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「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター」展@Bunkamura ザ・ミュージアム

 ソール・ライターは1980年代までファッション・フォトグラファーとして活躍した。2006年にシュタイデル社から写真集『Early Color』が出版されると、カラー写真のパイオニアとして注目をあつめた。すでに2017年に同美術館で回顧展が開催されているが、今回はアーカイヴから発掘されたポートフォリオやカラースライド、プライヴェートなスナップを加えて、ライターの仕事が多角的に紹介されている。
 
 ライターのカラー写真の要点は、彼の写真では見たいものが何も見えないということにある。ガラス越しのニューヨークの風景は、ガラスに別のものが写り込んで風景どうしがオーバーラップしていたり、ガラスそのものが曇っていたりしてきわめて不明瞭である。あるいは、画面の大半を傘や車の屋根、影が覆って風景を隠してしまう。車のなかから狭い窓のすきまをうかがうようにして撮影された写真も多数ある。雪や雨など悪天候のニューヨークを好んで撮影したライターは、降りしきる雪が斑点のように視界に覆い被さり、風景を遮るの様をわざと画面に取り込んでいる。このように彼の写真では、中心となるべき撮影対象がさまざまな障害によってさえぎられ、焦点がはずされ、鑑賞者が見たいと欲するものが何も見えないのだ。

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 明確な撮影対象を失ったのと引き換えに、写真の画面は重なり合う模様や、純粋な色彩の塊(その正体はピンボケのライト、鮮やかな車の塗装や街の広告である)を獲得する。これは抽象画と同じ効果を持つ。ライターが1950年代のアメリカの抽象表現主義から多かれ少なかれ影響を受けていたのは想像に難くない。実際に彼は「無題」と題された柔らかい色彩による小さなサイズの抽象画を多数描いている。何よりも、彼自身ビュイヤールやボナールを好んで部屋に飾っていたという。これらのフランスの画家たちの絵画では、壁紙や室内のインテリアが前景化して模様を描き、メインとなるモチーフの区別がつかなくなっている。ライターのカラー写真にはこのような絵画の描写の原理が応用されている。

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Edouard Vuillard - The Earthenware Pot [1895]

 視覚には距離が必要である。視覚は触覚や他の感覚と異なり、対象から離れていなければ成立しない。そして眼と対象との距離の間に何らかの障害物や媒介物があったほうが、世界がよく見えてくることもあるのだ。メルロ=ポンティは『眼と精神』の中で、オランダの絵画の中にしばしば室内を映し出す丸い鏡が登場し、室内を「呑み込んで」いることを指摘する。彼によれば、それは「画家の眼差しの象徴」である(『眼と精神』滝浦静雄、木田元訳、1982年、267頁)。そして「鏡というものは、ものを光景[スペクタクル]に、光景をものに変え」るという。
 ライターの写真の光景が写り込んだガラスや車のボンネットは、ライターが見たニューヨークそのものであるとどうじに、彼がいかに大都市に存在し、それを見たかということを明るみに出している。彼はニューヨークを一点透視画法的に見ることはできない。広告、ショーウィンドウ、行き交う人々や車が絶えず写真家を取り巻き、落ち着いてニューヨークというスペクタクルを観察することができず、固定した画像を得ることに失敗している。となれば、写真家はオランダの絵画の中の鏡のように、街を丸ごと「呑み込む」しかない。そのような写真家の眼差しをそのまま提示したのが、映り込みや障害物の多い、見たいものが見えない写真なのである。
 

 メルロ=ポンティは一点透視図法をモデルにしたデカルトによる世界を認識するしかたを退け、次のようにのべる。「私は空間をその外皮に沿ってではなく、内側から見るのであり、そこに包み込まれているのだ。要するに、世界は私のまわりにあるのであって、私の前にあるのではない」(同書、282頁)。厳密に言えば、ライターの見たいものが見えない写真は、自分の「前にある」世界を一点透視図法的に捉えることを拒絶している。むしろ、ニューヨークに包まれた写真家が、自分の「まわりにある」ニューヨークを捉えた結果が、写真上に生起しているのである。
 ライターは次のような印象的な言葉を残している。「神秘的な事柄は馴染み深い場所で起きている。遠くに行く必要は何もない」。ライターは目をみはるばかりのスペクタクルな光景を求めてわざわざ撮影に行くことを拒否している。馴染み深い、自分の「まわりにある」現象をカメラですくい上げることこそが、写真家にとっての見ることの「精神」だと主張しているかのようである。

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