからが出版社に言われて売り上げのために書き換えたものなのかがわからなくなっている。

出版社に原稿を持って行ったとき、初めジョー=オルコットは「主人公は結婚しない。だってずっとそう言い続けてきたから」と言う。それを出版社の考えで「売れるために」主人公を結婚させる羽目になり、私たち観客はお金のために改編されたエンディング、つまり「ベア教授を引き止めて結婚する」を観ることができるようになる。

このシーンを挟むことによってグレタは、私たちのよく知る『若草物語』のエンディング、みんな結婚して幸せになりました、めでたしめでたし、というハッピーエンドは作者自身の意図ですらなく商業目的で作られたものにすぎない、とバッサリ切り捨てる。

ではオルコットが書いたオリジナルはどのような結末だったのだろう?

もしかしたら、「きっと訪ねないけど、元気でね」とベアを見送ったのがエピローグで、姉妹たちに「それは恋よ!」と言われて彼を追いかけるところからもう書き足したフィクションだったのかもしれない。または、追いかけたはいいがベアに「カリフォルニアに行くことは決まってるから…」と駅前で振られたのかもしれないし、列車に間に合わなかったのかもしれない。

個人的にはベアを見送ったところで終わって欲しいと思っているが (姉妹たちに恋よ!と言われたシーンからは結局恋愛至上主義かよ、と思ったので)、結局ジョーは最後どうなったの?という質問の答え、そして彼女の幸せは、観客である我々の想像に託されているのかもしれない。

ちなみに、オルコット自身は結婚していない。
だから『若草物語』が彼女の自叙伝であるならば、ジョーは結婚していないはずだ。確かに1949年版でもあっさりジョーがベアのことを好きになっており、いやいやずっと結婚しないって言ってたじゃん!とつっこみたくなるのは否めない。

③"女性の"幸せってなに?

おそらく、これまで『若草物語』は若い女性の生き方、そして幸せとは、という文脈でずっと語られてきたのだと思う。「この四姉妹のように心優しい人でいれば、いつかきっと素敵な人と結婚できる」みたいな、構図としてはディズニーのプリンセス系おとぎ話のような教訓ぽさがある。だって原作および1949年版では、結局姉妹3人とも結婚して、みんな幸せになりました、めでたしめでたしというところで終わるのだから。

特に1949年版では、ジョーがお隣の家庭教師ブルックといちゃつくメグを見て「変わったわね」と言うシーンがあり、メグにこう言われる

「あなたこそ変わるべきよ。いつまでも髪もとかさないで走り回ってばかり!」

1949年版ではジョーは最終的にベアと結婚することで、走り回ってばかりの子供から、恋を知ったしとやかな女性へと成長する物語、と読むこともできる。が、それって超恋愛至上主義じゃん!!女性は恋をして結婚することで一人前になるの?それが大人になるということなの?それが女性の幸せなの?というかそもそもなんで女性に限定して幸せだの生き方だの語られるの?

『若草物語』出版当時の価値観はともかく、現代において大真面目に「結婚こそ女の幸せ」だなんて言う人は少ないだろう。なのに現代でも幼少期に『若草物語』を読み、そして大人たちから「おしとやかで優しい女性は素敵な人と結婚できる。そうすれば幸せ」と刷り込まれ続けてきた女性はたくさんいて、それはある種呪縛のようなものだ。『若草物語』だけでなく、小さいときに読んだシンデレラも白雪姫も美女と野獣もみんなそう。みんな、「心優しいお姫様は王子様と結婚していつまでも幸せに暮らしました」だ。

グレタは、特にグレタ世代の女性なら一度は読んだり観たりしたことがあるであろう『若草物語』を彼女なりに描き直すことで、女性たちをこの呪縛から解放したかったのかもしれない。
それは新しく恋愛映画を撮ることでは達成できなくて、いわゆる名作と言われる作品のハッピーエンドでさえ売り上げのために作られたものだと切り捨ててみせることで、この幸せの法則に縛られる必要はない、というメッセージを伝えることができたのだと思う。

それにグレタ版では、オルコットが表現できなかった結婚することだけが幸せじゃないという主張を描いたことはもちろん、恋愛市場においてどのような選択をしたとしても、自分で選んだことならそれが幸せ、という全ての選択を肯定する愛に溢れている。登場人物の比較を通して、それについて書こうと思う。

④メグ

画像4

画像5

グレタ版の長女メグは、いつか自分の愛する素敵な人と結婚することを夢見るシンデレラガール。だからダンスパーティーも社交界も大好きだし、基本的にめちゃいい子。1949年版ではそこまでメグのキャラクターが描かれていないような気もするが、大きな違いは彼女の結婚生活にある。

1949年版では、ジョン・ブルックと結婚した後は馬車にも乗ってるしなんか普通の素敵なご婦人として登場するだけだが、グレタ版では、貧乏なのについドレスの布地を買ってしまったために夫のコート代がなくなってしまい、夫に怒られるのではと怯えていたり、布地を買ったはいいがドレスの仕立て代は出せないし、双子の育児も大変で…という、かなり疲れた主婦の印象少女時代は可愛いドレスを着てキラキラしていただけに、その対比が大きい。そしてつい夫の稼ぎが少ないから、と口走ってしまい、2人の間に不穏な空気が流れる。好きで結婚したはずなのに夫婦関係も上手くいかず、モラハラ夫と離婚直前という雰囲気が漂う。

もし、結婚だけが幸せじゃないということだけを主張したいのなら、結婚したメグを不幸に描いてもいいはずだ。でも、前半はこんなに不穏な夫婦であっても、後半でジョンは「自分のコートは去年のを使うから、ドレスを仕立てよう」と言ってくれるし、でもメグはすでにドレスを諦め、布地を売ったあとだった。そしてお金がなくてもジョンがいてくれたらいいと言い、2人は仲直りする。
私はこのやりとりで「賢者の贈り物」を思い出した。モラハラ夫かと思ってたけど、ジョンいい奴じゃん。
結婚を選んだメグは、必ずしも思い描いた夫婦生活を送っているわけではないけれど、彼女は彼女でちゃんと幸せだったのだ。結婚は夢見たほど素晴らしいものではないかもしれない。でも好きな人との未来を信じて結婚を選んだことも、また間違いではないのだ。

⑤エイミー

画像9

画像6

1949年版の四女エイミーは、姉妹の中で一番美人で、ちょっとわがままなお姫様タイプ。グレタ版のフローレンスピューは、お姫様というよりわがままモンスター!って感じで可愛い。なんかトトロのメイみたいな感じ…(笑)このシーンのフローレンスピュー(右)とか、すごいお気に入り↓

画像10

1949年版ではそこまでお金持ちと結婚することに固執していたようには見えなかったけど、グレタ版のエイミーは女の稼ぎだけでは家族を支えられないから、結婚は女にとって経済戦略であると考えていて、パリの金持ち貴族・フレッド(若くてイケメン)と結婚しようと奮闘中で、金持ちで独身の伯母の一番弟子、という印象。でも実は、いつもジョーに負けているというコンプレックスを抱えていた。

正直、彼女の結婚に関する主張は筋が通っていると感じる。女性の職業自体が限られていて、一家を支えられるほど女性が稼ぐことができない時代に、愛とか恋とか夢見てられない。自分の好きなことをして自由に生きるためには、金持ちと結婚しなければならないのだ。さもなくば、趣味に費やす時間もお金も与えられず、子育てと家事に追われて一生を終えることになる。でも同時に、このエイミーの主張には結婚に人生を大きく左右される女性の窮屈さも垣間見れる。

そんな金持ちと愛のない結婚をしようとしていたエイミーを引き止めるのがローリー。1949年版ではなぜローリーとエイミーが結婚することになったのかは描かれていないが、グレタ版ではそこも描かれている。が、ローリーは一番お前な!!!とつっこみたくなるキャラでした笑
いや〜あの中途半端に優しくてイケメンでちゃらんぽらんな御曹司を演じられるのはティモシーシャラメしかいないでしょ(笑)

画像3

まじで??という感じで結婚した2人だが、愛はあるみたいだしそれなりに幸せそう。(でもフローレンスピューもティモシーシャラメも童顔だから大学生カップルにみえる…)

かつ、じゃあエイミーは愛のためにお金を諦めたのかといえばそんなことなくて、ローレンス家も立派な金持ちなので、お金持ちと結婚して裕福で自由な生活がしたい、というエイミーの夢もちゃんと叶っている。愛とお金のどっちを取るかという議論は昔からずっとされているが、エイミーは愛もお金もある結婚を手に入れた。欲張りだっていいじゃない。お金持ちと結婚することだって、立派な幸せの形のひとつだよ。

⑥マーチ伯母さん

画像7

画像8

グレタ版では全体的に登場人物の描き方がすごく丁寧で、母親もローレンス爺さんもそしてマーチ伯母さんも、単なる脇役としてではなくちゃんと奥行きのある人物として描かれている。中でもマーチ伯母さんは1949年版とはかなり違う印象を受けた。

1949年版のマーチ伯母さんは、「独身で、お金持ちだけど偏屈でがめつくて気難しいお婆さん」として描かれていた。これはもしかしたら当時の裕福な独身女性に対するイメージだったのかもしれない。お金はあっても女性としてはね…みたいな。はたまた、独身で金持ちの女性なんてこのくらい守銭奴に違いない、という偏見とかね。

でも、グレタ版のメリルストリープは違う。姉妹に対して厳しい面はあるけれど、なにより上品で粋なのだ。(メリルストリープ効果はあるにしても)

1949年版では、メグに貧乏なブルックと結婚なんかしたらお金は一切出さないからね!と言い放ち、グレタ版でも「金持ちの男を捕まえなさい」と常々言っているものの、伯母さんがお金を出してくれたからメグの豪華な結婚式ができた、というセリフがある。エイミーの画家になりたいという夢のために十分な環境を整えてあげたり、彼女がフレッドのプロポーズを断ったときにも何も言わない。

とにかく、粋なのだ。1949年版ではお金のことしか考えていないばあさんといった感じだが、気難しい面は同じでも、文字通り独身貴族として生きることにした自分自身への誇りを感じるし、マーチ伯母さんみたいな人生も悪くないよな、と観客に思わせる。そもそも結婚を選ばずに、独身で優雅に生きる人生だって素晴らしい。そういう選択をした自分を誇りに思っていいのだ。

⑦ プロポーズ

1949年版では、ローリーがプロポーズするもジョーが優しく諭すように断る…という感じだったが、グレタ版ではお互いかなり口調が強く、ジョーが言う「プロポーズからもう喧嘩」という表現がしっくりくる。

1949年版のジョーとローリーは友達ではあるけれど割と男女的な距離感と節度を持っていたように感じるので、プロポーズされてもまあ不思議はないかなという雰囲気だったが、グレタ版の2人は小学生男子の格闘ごっこ的な感じでいつもふざけて小突きあって、本当に大親友!って感じだったから、ずっとこの関係のままでいて欲しいと私まで思っちゃった。だからローリーがプロポーズしようとしたとき必死で「言わないで!」と言ったジョーの気持ちが痛いほどわかる。

でも後になって、あのときローリーのプロポーズ受けてればよかったかなあとふと思い、ジョーが恋愛や結婚に対して泣きながら

“I’m so sick of people saying that love is just all woman is fit for. I'm so sick of it. But I'm so lonely!” 

と怒るシーンは本当にグサグサ刺さる。たぶんこの感情は1949年版のジョーも抱えていたと思うのだが、グレタ版で直接的にセリフにすることで、1949年版のジョーのように、私たちが心の底で思ってても言えなかったことを代わりに言ってもらえたような気がするのだ。

恋愛とか結婚とか子供を産むとか母性とか、女性の人生はいつもそれが当たり前であるかのように語られるけど、そんなの聞くのはもううんざり。そんな当たり前に押し込んで欲しくない。結婚しなくても生きていけるしきっとそれも幸せだ。

でも、誰かに愛されたいと思うし、「誰かの生涯愛する人」になれるのもうらやましいし、自分を愛してくれる人がいることに安心感を覚えるのもまた事実。マーチ伯母さんみたいには、まだなれない。

そんなどうしようもない気持ちを抱えるときだってある。だって女性である前に人間だもん。
このアンビバレントな感情はきっと女性だけでなく多くの人が抱えていて、だからジョーが泣きながらその気持ちをぶつける姿に「よく言ってくれた!」と思ったのではないかな。

おわりに

全体的に1949年版よりグレタ版のほうが優れている、みたいな文章になってしまったが、時代と原作を考えれば1949年版はすごく忠実な映画化作品で、むしろグレタ版が特徴的なのだと思う。

邦題はそんな1Dの曲名みたいなのじゃなくてもうちょっとなんかなかったのかな…と思わなくもないが、これまでの『若草物語』と一線を画す新しい作品であることを示すためにも、『若草物語』にはしなかったのだろうな。
原題も、 “Little Women -Own Your Story” とサブタイトルが付いている。Own your storyっていい言葉だな〜。映画を観た後に意味が沁みる。最後に「著作権は売らない」と言ったことに繋がるのだと思うが、期待されたハッピーエンドに振り回されたり物語そのものを誰かに渡したりしないで、あなたの物語はあなた自身がしっかりと掴んで離さないように、あなたの人生なのだから、という強いメッセージ込められている気がする。

これまで述べてきたようにグレタ版リメイクはとても繊細で優しくて、現代に生きる女性たちへの愛が溢れている。いや女性だけでなく、男性もみんな「こうあるべき」的な幸せのルールに縛られる必要はなく、自分の選択したそれぞれの人生はみんな幸せなのだと伝えたいのかもしれない。
これを単なるフェミニズム映画として括ってしまってはもったいない。

登場人物たちも常にお互いを思いやる優しさに溢れていて、ローラダーンが母親のこの家族も素晴らしい。
最近ディズニーをはじめリメイク作品が多いように感じるが、そのなかでもかなり好きな作品でした!

画像11






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?