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かわさき市民アカデミー(川崎学)特別講座 登戸研究所資料館見学レポート R6.6.22 アーカイブは大事です!

はじめに

 登戸研究所には一度行ってみたいと思っていました。日本のインテリジェンス機関として有名な陸軍中野学校は、減税師匠、渡瀬裕哉さん(裕哉様)にも関係があります。それは、コチラの本にも書かれています。

その関連で、YouTubeで映画「陸軍中野学校」も見ました。
今、2週間限定公開、とのことです。

午後からは救国シンクタンク自治体経営研究会セミナーがあったので、ちょっと躊躇しましたが、行くと決めました。
明治大学生田キャンパスの一番小高い端っこにその資料館はありました。

資料館概観
資料館入口 シンプルな造り。

渡辺健二先生の講義

 集合時間を間違えてちょっと遅刻してしまいました(;^_^A 教室に入ると、明治大学生田キャンパスを俯瞰した写真とともに、当時何があったか、など話されていました。
 登戸研究所では、スパイが使う道具類や兵器を研究、製造していました。
ペン型の注射器、カメラ内臓スーツケース、消えるインキ、服用後30分で効果が出る毒薬。。。。アニメみたいですが本当の話です。
 最も有名なのは、和紙をコンニャク糊で貼り合わせた巨大な気球を研究、実用化し、全国の女学生を動員して作る司令塔だったことです。気球が偏西風に乗れば動力無しでアメリカ大陸まで到達することを発見し、不幸なことに、いくつかが到達、着陸し、爆弾を浴びてアメリカ国民が犠牲になった事件があったそうです。これは戦争犯罪になりますね。

風船爆弾の模型

 当時、千人ほどの人が働いていましたが、皆が自分のやっていたことを秘密にしました。研究所には当時としては相当な資金が提供されていたそうです。今資料館になっているのは二科(細菌兵器研究)の建物です。 戦後、関係者は皆沈黙していましたが、地元の高校生の歴史を調査する熱心さに心を動かされたある関係者が少しずつ話出したことが、登戸研究所の全貌が明らかになるきっかけになったそうです。

資料館とキャンパス内での記念碑見学

 資料館では定期的に見学会を開催しているようです。

この資料館を残すために、農学部の教授などが尽力したそうです。
木造の研究所は、市の条例に引っかかり、移築には莫大な費用がかかるため、大学側もあきらめたそうです。今は壁やドアの一部と写真が残されているのみで、駐車場になっていました。

跡地

動物実験をしたので、3mの慰霊塔が建っています。これは動物の慰霊碑としては全国でもかなり大きいそうです。兵器研究が評価され、研究者が表彰、賞金千円(今だと一千万円)から慰霊碑建立の資金としたそうです。

動物慰霊碑

支那にニセ札をばら撒く作戦も、極秘で3mの塀の中でニセ札づくりをしていたそうです。。。。(;^_^A

弾薬庫 雰囲気あり過ぎです😅

アーカイブは大事だ!

 たった一冊ですが、貴重な資料が発見されました。ある記録係の女性が、玉音放送の日、すべての書類を焼き捨てる命が下ったにもかかわらず、自分が一所懸命書いたものを捨ててしまうことがどうしてもできず、持ち帰り、長い間箪笥の底に忍ばせていたのだそうです。
 この一冊があったことにより、登戸研究所では何が行われていたかが、かなり解明されたそうです。
 資料を捨ててしまうことは、歴史の重要な手がかりを失います。特に、政府関連の資料の扱いをどうするか、は重要なことです。(実はこれが、同日午後の救国セミナーに関係することでした)

おわりに

 木造の校舎の移築断念には市の条例があったこと、アーカイブの大切さ、最初は毒薬兵器研究をうしろめたく感じていた研究者が、表彰、賞金により、だんだんやる気になった、という話が印象的でした。このような歴史を残し、研究、解明が進むことで、これからの日本、世界のあり方に活かされていくことを切に祈ります。
 明治大学生田キャンパスから帰る際は、出口を間違えると悲惨です笑
生田駅に近い出口から、かならず出るようにしてください。
 レポートは以上です。

減税あやさん R6.6.24記



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