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「今ここ」を感じたら、「自分がいる」ことを感じた日

ZaPASSコーチ養成講座の最終章となるAdvance編に参加した。
5/29-30、1泊2日の合宿。4期・5期の11名と講師&運営さん3名の計14名。
一時一時がこのメンバーだからこそ生まれ、創り上げられた、そんな時間だった。
合宿を終えた今も、ペンギン歩きになってしまう後遺症と2日を共にした仲間たちとのやりとりにウルルン&エンパワーメントされてしまうような、心身ともに刺激を受けた時間だった。

Advance編は、新たなことを学ぶとか劇的な何かに出会う!とかでもなく、Basic、StepUpでの気づきや学び、自分を作り出してきた過去(history)に目を向け、メンバーと時間を共にしひたすら「今ここ」を感じながら、体感と対話の連続の中で、じわ~じわ~と自分の内部に深~く入り込み、時に何かにぶつかりつつも、ひたすら体感⇔対話を繰り返すことで、今ここを感じ、自分に問いかけ、内省を深め、気づきを染み渡らせたり新たな泉を見つけたり、そうして自分の願いに出会っていく、そんな丸2日のコーチングを受けているようだった。

そして、結果的に「今後の人生の起点」になる時間となった。まだまだ後から「あ、あの時」が生まれるな、と山から里に降りた今感じている。
“ここにいる” “ここからはじまる”の感覚を得た貴重な2日間の心のうごめきを、未来の私への備忘録として、立ち帰る場所として、残したおきたいなと思う。

▶言葉にする、感じたことから全てが始まる

合宿を一言で言うなら、「今ここを感じて言葉にする」である。
みんなのそれを取り扱い、分かち合うことの連続で、一瞬一瞬が紡がれていく場だった。

・考えるではなく感じる
・感じたことを言葉にする
・言葉にならないモヤモヤもあえて言葉にする
・心に止めて置き過ぎない
・感じたことから全てが始まる
・自分の声に意識的に耳を傾ける

この2日間を左右する「掟」である。これが、私には本当に難しかった。

▶私の大敵「ビビリちゃん」の根源を探せ

人は誰しも心にいろんな自分(モンスター)が潜んでいると思う。しっかり者、頑張り屋、負けず嫌い、自信がない、他人と比較する….こんないろいろな自分全部含めて自分なのだが、特定の出来事や特定の人と出会ったとき等、環境によって、うごめくモンスターが変わってくる。
私は、自分の自信の無さやそれから来る人前で話すことの苦手意識、そのことで様々な機会を失うことや、自分の考えを伝えられないことにもどかしさを感じていた。これまで何度もコーチングのテーマにも挙げて向き合ってきたものの、いざという時に結局1歩を踏み出せない自分にイライラしていた。
そんな時に湧いてくる心の声は、「伝わらないかも、間違ってたらどうしよう、自分の考えは場に合ってない、失敗したらどうしよう、縁が切れる、機会を失う、自分なんか、否定されるかも、怖い」「・・・結局また同じ状況じゃんほんとダメだな自分…」こんな声の数々。
私はこの心の声を「ビビリちゃん」と名付けていた。

私にとってビビリちゃんは、特にここ最近の最大の壁。ある環境下になるといつも出てくる。ビビリちゃんが出てきたことに気づいたら、モグラ叩きのように、おりゃおりゃおりゃ!と叩きのめして、お願いだから引っ込んで!!と、必死に引っ込ませようとしていたけど、それでも引っ込んでくれない日々。だから、この合宿中にビビリちゃんの生まれた背景を解き明かし、うまく取り扱えるようになって、OSをアップデートするんだ!と意気込んでいた(合宿序盤のこの時は…)。

その後も、対話やアクティビティを通して、「根源はなんだ、何が私をこうしてるのだ、思い当たることもある。でも、理由はそれだけじゃないし、他にありそう。なんだ?なんだ・・・」と、ビビリちゃんばかりにスポットを当ててあれこれ考えていた。みんなで感じたことをシェアする全体の場になると、結局、緊張していたり、ためらっていたり、時間をとってしまわないように早く終わらさなきゃと思考が働いている自分がいたりで、情けなくなっていた。

1日目の終盤「明日には終わっちゃうのに、何かこの後どうなるんだろ~。なんだかな~」そんなことを感じつつ、小寺さんのお話の節々がグサグサグサ。「環境ではなく、自分である」「不安を感じるのは自分が選択している」いろいろなお話をされているのに、こうしたフレーズだけが入ってきて頭の中をグルグルグル。(もっと他の部分もちゃんと聞いておきたかった笑)

その夜、どんなに先を考えたって、今ここの自分を感じ全身全霊をかけなければその先がない体験をした。今ここを必死に全力で感じとっていた。これが、「今ここ」を感じ始める1つのきっかけだったかもしれない。

▶葛藤と決意

2日目朝ジャーナリング(抜粋)

深い部分に入れていけてないない感。まだまだ気持ち、表現を殺している。出せてない状況がある。変わるのは自分。感じること、言葉にすることから始まる。何にためらってるの?いつもよりためらいは溶けている。出す。思ったままに。夕方には終わるよ。何を得て帰るの?得られるのか?言葉で表現するからこそ感じられるものがある。変わり始める。変わりたい。そのきっかけだけでも掴みたい。「自信がない」を逃げ言葉にしたくない。昨夜のインスピレーション言えなかった。まだうずうず残ってる。そーゆーとこ。あんなの何言ったっていーじゃん。周りと比較?ここに比較する人いない。責めてくる人もいない。感じたら出す。それだけ。

朝からとても葛藤していたようだ(笑)

メンバーが感じた私:惑い、(助けてという)叫び、恐れ、不安、諦め、自暴自棄

今の自分を人に見せないことで安心。人に見られないようにすることで安心を得ているかも。今に本気じゃない。今ここの自分を見ていない。大切にしていない。人のためには本気で動くのに、自分には本気じゃない。それって人のため?
【願い】自分のために本気になる。それを誰かに見てもらう。

葛藤の後には決意していたようだ。

メンバーが感じた私:変わろうとする火種はもうある、それを出そうかどうしようか蠢いている、誰に見せたいの?(→後から湧いた。「関わる全ての人」に見せたい。取り繕った自分で全力になることの不誠実さ。本当は生の今の、純粋な志を持った自分で関わりたい)

その後は、歩きながら、自分のことよりも没頭する仕事を思い浮かべ、自分が本気になれる相手、本気になれない相手をとにかく書き出していた。

〇本気になれる相手
制約に縛られないでまずは理想を考える、結果よりもプロセス・あり方を大切にする、結果を点ではなく線や面で捉えている、挑戦の意志がある、変わろうとする、未来につながるワクワク、課題に向き合う覚悟、共に行動する、楽しむ
〇本気になれない相手
やりっぱなし、諦め、自分の意志がない、口だけ、本心で語らない、後で不満を言う、やれない理由ばかり、任せっきり

これを書いて気づいた。今の自分は「本気になれない相手」に近い。
だから、そんな自分を見られたくなくて今を感じることを避けているのかな?
自分に本気で夢中になりたくなるくらいワクワクすることをしよう!

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▶秘めた想い、湧いた感覚の出し所

「今でしょ」
とあるアクティビティの最中。私はいけるタイミング、力の出し所を冷静に考えていた。始まる前から「よし、絶対いく!自分ならいける!」と思って、前向きな気持ちでいた。
なのに、なのにだ。ストップがかかり、セコンドに扮したたけさんに「手抜いているでしょ。力入れてないですよね。今本気出してないですよね?グッと行く所を見せて欲しいんです」と言われた。(他にも言葉を頂いたが、ここしか残っていない笑)
咄嗟に感じたのは、悔しい!え、そう見えてるの?すんごい集中して真剣に出し所を考えていたのに・・・「絶対行けるタイミング、冷静に考えてたんです!」と伝えたくなった。(よく見せたい、自分はできる、負けず嫌い。そんなモンスターがうごめいていた)
けど…確かに力は入れていなかった。様子を見ていた。ここだ!というタイミングを探していた。そんな思考が巡った途端、
「あ、これいつもの自分じゃん。これだわ、日常もいつもいつもこれ!はぁ。」と落胆と恥ずかしさが湧いてきた。

気づいたこと、感じたこと、よし行くぞ!と思う瞬間はたくさんあるのに、周りの様子を伺ったり、人の意見を待ったり、周りを優先してしまったり、そのうちに言い出すタイミングを失ったり、自分の話すこともそれに合わせようとしていたり…
だから「今ここ」で感じた自分の言葉じゃないから自信がなくなったり、自分の意見は間違っているなと感じ始めたり、そうこうしているうちに次の時間があるだろうから今から自分が話すのは迷惑だよな。とかとか。

考えるからタイミングを失う。考え始めたら頭は「未来」と「相手」にあって、「今ここ」の「自分」じゃなくなる。
てことは、今も先を考えてタイミングを見計らっているけど、そのうちにタイミングを失うぞ?良いのか?そう気づいた途端、負けず嫌いモンスターがしっかり現れた。
あとから思うに、たけさんに声をかけてもらったことも、「自分をみてくれている人がいる」という安心と、「期待に応えたい」という力にもなっていたように思う。

「いける!」と直感で思ったなら、自分ならいける。湧いた感覚は湧いた時に出す。今ここの感情のうごめきを遠ざけない。
今ここの自分に集中すれば自信はあるのかもな~。自信なんて考えずに、もっと気楽になるのかもな~。そんなことも感じた。

▶会話は終わる、感情の対話は終わらない

メンバーが全体の場であったかいメッセージを伝えてくれた。本当に、本当に嬉しかった。だから「ありがとうございます」と伝えた。
…数秒後、「感じたことを返すんですよ」と。(え…?感じたこと、、、ありがとう。。?)
その後、ぎこちなかっただろうけど、感じたことを言葉にしてみた。そしたらまた還えしてくれた。そしてまた言葉にした。そしたらまた…

普段の仕事では、感じたことを話せる環境にはなかった。感じたことを出しても受け止めてくれる人はいなかった。受け止められることもなく、返って来る言葉に、血(その人の意志や熱意)は通っておらず、ただただ作業的な言葉だった。また、仕事柄非常にたくさんの人の感じたことを全部受け止めて、その想いをまとめて未来を描くことばかりしていた。ひとりで。
自分の感じたことなど、伝える暇も余白もなく、その立場にすらなかった。でも、熱い想いは持っていた。この想いを分かち合って、一緒に歩む人が欲しかったが環境的いなかった。1人で太刀打ちできる世界ではなかった。だから、1人で熱意を持つのはあほらしくなっていき、いつしか熱意は自分の奥底にしまい込み、とにかく淡々と会話を処理して、みんなの想いを練って、また一人黙々と。そんな日々を続けてた。

だから、想いに想いが還ってくるのは新鮮で本当に嬉しくて(あとみんなに見られている緊張で)、正直何を言ってくれていたかはっきり覚えていないんだけど(ごめん笑)
心から言葉を送ってくれていた感覚、感情を分かち合いたい、感情のエネルギーの交換、循環だよという言葉が、ぐっと心に残っている。
「今ここの感情のキャッチボール=対話」は、受け止めてくれる人がいる限り終わらないのだな~と、そのあたたかさを心から感じさせてくれた。

(ふと湧いたのでメモ。「感情の対話に終わりはない=つながり?」「想いの集まりと共有=つながり?」これきっとなんか私のキーワード)

▶目は全てを語る、安心を全身で感じたら

“エンジェルアイ”
Basic編では特に何度も出てくるキーポイント。私自身セッションで大切にしていることの1つたけど、正直どこかお作法的に「温かく見守る」を意識していただけのような感覚であった。
けど、違った。
「目は全てを語る。眼差しはメッセージ。目でその人を感じられる。」

とあるタイミングで、私はその場にいた全員に見つめられ、1人1人全員の目を見ることになった。その時、みーんなあったかい眼差しで、「大丈夫だよ、ここにいるよ、見てるよ、平気だよ」そんな声が、目だけで伝わってきて心から安心した。あの時の温もりも、安心感も、受け止めてもらった感覚も、今もじわ~っと残っている。同時に、あ、今ここに自分がいるんだな~いて良いんだな~、みんながいる、そんな感覚で心がポワ~っと温まった。眼差しの偉大さを誰よりも感じさせてもらった。
今これを書いていても涙がじわり。そんくらいあったかい、ありがたいものだった。
みんな、最高のエンジェルアイコーチだよ!!その眼差し、たくさんの人に届けて!

そしてもう1つ。言葉でも、文字でも、感情だけでもない、物理的な「受け止める」をみんなから頂いた。それを感じた一番最初の瞬間に「あ、もう大丈夫だ」と力が抜けた感覚があった。みんなが一体になっているのを感じた。味わったことのないとてつもない安心感と、必ず受け止めてくれる人たちが今ここにいることを体感的に味わった。その感覚は身体にまだしっかりと残っている。
そして再び、今この瞬間にここに自分がいて、1人じゃないことを感じたらとっても安心した。

あとから聞いた話。この一連の流れの中で、「あの時みんな同じ想いだったよ。自分たちもそれ感じてたよ」「愛おしかったし支えたかったし、みんなそんな気持ちであの場にいたよ」「そんな風に言葉なくともみんなの想いを1つにしちゃうのもあやさんだからこその魅力だよね」と何人かが伝えてくれた。ほんとにほんとにほんとうにありがたい。ありがとう。

▶「今ここ」の感情は連鎖する

2日間を通して、「今ここ」にいることを体感した時に自分が感じてたのは、「安心」「信頼」「あたたかさ」「つながり」そして「苦しさ」「寂しさ」だった。

物心ついた頃から家族の場は安心できる場所ではなかった。自分の意見は聞いてもらえず、怒鳴られるのが当たり前。それ故に纏うようになった「しっかり者」「強い」「完璧」「責任感」「周囲の空気を察知」の鎧(モンスター)で学校でも過ごしていたので、よくよく考えてみたら気が休むところ、安心できるところはあまりなかったように思う。自分の感情なんて必要ないと思っていた。出さないほうが平和だし、みんなを感じ取って合わせる方が物事うまくいくから。それにそうすることで先生に褒められたりもしていた。
こう書くと重たそうに見えるが、はたから見ればごく普通に仲の良い家族に思われる程度な関係にあったしこれが普通と思っていたので、うるさい父親がいるな、くらいにしか思っていなかった。

社会人になってからも、そのモンスターがいたからこそたくさんの機会や役割をもらい貴重な経験をさせてもらうことで、その鎧(モンスター)は強靭なものになっていた。
でも、この数年、あまりにも役割の量も背負うものも大き過ぎて、本当にどうしたら良いのかわからなかった、辛かった、けど、助けてくれる人も頼れる人もちょっとした相談をできる人もいなくて孤独だった。
そして、疲れ果てたけど「疲れた」も「できない」も言えないし、自分が止まったら代りがいない。自分自身しっかり者で強いと思い込んで生きて来たから壊れそうになる自分が怖かった。それでも何度か助け舟を求めてみたけど、返ってきた言葉は「君なら出来るよ。これまでこれだけのことやってきたんだからいけるよ。信頼してるよ」その言葉に、信頼なんてなかったし、血の通った対話もなかった。

でも、やっていることは確かにやりたいことでもあった。それに未来の子どもたちに繋がっていくことであったから、なおさらその想いは強かった。
だから、今ここの感情にはとにかく触れないように、感じないように蓋をして、今ここの自分から離れることで耐えて、理想の未来だけを考えて〇〇のためにと、それに向けて全力だった。それで感じる辛さも自分の実力が足りない、自分が成長すれば済むことだと捉えて、いろいろ必死にやっていた。

が、自分の認識以上にこうした日々が自分にとって大きな痛みだったということを、この2日間「今ここ」を感じることを通して、気づいた。
けれど、一緒に働いていたわけでもないし、過去の自分を知らないのに話したってわかってもらえるわけない。分かってもらったところで別に…。そんなやさぐれた自分や、仕事がんばってますオーラを出しているようでカッコ悪い、というような見栄っ張りな自分もいて、なかなか深くこの痛みを話題にすることはなかった。

でも、みんなそれぞれに、言いたくないコト、知られたくないコト、情けないコト、不安なコト、いろんなことに向き合って今ここの感情をシェアしてくれていて、そんな対話を繰り返しているうちに、気づいたら自分もポツポツと話していた。泣きながら。
そしたら、一緒に泣いてくれる仲間もいた。励ますでも褒めるでもなく、ただただあたたかい空気で横にいてくれる人もいた。私以上に泣いてくれる人もいた。そんな機会が数度あったのち、結果、最後にはみんなに囲まれていた。

「あ、通じるんだ」「話すと軽くなるんだ」「分かち合うってこういうことか」そう感じて、また安心している自分がいた。こんな話を分かち合えたことも初めてだし、心から受け止めてくれる人たちがいたのも初めて。自分の感情に感情をだしてくれた人もこれまでそういない。

アクティビティから安心を全身で味わうことになったここに至るまで、全てが感情の連鎖だったように思う。誰かが、今ここの自分の感情を全力で出してくれる、それに誰かが共鳴して感情を出す…この繰り返しが、どんどん私の中で安心に変わっていた

▶20年以上の時を経て涙腺の元栓解放

合宿の日から毎日泣いている(笑)どうやら他のメンバーもちらほらそんな状況みたい(笑)

ここまで人前で泣いたのはたぶん初めてだった。家族以外の前で泣いたのは高校の引退試合とStepUp講座、おそらくその2回だけ。私の「泣く」はいつも父親への「反発」や理解されないことへの「悔しさ」の涙だった。
家で泣けば「うるさい。何言っているかわからない」と家の外に出されていた。「女はすぐ泣いて逃げる」と言われていた。父に限らず、そういうことを子どもや女性に言っている大人も見てきた。だから、泣くのは「良くないこと」「弱い」「理解されない」そんな認識が強かった。感動や嬉し涙さえも、恥ずかしもの、そんな感覚になってしまっていた。とにかく涙は見せないもの、と。

けれどStepUp講座で漏れた涙は、初めて「安心」と自分に対して「大変だったね」を感じて勝手にこみ上がる涙だった。それでも、その時はやってしまった感満載。人前で泣いていることに焦っていたし、「あーダメダメダメ」と止めようと必死になっていた。

今回はというと、全く恥じらいもなく、ただただ「辛さ」や「悔しさ」と「安心」を行き来しながら、受け止めてくれる人たちがここにいることを感じながら、泣くことでまた湧き上がる感情もあるのだな~と、そんなことを感じながらなんのためらいもなく泣いていた。

やっと私の涙腺が緩んできたようだ。以前、たけさんに「あやさんは感情が渋滞していますね」と言わていたけれど、この2日間でこれまで必死に跳ね除けてた部分の感情センサーも作動しだして、循環しているように感じる。うごめく感情をもっともっと味わっていこう。

▶「今ここ」を感じたら

ここまで、いったい何回「今ここ」と言ったのだろう笑
そんだけ言いたくなっちゃうくらいに、これまでの自分が「今ここ」から遠ざかっていたことを感じる機会になった。

・名前を呼び掛けてもらうこと
・感情のキャッチボールをすること
・人の目(の奥)をじっくりみること
・今この時の自分の心の声や鼓動を感じること
・自然を感じること

対話やアクティビティを通して、これを繰り返す中で「今ここ」を感じた。
そして、「今ここ」を感じたら、自分が今ここにいることを感じた。「安心」とともに。
いや、当たり前でしょと思うかもしれない。これは、私しかわからないのかもしれない。言葉にするのは難しいのだけど、今ここを感じずに、周囲に目を向け生きてきて、“自分”という存在がどこにいるのかわからなくなっていた“自分”という存在を意識しなくなっていた。
自分が今ここにいて、受け止めてくれる人たちがここにいることが、とてつもない安心感だった。

【“ビビリちゃん”の根源】それは、今ここに自分がいない、自分という存在がどこにいるのかわからなくなっていることへの恐怖心だったようにも感じている。今ここにいない自分といるであろう本当の自分とのギャップを埋めようとするモンスターだったようにも感じる。
もちろん他にもあるけれど、今に気持ちを置き、自分がいることを感じた今、何だか安心しきっている自分がいる。自分を信じる(自信)ことができそうな気持になっている。そうそう、自分にはなんでもやりきるモンスターも、自分の奥底でどしっと胡坐をかいた肝の据わったモンスターもいる。
今ここ」を感じたら、感じられるものが広がった。

壁となるモンスターばかりに目を向けていると、そればかりが成長してどんどん大きな壁になっていく。眠っていたり、かくれんぼしているモンスターにも気づければ、そっちに目を向けて、成長させることもできる。
私は「安心」を得たことで、かくれんぼしていたモンスターたちに今出会い始めている感じがしている。

▶ここからはじまる

改めて。この14名の「今ここ」の結集だったからこそ味わえたことの数々がとても尊い。こうした状況下でもいろいろ配慮しながら開催してくださった、たけさん、ぐっちさん、あいきさん、ありがとうございました!

そして、1人では味わえなかったこと、1人でいたら耐えられなかったことばかり。2日間の濃密な体験を共にした11人、ほんとにほんとにありがとう!今もみんなの手は背中に。

こんな素敵な体験も、思い出にしてしまってはそれまで。
ここで感じたことを感じ続ける。忘れてしまっても、みんなを見れば思い出せるくらいに自分の中に残っている。

実験する。し続ける。まずは言葉にして出すところから。


ビビリちゃんへ
感情を内から外にそっと置いてくるイメージ。伝えようなんて思わなくていい。感じたことに正しいも間違いも大小もない。寒いなら寒い。ただそれだけ。伝えようとするのは強引。否定するのも強引。受け取りたい人が受け取る。伝わる人には伝わる。とにかく置いておけば良い。その置き所を自分の中にしないで外にする。外に置けば、受け取ってくれる人がいるかもしれない。外に置かなければ、誰にも見えない。始まらない。

受け取るかは相手が決める。
少なくとも受け取めてくれる11人には出会えた。だから大丈夫。
今を心地よく。今ここと未来を行き来して。

ここからはじまる。

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