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かわさき市民アカデミー(24前期)自由民権運動講座第8回「川崎の自由民権はどのような活動をしたのか」菊地恒雄先生 R6.8.7

はじめに

 8回が前期最後の回でした。通常は7回で修了するそうです。
 今回の講師は、日本地名研究所菊地恒雄先生です。この川崎市民アカデミー川崎学全体の研究課題は、菊地先生が監修されているようでした。
 菊地恒雄先生のことは、このアカデミーに参加して初めて知ったのですが、他所で開催された川崎市内の地名の講座はとても興味深い内容でした。
 それもそのはず、菊地先生は地名のご研究、つまり、地元の歴史博士(といっていいような方)だったのです。。。。
 今回は川崎の自由民権についてです。私ごときが一人で調べていたことは、はるか足元にも及ばないものでした。しかし、自分が調べた経験、分からなかった経験があるからこそ、今回の講義は本当に興味深く聞きました。
こんなに詳しい方がいらっしゃるなんて感謝です!

 講義を再現することはできないのですが、印象深く、記録しておきたいことをまとめます。

川崎の立ち位置

 こんな地図があったので、参考までに貼っておきます。
 川崎市は、この当時の武蔵国橘樹(たちばな)郡の黄色い部分に
現在は相当します。
 
JR南部線に、武蔵四兄弟、と言われる駅が並んでいます。
 武蔵溝ノ口、武蔵新城、武蔵中原、武蔵小杉、
です。
 東京都内にも武蔵がつく駅名がありますよね。
武蔵国だった時の名残です。
 相模国と併せて武相地域、といいます。
 武相は自由民権運動がとても盛んでした。

羅針盤航海日誌 橘樹郡衙跡(たちばなぐんがあと)を訪問しました より

橘樹(たちばな)郡親睦会、頼母子(たのもし)懇談会、井田文三、上田忠一郎

 このあたりは、神奈川の自由民権運動について書かれた本には出てくる名前ですが、いまいちピンときていなかったことがあります。
 親睦会、というと仲良しクラブ、っぽい響きがありますが、これは官僚の取り締まりを免れるためのカモフラージュです。実際は戸長(地域のリーダー、税金を集める役目)が集まって意見交換をしていました。当時は自由民権の活動に対し、政府が言論弾圧(集会の禁止など)をするので、その追及を逃れるためのネーミングでした。
 頼母子懇談会も途中から名前を「頼母子」とし、集会の禁止を免れようとしました。減税会を、お茶会と言ったりするのと似ていますね笑
 講とは、お金を出し合って無尽(いわゆる基金)を設立し、貸し借りをする相互扶助的仕組みです。江戸後期に二宮尊徳が五常講※を考案しています(※松沢成文著『教養として知っておきたい二宮尊徳』より)。

 橘樹郡親睦会には上田忠一郎が出席しています。頼母子懇談会は井田文三が会主を務めています。
 井田文三は戸主でした。戸主は、役人の命令を守るだけの仕事だったため、嫌気がさして辞めてしまいます。第1回~4回まで県議を務めますが、その後立憲改進党に入党します。立憲改進党は都市の知識人が母体となった党です。(立憲改進党については当noteをご参照ください。)

 上田忠一郎は第一回県議会議員を務めたのち、学校の運営に携わるなどして、地域の文化サロン的な役割を担いました。
 上田家屋敷が現存していて、大変驚いたときのnoteです。

 上田家が醤油事業で成功したのち、どのように事業が変化したか、の講義まとめがこちらです。
 

河合平蔵(かわいへいぞう)を知っていますか? 

 菊地先生の今回の講義で最も強調したいことが、このことでした。どうしても、井田、上田の話で終わってしまいがちなのですが、河合平蔵(天保9~明治31 1838~1898 享年60歳)もいるよ、と伝えたかったそうです。現在の多摩区の戸長を務めました。
 先の親睦会、懇談会に出席し、私立稲生高等小学校を設立しました。河合も学校運営をしていたのですね!
 医学を学んでいた河合の子孫には、補聴器を発明した人がいるんです!補聴器の技術は、戦時中、潜水艦の音波探知の仕事をしていたことからの発明だそうです。お墓が生田の盛源寺にあります。

河合平蔵顕彰碑

国会開設後の民権運動

教育

 教育に力を入れる民権家がいました。上田忠一郎は今の高津小学校の前身になる学校建設のため、土地を提供しました。
 鈴木久弥は成城学園に土地を提供。井田文三は、向ヶ丘小学校の前身である等覚院内の寺子屋から始まる、経綸学校を運営しました。
 稲生高等小学校(生田村長沢)の他、成志学校(稲田村菅)、時習学校(中原村下小田中)もありました。(携わった民権家は先生に聞いてみないとわかりません(;^_^A)
 税金で教育が行われるようになるのはもっと後になります。それまでは地元の民権家が私費、私有財産をつぎ込んで教育に力を入れたのでした。

文化

 溝口演劇集団、民芸運動(浜田庄司の益子焼)、文学、句集、医療(大貫医院、岡重孝薬医 などがありました。岡本太郎の母、小説家 岡本かの子は、大貫病院の大貫寅吉が父親です。
 
 政治運動だけではなく、自由な風土や文化芸術、医療、産業の発展も自由民権の活動なのですね。

おわりに

 以上は簡単にまとめたものですが、講義では菊地先生が調査された、親睦会への出席名簿や、鈴木藤助(すずきとうすけ)日記に井田文三と頼母子講についてのメモ的記録があり、とても貴重な情報となったそうです。
 過去の記録は、偶然と奇跡の連続で掘り起こされる!そんなことを改めて強く思いました。
 もしかすると、神様が人類の発展のために、最高のタイミングで貴重な史料を発見・発掘させてくださるのかもしれません。
 第5,第6回のレポートは五日市憲法草案についてなのですが、6回の遠足に行けなくなってしまい、レポートできずにいます。新井先生が発見された、五日市憲法草案のレプリカを見せていただきました。

 今回初めて参加した、川崎市民アカデミー川崎学。素晴らしい先生方との出会いがあり、今後もこの出会いと学びを継続発展させていければと思います。
 感謝します。

減税あやさん かわさき減税会 R6.8.14記

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