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かわさき市民アカデミー(24前期)自由民権運動講座 第4回R6.6.12 町田自由民権資料館訪問と松崎稔先生講義から

はじめに

 今回の講師は第2回と同じ、同館学芸員の松崎稔先生です。私は、町田自由民権資料館は今回で3度目の訪問になります。

 ちなみに、自由民権資料館は日本に3つあります。できた順番からいうと、福島県三春町自由民権記念館➡町田➡高知市立自由民権記念館になるそうです。

 高知の自由民権記念館は、ユウヤ様、中村英一さんと一緒に、参政党の企画としてご一緒したことがあります。神谷さんも一緒でしたよ。6回シリーズで記録しました。

松崎先生の第1回目の講義レポートはこちらです。

 前回は、トリビアだな~と思った点をレポートに残しました。今回も、トリビア、な話題満載でした!まぁ、歴史とは即、トリビア、なのかもしれません。
 以下、とりとめないのですが、松崎先生のお話から印象に残ったことを綴ります。

困民による武装蜂起は自由民権運動なのか

 松崎先生は、前回の講義でも、自由民権運動が自由主義経済への移行期である、とレジメに書かれていて、あれ?ユウヤ(渡瀬裕哉)様とお考えが近い?と思っていました。(学者、研究家は左翼が多いという先入観があります笑)
 今回の講義の中でも、生活に困窮した農民が起こした武装蜂起については、”自由民権運動”の思想を理解していた行動ではない、と考えていらっしゃるようです。しかし自由党が、党員や支持者を獲得するために、そのような人々を取り込むような動きがあったし、その後逆にそのような人々を排除した、ということもあったそうです。
 「党」という言葉はもともとよいイメージがありません。「徒党を組む」など暴力的な集団、という意味合いがあるようです。自由党、はあえてその「党」を使った政治団体だった、ということです。
 自由民権運動は、議論で戦う民主的な運動なのですが、つい数年前まで刀を振り回していた時代でもありましたから、刃物沙汰になることも珍しくなかったようです。

自由民権家は地域の産業を興した実業家

 これは、ユウヤ様の自由民権説で認識したことです。松崎先生はそこまで明確には仰いませんが、地域の産業や企業を興したり、事業を拡げた民権家をご教授くださいました。

村野常右衛門 東京時計製造株式会社

 村野は、今の町田市野津田町にある町田自由民権資料館が建っている土地のもともとの所有者で、「凌霜館(りょうそうかん)」という若手民権家が文武を学ぶ道場を作りました。この跡地に同資料館があります。
 村野常右衛門については、こちらの論文も詳しいです。
 自由民権運動の壮士たち 第15回 「縁の下の力持ち」として至誠を尽くした男 村野常右衛門(神奈川県・東京都) 【前編】

 こちらの論文にも書いていなかったことがあります。村野は東京時計製造株式会社を作りました。
 http://www.kodokei.com/ch_016_1.html


しかも、私の地元である川崎市高津区二子642番地に本社移転したそうです。駅の真ん前にあったとか。今ではビルになっているそうです。
 ガチで地元に事業家である自由民権家がいたことを知りました。

青木正太郎  京浜急行電鉄

 wikiによれば、青木は京浜急行電鉄を興したわけではなく、のちに社長になりました。青木の家は豪農で、娘の夫が同鉄道会社を興した人栗生武右衛門(1853-1936)の弟でした。
 神奈川県会議員、衆議院議員を歴任しました。

展示室見学

 ここは撮影NGの場所。これで3回目ですが、今までよりは勉強しているので、かなり興味深くみることができました。年表を作ったのは勉強の助けになっています。

 松崎先生は、明治政府もけっして国会を作ろうとしなかったわけではない、というお考えを述べられていました。偏った(左派的な)研究員では無さそう。。。と思っています。


年表は撮影可


個別質問からのトリビア

民衆は自由をどう捉えていたか

 参加者の方の質問で、知識階級ではない農民はどのように「自由」を捉えていたか、という質問をされていました。おそらく、江戸時代の武士の権力から解放される、という意味で自由を捉えていたのではないか、ということでした。

県会 民意を反映した予算審議

 県会は、予算審議をすることしかできず、予算の決定権は知事にあったそうです。民意を反映した予算審議をする、ということがまずは自由民権運動の第一歩だったのですね。

石阪昌孝(いしざかまさたか)の県会の記録

 実際に議会でどのような発言、活動をしていたのか、議事録があるのか尋ねました。現物の文書は子孫とか持っているかもしれないが、当時は新聞に議会のことが掲載されている、とのことでした。
 石阪は,第1回県会の議長でしたが、議員の発言に怒って、午後の議会をボイコットし、そのまま議員を辞めてしまうという顛末だったそうです(;^_^A 


経緯が書いてある本
経緯が書いてある部分

速記のはじまり・帝国議会1回目から議事録があるのは

 自由民権運動は演説も盛んでした。演説内容を後日、新聞や雑誌で発表することでさらに草の根に広げていきました。そのため、演説を素早く書き取る必要がありました。その素早く書き取る技術がのちの速記術を発達させることになり、国会が開設される準備として作られた県会の議事録は、まずは新聞に掲載する、という形からやがて議事録へと発展しました。


 なので、ヨーロッパで議会ができた当初は議事録がなかったのですが、帝国議会は第1回から議事録があるんですよ!というのはトリビアでした。

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/simple/dispPDF?minId=000113242X05518910228#page=1

第1回帝国議会衆議院本会議 第55号 明治24年2月28日 p1

民権運動の分類 

 裕哉様は、士族民権、豪農民権、農民民権?だったか、3つに分けていたような気がしました。。。アカデミー第3回の福井淳先生は、在地民権、士族民権、都市民権だったかな。視点の違いで分類も色々なのは承知しています。でも、士族と都市が同じ意味だったか?ちょっとそのあたりがよくわからなくなってしまい、松崎先生はどうお考えなのか、質問してみました。
 出自で分けるのか、どのような状況、立ち場から運動に関わったのか、でも違ってくるでしょう、というお話でした。在地民権、士族民権は出自からの分類、出は農民でも勉強するために都市にでてきたら都市民権。ということかな?またこの辺りは勉強しておきます。

候補者の決め方・予備選挙をやっていた!

 県会は当初、立候補制ではなく、自分の推しの名前を書く、という制度だったそうです。ビックリしました笑 その後、候補者を出すようになり、自由党では地域を区域に分け、区域ごとに候補者を出したそうです。そのとき、区内の党員が予備選挙を行い、候補者を決めていたそうです!
 しかし、その後は豪農が土地を”推し”の候補者に与えることで実質的な力を持たせるようになる、など少しずつ関係性も変化していったそうです。やはり、権力が腐敗するのは世の常、ですね。

おわりに 自分の今に引き寄せて

 この講座には、おそらく20~30名以上?の参加者がいて、大変盛況です。
とても詳しそうな方もいらっしゃいます。ほぼシニア世代です。平日午前中に参加できる市民、といえば限られますよね。いつものスタイルで見学に参加したらすごく驚かれました笑 いつもこんな格好なんですー笑

 「川崎学」というカテゴリーの講座です。歴史を知ることは、それだけでも面白いことです。トリビアだらけだし!そして、今の日本の政治状況と照らし合わせて今を考えることも、オトナの教養として大変重要だと思います。 自分はさらに、この歴史のうごめきを、実際今の行動に活かせることがないか、という視点も加わっています。このブログを読んでくださる方の興味を喚起する、ということも目的です。そのようなワクワクする勉強ができて、本当に幸せだなぁと思っています。

今回のレポートは以上です。お読みいただき、ありがとうございました!
次回は、五日市憲法の講義です!楽しみです。

減税あやさん

参考:
町田デジタルミュージアム


 


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