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「その瞬間」を作り出す装置

*これは陣野俊史「世界史の中のフクシマ」(2012)の読書感想文です。
*とあるライブで狐火さんというラッパーのPoetry Readingに触れて、とても感動して調べていたら、この本にたどり着きました。

仕事や家族、様々な個人的な出来事に追われながら日々生活していると、社会的にとても重要だけれど「自分の生活からは一見遠い」ところで起きている出来事と向き合う時間は少ない。環境問題、貧困、ジェンダー、人権...そういった問題や課題は、日々テレビや新聞で報道されるニュースにも取り上げはされるけれど、あまり深追いはされない。

表現を生業の一つとする友人が以前こんなことを言っていた。「私たちは本当はそのことに気付いているのに、普段は忘れている」のだと。「しかし人はそれにあるふとした瞬間に「思い出す」ことがある。思い出すための装置を何か作れないか。」

彼女の言葉にもハッとしたし、何かに気づいてはっとする瞬間は誰にでも訪れるものであると思う。幼い頃に親が駅に置き忘れたお土産についてはっと思い出すとか、小学生の頃、夏祭りで食べた変な色のかき氷の味を唐突に思い出すとか、忘れていた大切な誰かの顔を思い出すとか、その瞬間が訪れる前に、私たちはどんなきっかけや刺激を受けているのだろうかと考えると、ちょっとワクワクする。

同時に思い出したくないことだって、私たちは日常的に、唐突に思い出すのだろう。心の奥底にとどめ置かれた思い出や感覚、形や匂い、記憶は全て心地よいとは限らない。むしろ、そうではないものだって多いはずだ。

「自分の生活からは一見遠い」ところで起きている社会問題は、日々の生活の中に埋没する。しかし、貧困や女性の権利、税金の問題、政治の問題は実は私たちの生活の中にあるのではないか。(ところで、The Bold Typeという海外ドラマの主人公Janeはファッション誌のライターなのだが、日常の中にこそ真実があるという編集長の教えのもとに「自分の」日常から様々な問題を深掘りするところが面白い。)しかし、それには気づかないふりをする。自分の問題であってほしくないから?自分では解決できないから?与えられたもので満足して生きたいから?抵抗や抗議には途轍もないパワーが必要だから?(私たちがそのパワーを持っている、持っていないに関わらず)

しかし、誰もが目を背けたくても、気付く瞬間はいつだってやってくる。背けていなくても、ああ、そうだったのかと再確認する瞬間だってある。「やっぱり。私たちこそが、「99%」なのだ。」(陣野俊史「世界史の中のフクシマ」)

やっぱり、そうか。でも、そして?
私たちは「99%」でいることに満足するのか、何故「私たちは」99%の側にいるのか思考するのか、「1%」に対して抵抗を発揮するのか、境界か、もしくはシステムを破壊するのか。もしくは、気づかないふりをして、一生を過ごすのか。

私たちの生活から一見遠いというのは、物理的な距離ではない。経済格差も、女性の権利も、気候変動も、税金の問題も、どんどん個人化(というより個人の責任化?)されていく一方、コメンテーターや報道番組は格差や人権の問題をより大きな視点で俯瞰して語りたがる。日常の、私たちの問題であるにも関わらず、すべて一般化して語り、そしてそれが中立的で、道徳的だと言わんばかりだ。

まずは、きっと私たちには「ハッと気付く」ことが必要なんだと思う。それは、私たちの問題であると。そして、やはり、「なんとかしなくちゃ」。

*追記*
支配的な言説と、抑圧される声。
復興が叫ばれる中で(支配的な言説)、抑圧される声を拾い上げることの重要性を指摘し、山田かんを紹介する。ラッパーの狐火は一人の山田かんだろうか。震災から8年経ち、震災なんてなかったかのよう。復興というゴールがそこに用意されていて、私たちはそこに到達するということを前提とした報道。多くの人は忘れているよ。気にしてない。関係ない、と思っている。でも本当は気づいているはずなのだ。永遠に失われてしまったものの裏には、「奇形の国家」や、1%がいるんだと。


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