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有効な批評とは(火の鳥生命篇を論じるに際して覚えた疑問)

 そもそもある作品に対して有効な批評とはどのようなものだろう。ある作品に対して「別でもあり得た可能性」との比較による批評というのは妥当なのだろうか*。確かに、「言い回しが稚拙」とか「絵が下手」とか「シナリオが矛盾している」といったテクニカルな批評なら、それなりに有効であるように思われる(もっと言うと、誤字脱字レベルの指摘なら有効性は高く感じられる)。しかしその作品の思想に踏み込んだ批評というのは、ともするとまったく的外れであるような印象がなくもない。例えば自分が手塚に、「テーマをクローンと人権に絞って、考究を深めたものを書くべきだ」と言ったとする。「ただの漫画じゃん、なに本気にしてんの?」と返されたらどうだろう。手塚自身は単に娯楽のつもりで書いているのであって、そうした要素は積極的に除いていったほうが娯楽作品としては正解と言える。そこで自分の批評は、そもそもこの漫画を「娯楽を超えた作品」と前提しているということになる。よって自分の批評は単純にカテゴリーエラーとも言いうるのではないか、と。同じことはもちろん「読者間」にも言える。この作品をそもそも「娯楽作品」と見ているのか、それとも「娯楽を超えた作品」として見ているのか、によって読み手の間で交わされる批評は、お互いにとって的外れなものともなりうるのではないか(例えば、この本をインスタントラーメンの重しとしてしか見ていない者に対して同様の批評を述べたらどうだろう。行き過ぎた例のように思われるが、ここに程度の差以上の差があるだろうか)。 ここから言えることは、そもそも「有効な批評」などというものがありえるとすれば、それは批評者同士の間で、その批評が有効でありえる共通地盤が形成されていなければならない、ということだ。これはあらかじめ形成されていなければならないというよりも、むしろそうした共通地盤を形成するためにこそお互い批評の言葉を投げ合うのだと言いたい。あらかじめ自分が何を語るかを先回りして熟知しているのでないかぎり、その種の共通地盤を前もって設えておくことなど不可能だろうし、たとえ自分自身に閉じた批評でさえ、そこで述べた言葉がどのような地盤を結果的に形成するかは論じることでしか明らかになりようがない**。 だから有効な批評というのは、「共通地盤の形成に与する内容」であると同時に「共通地盤内で有効な内容」である、ということになる(両者は同じことだろうか?)。しかしそんなことが可能だろうか。ここで言うところの共通地盤というのは、果たして何なのか。何らかの固定的な内容として剔抉できるものなのか、それとも流動的なものなのか。少なくとも前者ではなさそうな印象があるが、完全に流動的なものとも言いがたいような印象もある。例えば医学の学会は医学に寄与する発言で占められているだろうし、医学と関係のないことを学会で論じたりはしないだろう。だから医学の学会は、医学にまつわる発言をするというルールが暗黙裡に存在する(その切り分けが厳密には難しいとしても、少なくともスタンスとしては)。では、漫画について論じようとする場合、その種のルールというものは存在するだろうか。その種のルールが曖昧であることが、批評の有効性に対する疑いに繋がっているのではないか。漫画という媒体に対する一般観念が、例えば大枠で言うと娯楽と芸術との二筋に別れているといったことがそうした疑いを生むのではないか。 この考えの極北として、仮にわれわれの会話が完全に無文脈/無地盤と化した状況を考えると、支離滅裂なものになるだろう。例えば一冊の漫画について語るにあたって、「様々なテーマを詰め込み過ぎているうえ、考究が足りず深掘りされていないため散漫な印象である」「しかしドタバタ劇としてはそれなりに楽しめるものである」「しかしカップラーメンのフタのおさえとしては重すぎて使いづらい」「しかしドアストッパーとしてはそれなりの働きをする」「しかし人の頭を殴るにしては軽すぎて使えない」「しかし何枚かちぎって火をつけるとよく燃える」「しかし植物に与えてみたところその生育に寄与しない」 といった批評がとりとめもなく投げられて文字通り話にならなくなる、といったような。しかし現実にはそんなことにならない(そんなことにならないのはしかし驚くべきことではないか?)。 忘れがちだが当たり前のこととして、われわれは何かを語るときすでに、何を語るべきかという切り分けがある程度出来上がった状態と化している。だからある漫画について語る場において、その漫画本を土に埋めた際の植物への影響などを語ることは通常ありえない。何を語ることが的外れで、何を語ることが的を射たものなのかという切り分けは、ある程度は出来上がっている。しかしそうした前提というのは単にナンセンスな議論を退けるというだけのものであって、むしろ議論そのものの地盤は語りのなかで不可抗力的に築かれていくものと言うべきだろう。そして、そうして築かれていく地盤そのものが二重三重となり、それぞれが乖離していった結果、一見意味の通じるやりとりをしているのにも関わらずどこまでもすれ違い続けるという可能性は常にある。俗にいう「価値観の違い」である。この種のすれ違いには、気づくということ自体がそれなりに難しい。 当初の問いに戻ろう。 有効な批評とはいかなるものか。それは言葉を重ねることにより形成された文脈そのものをよく見、その本筋から外れることなく、考えを深めることのできるような批評だろう。ただしその有効性については、その批評の受け手側が批評される対象物をどのようなものとして認識しているか、という点による。一口に土と言っても、農業者にとっては作物の育つ土がよく、陶芸家にとっては焼き物を焼ける土がよいので、各々が土について語ったところでお互いにとって有効な批評とはならない、といったように。だから、自分がある作品について語ったことが、他人にとっては的外れということも起こりうる。また、自分がある作品について語ったことを、後々見返してみたら自分にとってさえ的外れということも起こりうる。そういう意味では、批評というのはその時における自らの、批評対象に対する価値観を遡及的に浮き彫りにする行為とも言える。 だから、それが有効な批評だと感じるとき自分は、自分の価値観をうまいこと言語化できていると思っていることになる。そして他人の批評が自分にとって有効だと思われたとき、それは自分自身言語化できなかった自分の価値観をその批評がうまいこと言語化していると思っていることになる。そうして複数人で、価値観そのものを共有できるような地盤をうまいこと掘り起こすことができたときには、確かにそれなりの快感が生じるように思う(しかしその快感とは何だろう。一種のアイデンティティクライシスではないか? そう言ってみれば、あまりに当を得た内容のテクストを読むと、自分は故知れない悔しさを覚えることがある。それはまさにこの自分が言いたいことだったのに、どこの誰とも知らない奴に先取りされてしまった、と)。

* 批評というのは総じて「ほかでもありえた可能性」との比較と言える。その作品を相対化・客観化することのない批評というのは、ほとんど論理矛盾である。「面白かった/つまらなかった」といった単なる感想であればまだしも、「クローンと人権の問題の扱われ方が雑で、深掘りが足りない」といった批評は、暗に「ほかでもありえた可能性」と比較していると言える。そうした仮想的な比較によって初めて作品そのものを語ることができようものである。 これはしかし、言葉を話すということの本質でもあるだろう。単なる普通名詞でも、ある対象を「リンゴ」と呼ぶには、「リンゴではないもの」「他にリンゴと呼ばれる同種のもの」といった対比項が必要なのだから。逆に、対比のない絶対的な対象というのはそもそも揚言できない(比類のなさによって対比される対象、というのは矛盾である)。

**「暗闇の中の根拠なき跳躍」というクリプキの言葉を想起。言葉を媒介にして、そうした地盤そのものにアクセスできたという「感じ」そのものが、すなわち「言いえている」ということだ、と言いたくなる。地盤というのは語ることにより示されるものであって、語られる対象にはなりえない。なぜなら、仮に地盤そのものについて語るとしても、その語り自体がまた別の地盤に基づいたものと化しているのだから。

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