見出し画像

【考察】 失恋映画として読み解く『ミッドサマー』 ②

前回は『ミッドサマー』の構成を失恋映画としての文脈で、アリ・アスターのインタビューを交えながら考察しました。この記事では、アリ・アスターこだわりのメロドラマ的要素に焦点をあて、分析していきます。

メロドラマ的要素とはつまり、ダニー、クリスチャン、ペレの関係

ちなみに、通常盤だと会話がカットされている分「カルト的文化を持つホルガ村の恐怖」に焦点が当たるようになっていますが、ディレクターズカット版では会話(特にクリスチャンが絡む会話)のシーンが多くなるため、より人間模様が分かりやすく描かれています。

2大記念日を忘れる彼氏

どうですか、もしも恋人に記念日をすっかり忘れられていたら!しかもそれが自分の誕生日と、付き合い始めた日だったら!!

もちろん関係性によっては「記念日なんて別にね〜」というカップルもいるでしょうが、年に2日の大事な日くらい覚えておいて欲しい、という人は少なくないはず。そしてダニーも、そう思う側の人間だったと思います。

クリスチャンはダニーの誕生日をすっかり忘れていて、ペレに教えてもらって慌てて思い出す。その辺にあったケーキにロウソクを立て、「時差と白夜で…」とか言い訳しながら祝ってみても忘れてたことはバレバレ (時差と白夜を考慮しても合ってないし)。ダニーは、私も別にリマインドしなかったから、と言うけれど、わざわざ言わなくてもきっと覚えてくれているはず、という淡い期待を抱いていたのではないだろうか。いや、自分が言わなくても覚えているかどうか、クリスチャンを試してみたかったのかもしれない。でも、やっぱり覚えてなかった…。

さらに問題なのは記念日のほう。付き合ってどれくらい?というイギリス人カップルの質問には、正しくは4年と2週間なのにクリスチャンは3年半くらい、と答える。記念日も覚えてないんだ…。が、ここで思い出したいのは、パーティーの日のダニーとクリスチャンの会話。クリスチャンのスウェーデン旅行についてパーティーで初めて、しかも友達から聞かされたことに怒るとき、ダニーはこう言っている。

「チケットもあって出発は2週間後なのに、
今日スウェーデン行きを決めたって言うの?」

つまり、あのパーティー前後が2人の4年目記念日だったというわけだ。ダニーの家族が亡くなって記念日どころではなかった、と考えられなくもないが、それならそれで付き合った年数くらい覚えているはずだし、ダニーに気を使うならそもそもパーティーに行かない。

つまりクリスチャンはあのときダニーと「記念日だよね」というカップルらしい会話もしないまま、友人宅のパーティーへは行ったわけです。ということは、きっとあのパーティーでダニーは「そういえば付き合って4年だな…クリスチャンは何も言わないけど」と、ひとり思い、静かに傷ついていたのかもしれません。でもダニーもダニーで、自分からそういう会話をするわけでもない。傷つきつつもどこかで諦めていて、だけどそれも見ないふりをしている。
加えてそのパーティーでクリスチャンがダニーを置いて内緒でスウェーデンに行こうとしていたことが発覚するし、もうクリスチャンすでに最低。

誕生日と付き合った日を忘れていたクリスチャンという設定から、画面にはダイレクトに映し出されていないクリスチャンのダニーへの興味のなさ、ダニーもそれに薄々気が付いていながら見ないふり、そして2人のカップルとしてのすれ違いを観客に想像させることに成功しているアリ・アスター、すごい。

というかクリスチャンは、ジョシュとの論文テーマ被り事件や夜の儀式のあとのダニーとの喧嘩、アホなマークが村人から怒られてるのをニヤニヤ眺めてた事件などからも、自己中心的で、面倒なことからは逃げて楽な方に流されてばかりで、何かに真剣に正面から向き合ったことないんだろうなと感じる。
ジョシュに「お前みたいなやつがなんでアカデミアにいるんだよ!」と怒鳴られるシーンがあるが、どうせ「大学出てもまだ働きたくないしとりあえず大学院いっとくか」みたいなノリで大学院行ってるんじゃない?
だからダニーとの関係も、今上手くいっていないというよりも、たぶんずっとこんな感じだったのだろうな。

そしてここで登場するのが新しい男・ペレ
ペレはといえばクリスチャンと反対に、ダニーが何気なく言った「スウェーデンに着く日が誕生日なの」という言葉をちゃんと覚えていて、ダニーに似顔絵をプレゼントする。恋人に誕生日を忘れられた女性にとって、これはポイント高いでしょ。ペレ、獲れる好感度は確実に上げてきます。強い。そしてここからペレとクリスチャンの対比が始まります。

ペレとクリスチャンの対比

そして、うまくいってない彼氏vs新しく現れた優しい人 というメロドラマお約束の展開!

先ほどの、誕生日を忘れた男とその辺にあったケーキvsちゃんと覚えていた男と直筆の似顔絵 ももちろんそうだが、パーティーから帰ってきたダニーとクリスチャンの喧嘩のシーンも対比になっていると思う。

パーティーのあとスウェーデン旅行を巡って2人が喧嘩をしたとき、取り乱したダニーのことをろくに相手もせず、ダニーが座って話そうと言ってもめんどくさそうにしてしばらく応じなかったクリスチャン。

画像1

ホルガ村でも、似たようなシーンがある。

アッテストゥパンを見たあとのショックで、もう無理!帰る!と取り乱すダニーを、何とかなだめようとするペレ。

画像2

パニックになるダニーをめんどくさそうに放置して適当なことを言ってなだめようとするクリスチャンとは違い、今度はペレがダニーに隣に座るように言って、ダニーの手を取って落ち着くまで隣にいてくれる。

きっとこれは、あのときダニーがクリスチャンに本当はして欲しかったことなのかもしれない。ダニーの隣に座って、「話してなくてごめん」と真摯に向き合ってくれたら、それでよかったのに。別にダニーは、思ってもないくせに一緒にスウェーデン行く?なんて言って欲しかったわけじゃないと思う。それにダニーの家族をなくしたトラウマに一緒に向き合ってくれたのは、作品中ペレだけだ。
ではなぜペレが優しくしてくれるのかといえば、もちろんダニーにここにいて欲しくて、去ってほしくないからなんだけど、じゃあクリスチャンがそうしなかったのは…?

そして極め付けはこのときのペレのセリフ!

“I have always felt...held. By a family. A real family. Which everyone deserves. And you deserve. ...Do you feel HELD by him, Dani? Does he feel like a HOME to you?”

(僕はずっと家族に守られてると感じてきた。本当の家族に。みんなその権利を持ってるはずなんだ。君だってもちろんそうだよ。クリスチャンに、守られていると感じる?彼といて安心できる?)

このペレの言葉で、ダニーは家族をなくし唯一の拠り所(だと思っていた)のクリスチャンへの、ずっと気がつかないふりをしていた不信感を浮き彫りにされ、自分が求めていたものが何だったのか徐々に気づかされていく。(そしてこの言葉は、全世界の恋人とうまくいっていない人々にも刺さるはず…)

ちなみに、ダンスのあとペレがどさくさに紛れてダニーにキスをするシーンがあるが、注目したいのはダニーの頭の花。冠正面に付いているピンクの花がずっと収縮しているのだが、これはきっとダニーの心拍を表現している。ペレにキスされたとき、その花の収縮が早くなっていて、つまりドキドキしたのね、ダニー!

そうしてペレ(=ホルガ村)は、ダニーにとって求めていたものを与えてくれる理想的な存在となっていく。 

ちなみに、クリスチャンとペレの対比は服装にも現れていて、ほとんど常にクリスチャンは暗い色、ペレは明るい色の服を着ている (ホルガ村に着いてからはずっと白い民族衣装だし)。この服の色からも、ダニーに良い影響をもたらさないクリスチャン=黒と、求めていたものを与えてくれるペレ= という構図が読み取れます。

画像9

ダニーが求めていたもの

ダニーが求めていたものは、失ったものを考えるとすぐにわかる。それは家族と受容感。

ダニーは冒頭10分くらいで家族を全員失うことになる。そのせいか「家族」というワードが地雷になっていて、ホルガ村に着いた直後、ペレの「みんな家族だ」の言葉に反応してひとりバッドトリップしてしまうシーンがあった。アッテストゥパンのあと号泣したのも、老人の死を自分の家族の死に無意識に繋げてしまったからだろう。

画像10

でもホルガ村でずっと過ごしているうちに、ペレにここのみんなは家族だと説得され、メイクイーンに選ばれたことを村人達に祝福され、その後の食事で女性に「あなたはもう家族よ」と言われた時には、もうダニーはパニックを起こさなかった。ペレの言葉通り、ホルガ村はダニーを受け入れ、失った「家族」をもう一度与えてくれる場所だとダニーが受け入れ始めたのはこの瞬間だったはずだ。

また、作品の前半ではダニーが泣くのを我慢するシーン、またはひとりで泣くシーンが印象的だった。トイレで声を押し殺して泣いたり、また家族が死んだときと、ホルガ村で老人が飛び降りた後のダニーの泣き声は、静かな中で誰にも受け止めてもらえないものとして響く。本当は誰かに自分の気持ちをわかって欲しいのに、クリスチャンも誰もそれを受け止めてくれないと思うから、きっとダニーはそうするしかなかった。家族も失い、クリスチャンともその友達とも上手くいかず、ダニーはずっと疎外感と孤独を感じていたはずだ。

それがそうでなくなったのは、クリスチャンの「性の儀式」を目撃した後のシーン。あの世にも不気味な(でもちょっと面白い)セックス文化にショックを受けたという見方もできますが、失恋映画としての文脈で捉えるならばあれは「恋人の浮気」でしょうね。

画像7

ホルガ村には誰かの苦しみを共有する文化があるようで、クリスチャンを見たあとショックと悲しみと怒りで泣き叫ぶダニーにみんなが駆け寄り、一緒に悲しんで、怒ってくれて、そしてダニーの気持ちを受け止め共感してくれたから、初めてダニーは誰かの前で思いきり泣くことができたのだ。というかこのシーン、もはや女子会なのでは(笑)
「彼氏が浮気してたの!」と怒ったときに、友人たちが口々に「最低!」「ひどい!」「もう別れなよ!」と共感してくれる構図によく似ている気がする。そしてこの「女子会」が、最後の選択の後押しをしたのではないかしら。(ここでダニーを慰めるのがもしペレだったら、うわ、ずるい男!となるけれど、女性陣が慰めるところがまたラブコメっぽい)

画像4

このシーンで、ダニーの泣き声はみんなの声と一体となって一切聞こえてこない。もうダニーは誰もいないところでこっそり泣いたり、泣くことを我慢したりしなくてもいい。ダニーはもうひとりじゃないということが、(彼女にとって)決定づけられた瞬間だ。

すれ違うばかりで、自分が大切にされていないことに薄々気がついていながらその恋人と別れることができない。だってこの人を失ったら、私はひとりになっちゃう。という気持ちは、多くの人が共感する部分だと思う。だからこそホルガ村は、ダニーにとって不必要なものを捨て去る勇気を与え、欲しかったものを与えてくれる理想の場所となっていったのです。

そしてさよなら

自分をないがしろにするばかりか、浮気までしたクリスチャンに対して、ついにダニーは限界を迎える。最後の生け贄をメイクイーンであるダニーに選ばせるシーンは、つまり「今の彼氏と新しい人、どっちを選ぶ(捨てる)の?」というシーン。このダニーの表情は、好きだったけれどもう許すことのできない恋人に別れを告げるときの、悲しさと葛藤の混じった表情だ。

画像5

そしてラストシーン。ついにダニーの思い出と共にクリスチャンは燃やされます。ばいばいクリスチャン。そして最後のこの笑顔!思わず、よかったねダニー!と言いたくなる。だってダニーは今までひとりで傷ついてきたけれど、これでやっと前に進めるようになったのだから。
ずっと見ないふりをしてきたことに向き合い、その苦しみを認めて受け入れ、ようやく恋人と別れるという決断ができた、「さよなら」の笑顔です。

画像6

(クリスチャン、ふられてびっくりの君の顔も好きだよ笑)

画像10

ハッピーエンドのおとぎ話

アリ・アスターは、この作品を「心に傷を負った人にこそ観てほしい」と言い、自身の心の傷を癒す「セラピー映画」だとも語っている。その言葉通り、ダニーの立場に立って観ればラストシーンでカタルシスを覚えた人は決して少なくはないはず。

反対に、クリスチャンは最低ではあるけど悪人ではない。たぶんいいところもちょっとはあった。こういう人いるいる、と思った人もいれば、もしかしたらクリスチャンって自分のこと…?と感じた人もいるかもしれない。

この絶妙かつ丁寧なキャラクター設定もアリ・アスターがこだわった部分のひとつであると思うし、だからこそ失恋映画として観客が感情移入をすることができる。一般的なホラー映画では、ここまで登場人物の性格が細かく描かれていないだろう。

また、ペレがダニーにかける優しい言動の数々は、ダニーと観客だけでなく、アスターが過去のトラウマを癒すために彼自身に向けたものでもあるんじゃないかな。

ペレをはじめとするホルガ村の人々は、家族を失い、恋人とも上手くいかないダニーの悲しみを分かち合い、家族として祝福し、受け入れてくれるのだ。居場所をなくした主人公が新しい場所に居場所を見つけ出す、という構図は、『ヘレディタリー』にも通ずるものがある。

だからこそ、『ミッドサマー』は失恋による心の傷を癒すためのおとぎ話であり、ハッピーエンドなのです。

画像10



P.S. エンディングソングについて

『ミッドサマー』はエンディングソングも含めてすごく良かったと思うのだが、そのタイトルは “The sun ain’t gonna shine anymore” 
日が沈まないホルガ村が舞台で、ずっと明るかった作品のエンディングソングのタイトルがこれとは、センスありすぎる。

内容は「あなたの愛がなければ孤独で悲しくて、太陽も輝かないし月も登らないよ〜」みたいな感じの失恋ソング。冒頭のダニーみたいね。
でも最終的に白夜のホルガ村(=太陽が輝いている場所)に居場所を見出したということは、この歌詞の反対で、もうダニーは悲しくないし愛を見つけたと読めるのだろうか。

それとも、ダニーに振られて文字通り太陽も月も登らないであろう場所にいる、クリスチャンの失恋ソングなのかしら?




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?