道を探して(第二話)

 春が過ぎて私は大学三年の半ばに入り、自分はこの大学生活で何をしてきただろうか、と自問自答した。一年生のときは良い成績が取れたが次第に怠け心が現れたため、自分のやってきたこと、主に大学生活での学問に対しずる休みをしたりして無駄にしてしまったことを反省しているうちに鬱っぽい症状になり始めた。通学では駅のホームで電車を待って立っていると、もういっそのこと死んでしまいたい、など思って飛び込む自分を想像しては、「いや、これはよくない。家族が心配してしまう。父が私の死のショックのあまり気が狂ってしまうのではないか」そう感じて家族の愛情のみが私の死への衝動を抑えてくれた。私はまた入院することになった。  大学四年生になり今まで取れていなかった履修項目がいつの間にか増え四年生は毎日連続で授業を受けていた。精神的な体調はあまり良くなく、心配した父親は高齢なのに授業が終わって地元の最寄りの駅に着く夜十一時四十五分くらいに毎日車で迎えにきてくれた。この頃英文学を授業で取っていてその授業が私には楽しかった。イギリス文学の話が多くて有名なシェイクスピアなどはもちろん抜けていないがとにかく私はその授業が好きでイギリスに憧れていくようになった。  無事、卒業論文もとおり、卒業が決まった。二部にいる自分、夜間のコースに通っている自分が嫌でコンプレックスを持っていたが無事卒業できることは嬉しかった。卒業式は袴をはいて近所の写真館で朝早く写真を撮ったあと、式にでた。武道館だ。今ではなんだか心の景色が昔とは違う。辛いのは乗り越えられない自分だったのだ、自分の現状を悲観して他人と比較していた弱い自分だった、と思った。

 学校で卒業式に用意してある学帽も被って写真撮影をしてもらった。最後に夜はゼミでの打ち上げがあったらしいが私は仲のいい一人の友人とカフェで何時間も話し込んで、その後その友人とカラオケに行った。浮かれたあまり初めて終電を乗り過ごした。家に電話を入れると父がでて「早く帰ってきなさい!」と怒鳴って怒りを露わにしていた。父は四年生の一年間、無事私が卒業できるように車で毎日夜に迎えに来てくれた。父の気持ちを考えると私は調子に乗って軽率だったな、と痛く反省し、タクシーに乗った。首都高をタクシーが通り過ぎて行く。真っ暗な闇の中大学での五年間の出来ごとが頭の中を駆け巡った。明け方に家に着いたが父は寝ていた様子はなく黙って目を充血させて椅子に座っていた。このことに関して私は自分がこれほど親不孝と思ったことはないくらいだ。 大学を卒業すると卒業旅行に行くこと、しかもグループで海外などに行くことが当時流行っていた。私は卒業旅行のグループには加わらないでひとりで大学生協でローンを組んでイギリスの語学留学に行くことに決めた。最初の二週間はハーロウ校、最後の四週間はケンブリッジ校の語学学校の予定で滞在形式はホームステイだった。 ところが海外旅行は私にとって生まれて初めての経験だ。飛行機すら乗ったこともない。心配した長女が成田空港までついてきてくれて私は1996年4月26日マレーシア航空でマレーシアのクアラルンプールを経由してイギリスに飛び立った。 残念な展開となったのはマレーシア航空でのトランジットでクアラルンプールのロビーにいた際に薬やガイドブックやホスト先の住所などが書かれた物一式が入ったリュックを盗まれてからだ。スチュアードに言っても英語が上手く話せず、十分にとりあってくれない。私はイギリスのヒースロー空港に着いて途方にくれてしまった。

 お金は持っていたのでヒースロー空港でカフェに入り一日中いた。ときには涙をためたり、しくしく泣いていたり。外国人は他の外国人に対して優しいのではないかと勝手に思い込んでいたため盗難はショックだった。私自身、もう自分で冷静に判断してどういった行動に出ればいいのか、という術が混乱して分からなかった。夜遅くなり、ヒースロー空港のポリスが尋問に来た。私は話せる英語で頑張ってはみたもののあまり通じなかったのだろう。ヒースロー空港の地下にある独房に入れられた。その前にからだをすっぽりしたズックを被った上から婦人警察官に危険なものなど持ちこんでいないか確認された。パスポートをもとに日本大使館に連絡がいったようだ。 独房に入れられておとなしく座ったり横になっている間にふたりの日本人が別々の時間帯に私に面会に来た。一人目の方は優しそうな女性で慈善的な団体の人らしく、必要があれば通訳をする、と言って帰っていった。二人目はやり手の雰囲気の五十代くらいの女性で通訳会社の者だと言って、社長が自分の主人で主人は東大を出ている、など場に不相応な話をして無理やり名刺を突き付けられた。そしてここまで来るのにタクシーを飛ばしてきたがなかなか夜間で捕まらず大変だったと文句を言って去っていった。 私は日本大使館にいった連絡で問題ない人間と分かると翌日ホテルに移動させられて少し休んだが薬がないのでいっさい睡眠ができなかった。警察の人からもこの後は郊外の精神科のある病院へ入院させるために送ると言われた。

 そして私が入院することになったのがロンドン郊外のアックスブリッジにある病院だ。三日間入院して、ちょうどゴールデンウィークにあたったので長女と次女が迎えに来てくれた。ゴールデンウィークという航空券が一番高い時期にブリティッシュエアウェイズで迎えに来てくれたのだ。姉たちも訳のわからない状況に神経を使ってヒリヒリまいになっていた。医師と話して妹を退院させたくても英語が高度で通じない。悩んでいた姉たちに私は気が進まない一枚の名刺だったが通訳会社の人の名刺を渡した。医師と私と姉たちとあの五十代の女性通訳者が入って話し合いが行われた。医師は家族も迎えにきて、病状も私が自分である程度コントロールできる状態となり、うまく説得する材料がそろったので退院を決定した。話し合いは二時間もしくは一時間くらいだったかもしれないが通訳料の請求は四十万ととても高かった。入院費は三日間で一五五二ポンド。当時で換算すると日本円で三十万ちょっとだ。大きいお金が私のために動いてしまった。この一連の大騒動でかかった費用は将来働いて返す、と約束した。 語学留学は失敗に終わり、ハーロウ校にもケンブリッジ校にも行かなかった。帰国して日本のかかりつけの病院に行くと主治医がイギリスで処方された薬は処分しなさい、と強い口調で言った。また普段通りの薬が処方されたがしばらくして入院する状態になり、薬の量は多く、また強くなり退院してからしばらくは一日中寝ているような日々が続いた。 法政大学で真面目に学生らしく学問をしてこなかった後悔が新たな意欲を学問に関して与え、語学留学以前の段階で私は次の進学先が決まっていた。学士入学で慶應義塾大学の通信制の文学部第三類というところに入学したのだ。しかし、イギリスから帰国後の入院で薬が強くなり、思うように勉強がはかどらなかった。初めての夏のスクーリングでイギリス文学をとり、張り切ったが一日ひとこま三時間の講義を一週間受け続けたものの、副作用などがきつくて頭に入らず、自信を失くし、最終的な単位を決定する試験は受けられなかった。

 こんな状態で始めた通信課程であったがあっという間に何も手をつけることなく八年くらい経ってしまった。その間の私は過去にイギリスで経験した失敗の語学留学で英語ができないことを反省し、語学の勉強に時間を費やしたり、アルバイトでコールセンターでテレホンオペレーターの仕事をしたり、アパレルでファッションの洋服や雑貨を売る仕事をしたり、長くは続かない塾講師などをしていた。自分の自我との葛藤の時期でもあった。就職がすんなり新卒で上手くいった友人の結婚ラッシュや出産ラッシュが続いた時期でもあった。結婚などのことで自分は友人と比べて何故できないのだろうと卑屈になったことはなかったがお付き合いしたりしている人がいるときに自分の病気のことを正直に話すことでお付き合いそのものがなくなっていった。 ある時、姉と通りかかった会場で留学フェアをやっていたので少し覗いてみようと立ち寄った。そのときもらったサマージョブのチラシ。穴があくほど握りしめて読んでいたのを覚えている。そこには三十歳以下の大学生であればアメリカに就労の学生ビザを取ってアメリカで働くことができる、というものだった。私はそのチラシに書いてある代理店に通信制の大学生でも構わないのか、と問い合わせをした。そのとき私は二十九歳だった。代理店の方は三十歳以下で現役の大学生であれば通信制は問題ない、とはっきり答えた。

 

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