31○次女の癌


次女には、生まれつき、背中に大きな痣があった。

その痣は、新小倉病院の小児科の先生が、「毎月、見せてください!」と言っていたので

毎月、どうせ、二人とも直ぐ風邪をひいたり、予防接種もありるし、


私も風邪とか、睡眠薬を貰うため、診ていただいてので、毎月一度は見せに行っていた。

そして、その先生は、開業した!


新小倉病院から、小児科主治医が居なくなったので、それから、新小倉病院にはいってません。

開業してからは、義母が定期検診に連れていってくれてくれていた。

小学生2年生位の時、少し定期検診の間隔が、伸びてしまったが、
定期検診に行くと、

その時に、初めて、主治医の顔色が変わり、
「皮膚癌です!!転移しないうちに直ぐ入院して、手術受けてください!」

と言われた。

あまりのことに、行き先の病院の相談もしないで、
どこの病院にでも出していい、
紹介状を貰った。


手術は、する。

でも先に横内先生に、診て貰う。


「悔しいですが、癌です。手術までに、煎じ薬を飲んでら、手術してください。、」


と言われて、学校に持っていっていいように、許可を取った。

次女の二年生といえば、私は仕事をしながら、バリバリ役員をしていたので、

保健室で飲ませてくれること、

友達に臭いお茶を飲んでることを、バカにされたら、その子供も、その親も、学校も許さないこと、等
かなり必死だった。

そして、横内先生は、癌の薬はとにかく苦いからと、
でんぷん質で出来てる、
横内医院のくすりを飲むときに、口の中に入れておける、
大きい飴玉を処方してくれた。
(普通は漢方薬と一緒に煎じる薬、でも甘くて美味しかった。)


次女だけだと、飲めないので、
わたしが二番煎じ、
長女が三番煎じ、
夫には四番煎じをを飲ませた。

横内先生から、手術のオッケーがでた。
(これは、手術によって、他の臓器に転移させない為、癌の活動が止まった。という意味)

掛かり付けのドクターは、開業して、新小倉病院に居なかったので、

母が手術した北九州医療センターに行くことにした。
(この時、とごの病院に行くか、親族の間で、かなり揉めた。)

二年生の次女には、
横内医院の薬を飲むのはしんどかった。


家では、アイスクリームを口に入れてあげれば飲めるけど、
学校では、それも出来ず、
不適応食品は、乳製品、牛肉、遺伝子組み換え食品、だったので、


グリーンコープでしか買い物はしなかった。

いまでも一番残念なのが、空手を辞めなければならない事だった。

試合も控えており、

でもしばらくは安静と言われていたので、
でも、空手を辞めたら、帯がまた白帯からだけど、
黄色帯位までいっていた次女は、休会を選んだ。

そして、手術。

私の実の母の妹の、叔母、義両親、皆で手術を待った。


次女を赤ちゃんの頃から、可愛がってくれていた叔母が、
入院費を全部出してくれた。

ベルトコンベターみたいなので、次女が出てきた時は
、わらった。

傷口が開くから、安静にしとなかいといけないのに、
同じ部屋のお友達のベットによじ登ったり、
とにかく目が離せずに、


夜、誰が着いてたか、覚えてないが、あまりのお転婆ぶりに、強制退院させられた。


家では、長女がみてくれていた。


私はこの時も、仕事が忙しく、休めなかったので
、横内先生から進めていただいた、(とろ火でらんらん)という機械をかった。


良く横内医院の薬を鍋で煎じていて、焦がしていたからだ。

もうめちゃくちゃ便利で、水入れて、メロディーがなるまで知らんぷりできる落さが、
本当に素晴らしいので、母の時から速く買えば良かった!
と後悔した。

横内先生は、私が良く漢方薬を焦がしていたのを知っていたので、めちゃくちゃ、安く、値引き?してくれた。

退院してから、何日間か学校を休み、体育とかは、させれないが、


普通の生活に戻った。


手術してから、二週間程だった頃、手術あとに、なんか、
違和感のある、できものが出来た。


直ぐ横内先生に相談する。


「ヘルペスの菌が、傷跡に入っただけだから、
再発とかじゃないし、安心していいよ!」

といってくださり、
薬を処方してもらえた。


ホントに直ぐ良くなった。


まだ激しい運動、特に
空手は殴りあいなので、
ドクターストップがかかり、
しぱらく休んだ。


癌保険は、アフラックに入っており、その頃のアフラックは、
皮膚癌はおりなかったので、
ソニー生命癌保険に変えた。




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