祖父の話

先日、母方の祖父が亡くなった。喉の病気が原因だった。91歳。
最期の瞬間には立ち会えなかったが、まるで眠るように、安らかに亡くなったそうだ。
今でもまだ信じられない気持ちが正直ある。でも、今のこの私の記憶や感じたことをどこかに残しておきたくて、こうして書きしたためることにした。備忘録として。

デイケアセンターで祖母と過ごしていた祖父は、ほんの1か月前に体調を崩して入院したばかりだった。
喉の調子が悪い、熱があると言って自分で病院に電話で問い合わせし、医者から納得のいく答えをもらうまで、色んな病院を移動して回ったそうだ。体調が悪いのに無理するなと今なら言えるけど、生真面目で頑固な人だったから、きっと聞く耳は持たなかっただろう。
良い病院を近所に見つけたあとも、ひとり残してしまう祖母の心配をしながら渋々入院することにしたと聞いて、ああ、いつも通りの気丈なおじいちゃんだねと家族一同笑っていたのが、つい昨日のことのように感じる。
だから、入院後初めてのお見舞いで、薄暗い小さな部屋で点滴に繋がれてやせ細った姿を見たときはかなり大きなショックを受けた。腕は今にも折れてしまいそうなくらいで、ベッドの固い手すりがやけに太く見えた。表情に出ないよう必死で笑顔を取り繕ったけど、きっと泣きそうな顔をしていたのはばれていたと思う。
でもベッドに横たわる祖父は目もしっかりしていたし、私のことを今日も美人さんだね、なんて褒めてくれて、ホッとしたのだった。
その日はたまたま、祖父母の自宅ヘルパーさんもお見舞いに来てくれていた。私が来る前に色々と筆談でおしゃべりをしていたらしく(喉の悪い病気なので、あまりたくさん話せなかったのだ)、病院の先生の愚痴なんかを散々話したからか、筆談用のノートは絶対に隠しておいてよ、と釘を刺してきたのが面白くって、なんだ、いつも通りじゃん、なんて笑って話していた。
面会時間が終わった8時過ぎ、帰りのタクシーをロビーで待ちながら、ふたりで祖父の話をした。「思っていたより会話ができたね」とか、「相変わらず毒舌で愉快な人だ」、「肌はツヤツヤで元気そうだった」とか、励ましあうように印象を語った。でもだんだんと互いに言葉数が少なくなり、ふたりして人気の少ないロビーのベンチでひっそりと泣いた。
祖父は明るく振舞っていたけれど、病室の閉まったドアを見つめながら、ふと感じてしまったのだ。「おじいちゃんにこうして会えるのは、もしかすると、もう数少ないのかもしれない」と。数年前に祖母が亡くなったときのことを思い出して、胸がざわついた。
それくらい、祖父が弱っている姿を見るのは堪えた。高齢だし、いつそうなってもおかしくないとわかっていたはずなのに、あの祖父がまさかこんなことになるとは想像もしていなかったから。

福岡に生まれ育った祖父は、学生の頃からたいそう立派な優等生だった。勉学熱心で、大学卒業後は当時の大蔵省で税関の審査官として腕を振るい、転職後は定年まで建設会社の法務部長を務めていたそうだ。
非常に頭の回転が速い人で、記憶力も抜群。ユーモアのセンスもあった。
90を超えてもなお、若い頃の昔話や、歴史的政治や事件のあれこれを聞かせてくれたし、最近の時事ニュースについての持論だって私より引き出しがあるくらいだった。(どうやら、雑誌やwebメディアに「こぼれ話」として、定期的な連載もしていたらしい)戦争時代の裏話なんかは、本やテレビで見るよりもずっとリアリティがあって面白かった。
インターネットも使いこなしていたし、有り余る時間を使って、パソコンのwordで壮大な「自分史」を書き残したりもしていたのだから驚いてしまう。
ひとつ、今でも笑える話がある。
デイケアセンターでは定期的にカラオケ大会が催されていたのだが、祖父はとても歌が上手く、優勝多数の人気者だったらしい。
なんでも話を聞くと、レベルの高いライバルじいちゃんが一人いて、負けず嫌いの祖父はYouTubeでカラオケ動画を見ながら部屋で何度も練習していたそうだ。さすがにハイカラすぎて、それを聞いたときは家族みんなで爆笑したものだ。

振り返ればさまざまな思い出があるけれど、私が小さい子供だった頃はもう少し堅物だった記憶があるから、歳を重ねてだいぶお喋りになったのかもしれない。
昔は横浜にある自宅の二階部屋でずっとラジオの野球実況放送を聴きながら書き物や読み物をしていて、夕ご飯のときくらいしか下に降りてきてくれなかった。廊下の天井から小さく漏れ聞こえるラジオの音声が気になって、壊れかけの階段をぎしんぎしん鳴らしながら二階に上り、ちょっかいを出しに行くのが楽しかったのを覚えている。
祖父の部屋には母の古びた写真や交換日記などが置きっぱなしになっていて、それらを眺めながら、何を会話するでもなく、空気のこもった部屋でゆったりと一緒の時間を過ごすのが好きだった。野球のルールはよくわからなかったから、ラジオの内容にはあまり興味がなかった。机に向かう祖父の背中と毛玉のついたセーター、老眼鏡の輪郭がぼんやりと記憶に残っている。
そういえば、祖父は写真が好きで、最新のデジカメでよく私たちを被写体に撮影してくれていた。しかし恐ろしいほどにセンスがなくて、撮った写真を見ても、棒立ちでよくわからない背景や表情のものばかり。学はあっても芸術の才能はなかったらしい。(一応、その才能は私の母のもとで開花したようで、よく母に写真の撮り方を指導されていた)
撮った写真は必ず毎回現像し、手紙と一緒に郵送してくれた。こういうところからも、マメな性格がよくわかる。今ではパソコンデータで送れるようになったから、そんな機会も減ってしまったけど。

なんだか色々思い出すままに書いていたら、とりとめのない文章になってしまった。
とにかく、こうして振り返ってみて、改めて祖父という人の幅広い人間性を尊敬し、学ぶことが多くあったと感じている。
母にとっても、私にとっても、情熱にあふれる偉大な人だった。
100歳まで生きると彼は言っていたそうだけど、残念ながらそれは叶わなかった。でも、それ以上にたくさんのものを残してくれたと思う。
本音を言えば、もっとたくさん話を聞いてみたかったし、いろんな話をしたかった。後悔は確かにある。ここ数年で「死」というものが遠い話ではなくなってきて、会えるときに会っておくことの重要さを痛感した。人生は永遠ではない。身近な人たちのことを、今まで以上に大切にしていきたい。

#エッセイ #日記 #祖父

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