ショートショート021『さよならライラック』
あれは5年前の春だった。
「ライラック味のアメ⁉︎」
僕は思わず紗和に強く言ってしまった。
「あ、うん。みんなへのお土産にどうかなと思ったけど……ダメかな? ダメだよね、えっと、ごめんね」
小柄な紗和が余計にちっちゃくなりながら、うつむく。
そのアメは小箱に入っていて、紫色のライラックの絵のような写真のような柄が大きく入っていた。
その絵柄を紗和は丁寧にそうっと撫でて、そして棚へ返した。
僕たちは札幌・小樽を旅していた。
ライラックは札幌のシンボル的な花らしい。
大通りの両脇に、ずらっと植わっている。
5月になると一斉に紫陽花のような小さな紫色の花をたくさん咲かせる樹木だ。
「香りがとても強くてね、リラックス効果も高いから、香水なんかにも使われるの。私、この香り好きなんだ」
大通公園を歩きながら、鼻をくんくんさせている紗和は子犬みたいで可愛かった。こういうところが魅力的だと思う。
だけど僕は、この香りが苦手だった。
ムワッと全身を包むように甘い香り。
僕たちは小樽でガラス工芸体験をした。
僕はガラスのうつわを。
紗和はグラスを。
うつわは難なくできてしまった。
しかし、紗和は吹きガラスに向かって真剣に、頬を膨らませていた。
汗だくで、真っ赤になりながら作っている。
なんでも一生懸命なのが紗和のいいところだ。が、頑張りすぎな時がある。
職人さんが「ここからは私が代わりますよ」と言ってくれているのに、頑なに首を振った。
最初から最後まで自分でやりたいようだ。
紗和は美大を出ている。でも就職したのは中小企業の事務だ。
何か僕にはわからないこだわりがあるのだろう。
底に気泡が入った、グラスができた。
中身は空(カラ)なのに、炭酸水が入っているように見えた。透明な泡のグラデーションが繊細で紗和みたいだった。
僕たちの作品は、冷やして、細部を加工して、安全に使える状態にしてから郵送してくれるということだった。
届くまでにわりと時間がかかるらしい。
持ち帰って、すぐにこれで紗和の手料理が食べられるかと思っていたので、残念だった。
旅行の話をしながら、彼女の家で小さな食卓を囲みたかった。
しかし、紗和がこのグラスを手にすることはなかった。
僕たちはあの札幌・小樽旅から帰ってすぐ、別れてしまった。
これと言った原因はない。喧嘩したわけでもない。
強いて言えば、紗和がいいと思うものに惹かれなかったこと、だろうか。ライラックの香りのように。
性格の不一致で別れるのは、何も夫婦だけではないのだ、と改めて思い知った。
僕は一ヶ月後に結婚する。
紗和とは違う人とだ。
長く暮らしたこの家を引き払う。
そのための荷造りをしていたら、あのうつわとグラスが出てきたのだ。
新居に持っていくわけには行かない。
しかし、捨てられもしない。どうしたものか。
そう思いながらグラスを撫でていると、パキンと音がした。
僕はグラスを目の高さに上げた。
底に入っている気泡にうっすら亀裂が入っていた。
「あぁ、ヒビが入ったか」
そう呟いたとき、むわんとした甘さが鼻口をくすぐった。
「まさか……ライラック」
その香りだった。
彼女はグラスを作る直前まで、あのライラックのアメを舐めていたのだろう。
慌てて噛み砕いたかもしれない。
そのままガラスを吹いたから、気泡にアメの残り香も入ったのだ。
僕はグラスに顔を近づけて、もう一度息を吸った。
あんまり好きじゃない甘ったるい厚い紫の花の香り。
それを微かに感じながら、息を吐くのも忘れて泣いていた。
声にならない嗚咽は、がらんとした部屋にやけに響いて。
僕は一ヶ月後に結婚する。
自分と相手の趣味が合わなくたって、それを尊重できるくらいには大人になった。
だけど、このグラスたちは持っていけない。
僕はぼんやりと途方に暮れながら、茜さす窓の外を眺めた。
グラスの持ち主はもういない。
僕が見ているこのライラック色の空を彼女は飛んで行ったのだ。
<了>
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