いかほどのみのほど
少しは身の程を知りなさい。なんて言葉を聞くことがある。
身の程:自分の能力・地位などの程度。身分。分際。
身の程と分際は同義だったのか。
センクスの分際で!なんて言われると、
ジャイキリキリしてしまうであろう。
自分を知るということはとても大切なことだ。
一生付き合っていく心と体なのであって、
人生をかけて自分を知るという探究的な一面もあると考えている。
しかし人様に身の程を定義される筋合いはない。
そもそも人様が判断する身の程は、過去もしくは現在のことである。
良い家の出だとか、良い大学に行ったとか、大企業に勤めているだとか、
スペック主義の物差しであり、未来のことを鑑みていない。
早咲きの人間もいれば遅咲きの人間もいる。
スペックだけで人間の身の程は測ることができない。
カースト制度に代表される、身分制度の時代を考えてみると、
人は生まれながらにして階級が決まっていた。
それぞれの階級にそれぞれの社会があり、
それぞれの階級は交わることはない。
現代はそんな時代だろうか?
お家柄など取っ払って、垣根なく勝負できる時代だ。
なんて良い時代なのだろう。
一方で身の程は現代でも「社会的な枠」のようにも見える。
カースト制度のような明確なものではなくとも、
身の程を知っていれば大きな失敗をしないという緩やかな理解をされている。
つまり身の程はチャレンジの減少関数と言うことができる。
身の程枠に入れば、みんなと同じように失敗せず人生を過ごすことができる。
さとり世代という言葉があったが、まさに身の程枠を象徴したような言葉だ。
どちらを選ぶかは個人の自由なのだ。
身の程を知っていたからといって、スペックが高くなるわけではない。
ハーレクインというロマンス小説をご存知だろうか。
地方出身東京勤務のOL。
両親がサラリーマンの一般的な家庭で生まれ、身の丈にあった範囲で育ってきた。
休みを利用して学生時代の友達とドバイあたりへ旅行に行く。
トラブルがあってツアーメンバーとはぐれる。
一人で砂漠を歩き、死にそうになった時にラクダに乗った人に救出される。
目が覚めると見事なお城のベッドの上。
様子を見にきたその男はなんとアラブの王子。
OLは見初められ、アラブの王子と幸せに暮らす。
ある日アラブの王子が不治の病に犯される。
OL毎日祈る
OLの祈りの力で王子復活
めでたし。
そもそも人間は生まれながらに自由であり、
身の程を知らないで生きたいという潜在的な欲求を持っていると感じる。