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短編「カバネヤミ」

 町の長年の悲願である豊海島と本土の架橋が達成され、今日はその開通式のハレの日の朝だというのに、町長の片野達夫は気分が優れなかった。
「どうしたの?今朝は血圧高めだった?」
  心配した妻は洗い物の手を止め顔を上げた。片野は眉間に皺を寄せながら「いや、138の88だ」
 と答えると
「あら、そう。まぁまぁね」
 と言いながら妻は再び食器をガチャガチャならし始めた。
「あ、もしかして、少し緊張してる?」
 再び手を止めた妻がからかうような言葉を投げかける。 
 片野は返事をせず、黙って緑茶を啜った。

「あ、雨が降ってきましたね」
 秘書課の平川はテントから顔を出して曇天の空を見上げている。
片野は橋の袂の人垣に視線を向けたが傘を開いている様子は見当たらないし、辺りのアスファルトに雨が落ちた跡もない。
「最初の雨はかばねやみに落ちるって言いますからね。ほら、ここに雨が落ちました」
 平川は自らの禿げあがった額を指差した。確かに小さな水滴が残っている。
「カバネヤミ?」
 片野は首を捻った。
「面倒くさがりとか怠け者という意味です。僕の母の故郷の方言です。子供の頃雨が降ると、不思議なことに誰よりも僕が先に気がつくんです。よく母にお前はかばねやみだから、って言われたもんです」
「平川が怠け者?そんなことはないだろう」
 片野はそう言って笑った。
「僕は年の離れた姉が2人いるので姉達が結婚して家を出るまで母の代わりに何でも世話をしてもらったんです。親父が死んで母は食堂を1人で切り盛りしていましたから。姉達が居なくなって母は気がついたんでしょうね。この子1人で何も出来ないわ、って。姉貴に宿題を見てもらうのは勿論ですけど、食事の御膳の上げ下げから、一緒にお風呂に入って体を洗ってもらったり次の朝着る服が枕元に用意までしてもらいましたからね。母も酷いですよね。それをかばねやみ、だなんて」
「今の平川から想像出来ないな」
「そんなことないですよ。やらなきゃならない時は何とかなるもんです。すみません、こんな話を」
 平川は少し気恥ずかしそうな笑みを浮かべると、上着のポケットをまさぐりハンカチを取り出し額の水滴をl拭った。
平川はカバネヤミなんかじゃない。平川の作るスピーチ原稿はいつも完璧だし、今日も地元の有力者をいち早く見つけ片野に耳打ちしたり、こうした手持無沙汰の間を持たせてくれる。

 マイクの調子が悪いらしい。若い職員が数人、代わるがわるマイクの頭を叩いている。時間を過ぎても式典はなかなか始まらない。
 島と本土を繋ぐ橋の建設は町の人々の長年の悲願だった。片野の父は生前、家業の電気設備会社を経営する傍ら町長として橋の建設のために尽力した人物だった。それを知っている町の長老達は涙を流しながら片野の手を握ってくる。父の死後、片野は周囲に担がれる格好で議員になり、2期務めた後、町長に立候補して当選。結果、親子二代で悲願を果たした美談として語り継がれることになった

 島でスナックを経営している真由美という同級生がいる。小学校の頃から知っているが勉強も運動も見た目も地味で1学年1クラスの教室で9年も共に学びながら、プライベートな言葉を交わした記憶がない。平安ちゃん、と陰で呼ばれていた事は覚えている。平安時代だったら美人だったのにね、とクラスの女子に笑われていた。高校を卒業して家業を手伝うようになり、二十歳(はたち)を過ぎると、俺は接待で酒席に呼ばれる事か多くなった。真由美とは高校は別だったので、7年ほど顔を合わせる機会がなかった。だから初めは目の前の厚化粧が真由美だと分からなかった。
 今では月に一度、真由美がフェリーに車を乗せて本土に渡り、夜に車を30分走らせて隣町の古いモーテルに行くのが慣習になっている。何がきっかけでそうなったのかは思い出せない。
どちらから誘ったのかも覚えていない。そんな付き合いがかれこれ30年続いている。
「俺、お前とは結婚しないよ。今付き合っている彼女と結婚する」
 若い頃、片野は真由美を上に乗せたまま言い放った。
「博也は親の跡を継いで社長になっていずれ議員さんになるんでしょ?私、奥様が務まる柄じゃないし、今の仕事気に入ってるから博也の奥さんなんて頼まれたってする気ないから安心して」
 薄暗い部屋で片野はケラケラ笑う真由美を見上げていた。
後腐れのない付き合いが長い間続いていたが、酔っぱらって電話をかけてきて、寂しい、と駄々をこねる回数が増えてきた。ここ5年くらい、40半ばを過ぎた頃だろうか。気楽に家業を手伝っていた若い頃とは違う。議員になってからも周囲の目を気にしながら付き合いは続いていたが、町長になってからは間隔が空くようになっていた。小さな町で噂が立ったら面倒だ。
「本土と繋がったら、いつでも自由にそっちへ行けるのね」
 橋の完成が近づくと、電話の向こうの真由美の声は華やいだ。昨晩も電話があった。夜の7時を過ぎていた。家族で夕飯の食卓を囲んでいる最中だった。片野は秘書課の平川からの電話だと言って庭に出た。
「明日の渡り初め、一番いい着物を着て先頭を歩くから見ていてね」
 真由美は呂律が回らない。
「おい、あまり目立つんじゃないぞ」
片野は軽くたしなめた。真由美の声の後ろに調子の外れたカラオケが響いていた。2人の間には約束があった。電話をかけてきて良いのは夕方5時まで。どうしてもそれ以降になる時は店の外に出る、絶対客の前で電話をしないこと。最近の真由美はそれを守らない。

 マイクの調子が戻った時、大粒の雨が落ちはじめた。空は日が暮れたように暗くなり、雷が近づいている。
マイクの前にテレビ局のカメラが並んだ。待ちくたびれた保育園の子供達は手作りの旗を振らされ、鼓笛隊の演奏が響き渡った。晴天ならば秋晴れの高い青空にお祝いのマーチが吸い込まれていったであろう。しかし今は空に蓋をしたような一面雨雲のせいなのか、鼓笛隊の演奏も心なしかどんよりと聴こえる。式典を取り囲む島の住人を見渡していると薄いピンク色の着物を着た真由美が目に入った。頭を巻き貝のように高く結い上げ、明らかに周囲から浮き上がっている。片野は年甲斐もなくはしゃいだ様子の真由美に気がつかないふりをした。
 片野が挨拶を述べ終わる頃、いよいよ雨は強くなり、あちらこちらで傘が開きはじめた。風に煽られゲートに吊られたくす玉が大きく揺れている。渡り初めの前に保育園の子供達がこのくす玉を割る役目を託されている。片野は平川から渡された白い手袋をはめるとアテンドに促され、他の来賓と共にテープカットのポールの前に立った。ハサミを受けとるとアテンドはビニール傘を差しかけてきたが片野はこれを遮った。雷の音に怯えているであろう保育園の子供達も鼓笛隊の子供達も傘を差していない。片野は目に流れ込む雨をハンカチで拭って奥歯を噛みしめた。
 鼓笛隊のファンファーレが響いた瞬間、頭上で雷が光り、戦闘機のジェット音のような轟音と共に雨混じりの突風が式典を叩きつけた。保育園児が握っていた旗は悲鳴と共に空中に舞い上がった。くす玉は風に煽られアスファルトに落ち、ゆっくりと橋の上を転がりはじめた。
「見て見て!先にくす玉が渡り初めしてるわ!」
 真由美は着物を雨に濡らしながら、手を叩いて大笑いをしている。
 一際大きな悲鳴が沸き起こった。片野がそちらを振り返るとテントが斜めに浮き上がっている。薄い髪を雨でべったりと濡らし、必死の形相でテントの足に掴まる平川が見えた。


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