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最高を再考し再構築する話

最高という言葉を使わないなと思った。
人生最高の出来事です!
最高に楽しかったです!
こういった発言が自分から聞こえてこない。

最高ということは最も高いという意味であり、
自分にとってはピークのようなイメージがある。
山型の曲線のようなイメージで、
つまり最高と発言した次のタイミングには下降していくイメージ。
そんなに簡単に最高と言う言葉を使っても良いのだろうかと思っている。

今までも最高な出来事は色々とあったと思うが、
これを最高だと認めたくない自分がいて、
最高の一瞬の次、二瞬目にはそれ以上の高みを求めている自分がいる。

反対に最高でした!と言われると、とても自分が満たされる気持ちになる。
自分のアウトプットが認められ、人に影響を与えることができたと言う
つまり承認欲求のようなものが満たされる。

矛盾していて偏った部分がアルシンドだなと感じたり感じなかったりする。

自分に厳しい部分と甘い部分が混在する。
高みを目指すと言いつつも何かと理由をつけてやめてしまうこともある。
何かを得るためには何かを失う必要がある。
これがトレードオフの原則だ。
どちらもうまくやろうと思う、ファッキンジェネラリストみたいな自分も、
垣間見えたり見えなかったりもする。

この生き方は結構疲れる。
アルシンドになる日も近いのではないだろうか。

そこで最高と言う言葉を解禁しようと思い立った。
最高の先には下降線があるのではなく、次の最高があるのだと思うことにする。
(現時点で)最高!のニュアンス。

みる人が見れば、こいつ何いってんだ的な白目だと思うが、
ベリー インポータント シング フォー ミーなのである。

最高を認めて最高の時間を楽しむことで、
次の最高に挑んでいくことが大切なのかと思う。

最高の瞬間を認めなかった今までの自分は、
山小屋のない富士山を登っているだけのようなイメージである。

1合目スタート!はい頂上!はい下山!

途中で出会った美しい花や美女には目もくれず、
途中の展望台の素晴らしい景色や今までの道のりを振り返りもせず、
まだまだ、マーダーマーダーと頂上を目指していく。

下山して思う。
なぜあそこにあった綺麗な花を摘んで、
出会った美女にプレゼントしなかったのだろう。

今現在の最高地点を楽しめば、次の最高地点への活力が湧いてくる。
そのプロセスを楽しめば、次の最高地点がより素晴らしくなる。

人生は山のように頂上が明確ではない。
だから途中段階での最高を認め、喜ぶべきなのだと思ったのだ。

最高を再考することで、
長い人生の生き方を再構築するのだ。

毎日寝る前に最高最高!と叫びとこにつく気はない。
それはおそらく自己暗示の領域だ。

しかし何か成し遂げた時や心が揺れ動く時には、
その喜びを爆発させ、パンツ一丁で町内を駆け回りたいと思う。

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