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動物にまつわる考察 ―山括弧塾オンライン講義の感想にかえて―

 持続について


「しかなさが本質的に持続しない」とはどういうことなのか

  時間の経過が介在すると誤同定不可能性が成り立たなくなる根本的な理由は、いまここで論じられているような問題にあるのではなく、しかなさが本質的に持続しないという問題にあるからである。時間の経過を含む認識は本当はしかなくはないものを(しかなさの内部に)取り込まざるをえない。

独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3:永井均:春秋社:p253

「私はこれを体験した(これを体験したのは私だ)」という記憶における「私」の同一性が、他人の記憶の挿入といった思考実験によって脅かされうるのは、そもそもその同一性が原初の(「私」の本質であったはずの)「しかなさ」を超え出たことを主張しているからなのである。とはいえもちろん、全体としての「私」という概念は、原初のしかなさを超えてはたらくことによって初めて完成することは疑う余地のない事実である。

独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3:永井均:春秋社:p254

 しかなさは持続しない、と。なんだろうな。自分は永井と違う想像をしているような気がする。いや、それともただ単に自分がとらえきれていない(整理しきれていない)所為なのか。「しかなさ」というのが私において経験されるには、なんにせよそれが経験として認識されなければならない。しかし、なんにせよ認識されるということは、ある程度の時間的幅のもとに出来事が統合されるということを意味しているので、そこに「持続」が無いと見なすのは不可能ではないか、というのが自分の、恐らく時間について考えるときにかねてより抱いてきた疑問だ。
 ここでは恐らく、「持続」の意味が二重化している。それこそ「純粋持続」と「概念的持続」、と呼んで分けたくなるような二通りの持続がある。
 前者は体験としての持続。つまり、在ると言えるためには何かが認識されていなければならず、何かが認識されているということはすなわち持続(実存的な意味における時間経過、時間的幅)がある、という意味における持続。
 後者は概念としての持続。つまり、今日は昨日における明日で、明日における昨日だ、といったような時間軸上の移動として捉えられる際の(概念に織り込まれている)持続。
 時間における持続とは、出来事がある程度の時間的幅において現に統合的に把握されているという意味における持続と、時間軸上を動いていくという意味における持続の、二種の持続が補い合って形成されている。
 これは、私の議論と類比的に考えることができるのか、それとも時間に固有の問題なのか。例えば私の議論に置き換えるとすると、それは現に私である者(現実の私)と、現に私ではないのにも関わらず「にとっては」式に現に私である者(概念の私)という二種類の私がいる――ということになるだろうか。いや、この類比には収まり切れないものが、時間にはないだろうか。
 時間の場合、現在に対して「他時点の現在」を置くことで時間概念が成立する、と簡単には言える。より詳しく言うと、現在把握としての「しかなさ」というものを客観化して、それを他時点に振り分けるとともに、現在という突出状況そのものを他時点と同類視・同格化することによって、時間軸的な時間の概念把握が成立する。そこに持続はどう絡んでくるのか。「現在把握としての「しかなさ」」というもののうちに原理的にあらざるをえない持続というものを、時点同格的な把握において引き延ばすことによって時間軸という線的な構造が出来上がるのではないか。「何かが認識されているのなら必ず持続してもいる」というその原初的で唯一無二の持続そのものを客観化し、他時点における今と同格化することによって、現に把握されている持続を遙かに延長する。ただしそれが完全に概念なのか、それとも「現に今」に浸透した内容把握なのか、という点については常に曖昧なところがある。
 なぜそんなことが可能なのかというと、そもそも現在把握というものが、断絶なくなめらかに、シームレスに続いていくからだ、としか答えようがないのではないか――いや、この「続いていく」という観念自体にすでにして概念的な時間把握が紛れ込んでいる感がある。より単純に、どうであれ現在というものは持続として捉えるよりほかにないから、と言うべきだろうか。
 そうすると、「しかなさは本質的に持続しない」というのがどういうことなのかがわからなくなってくる。
 ここで言わんとしている「持続しない」というのが仮に「しかなさは動くので、漸次しかなくはなくなっていく」という意味であるのなら、それもそれで疑問である。「今しかない」という意味のしかなさが、(数分後、数秒後には)しかなくはなくなる、と捉えるとき、この捉え方にはすでにして概念的時間把握(つまり時間軸上の今の移動)が前提されている。むしろ「しかなさ」と述べて指示すべき対象というのは、「常に把握されているところの現在そのもの」だろう。それは時間軸上の今の移動として表象される以前の、言ってみれば「不動の今」あるいは「場としての今」だ、と言いたくなる。時間把握というのは、その「場としての今」の内部において構成されている、というのは言うまでもなく、構造上、論理必然的に、間違いない。
 そうすると、逆に「本質的に持続しないしかなさ」というのはどのようなものなのか。「他人の記憶の挿入」によって「私の同一性」が脅かされるのは、しかなくはないものをしかなさの内に取り込んでいる結果だ、というのが上記抜粋。私の同一性。うーん、ここでの同一性というのも多様な解釈を許しそうだから難しい。
 こういう考察をするときにいつも動物のことを考えたくなる。動物は同一性を持ちうるか。持ちうるとすれば、いついかなるときも(という言い方がもう矛盾だが)私であり今であるということにおける、実存としての同一性、というのはあると言いたくなる(とはいえそれは「ある」と述べて指示できるような在り方をしてはいないが)。他方、ここでの同一性とは言わば「内容としての私」のことだろう。この世の一人物としての私。来歴としての私。記憶内容に保証されるところの私。――とはいえ難しいのは、内容だって結局は「今この時この私」においてある。そう、だからここでは、内容に関わらずそれを想起しているのが自分であり、ともあれそれを自分が体験したこととして思い出しているということは疑えない、という話なのか。
 そうなると、ここで言われている「しかなさ」というのは、現に今把握されている内容、ということになる? そうすると、ここでの持続というのはシームレスではなくデジタルな進行を想像したくなる。時間軸があり、メモリが1,2,3と振られている。メモリ2の時点ではメモリ1、3の認識内容は「しかなくはない」と。そしてメモリ3の時点では、メモリ1、2の認識内容は「しかなくはない」と。このように区切ることが不可能だからこそ自分はそこに何となく割り切れなさを感じている。つまり、デジタルチックな時間認識は実情にそぐわない、と。
 それは現に実情にそぐわないのだろう。前回講義でこのことと関連した質問をしたところ、永井からは以下の返答があった
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 時間の議論の場合には「しかなさ」における「現実/概念」の区切りはまったく人工的に(つまり我々があえて概念的に把握することによって)外からあてがわれているので、その意味で「明確には割り切れ」ないのは致し方ないことです。
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「現実/概念」の区切りそのものが概念的に与えられるから、割り切れない、と。うーん、でもそういうことではないような。完全に概念的に考えるのも無理があるのではないか、と。いや、だから概念的ではないものを概念的に把握しているから明確に割り切れないのだ、と言っているのではないか永井は。じゃあもう、そうだよね、としか言いようがないのか。


「第一基準/第二基準」という区分けそのものを疑問したい

  この場合、第一基準は第二基準に乗っかって運ばれて行くことになる。第一基準は、それが現れる際には無根拠に突然現れるが、持続する際には第二基準に従って持続することしかできない。前者は存在そのものの開闢だが、後者はそれに随伴するその内容そのものの開闢であり、世界はそれ以後それに従って継起せざるをえないものとして与えられるからである。

独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3:永井均:春秋社:p261

 第一基準は、持続を考えると第二基準なしには考えられない、と。うん。どうなんだろうな。なんとなく、「第一基準/第二基準」という区分けそのものを疑問したいような。「この目から見え、この耳から聞こえ……」というのが第一基準で、「その目耳鼻口から見えたり聴こえたりするその内容を通時的に統合するところの阿久沢牟礼と名の付く人物」というのが第二基準、という認識。で、持続を考えないぶんには第一基準だけでよいが、持続を考えると第二基準、つまり意味内容によって担保された同一性が必要である、とここでは述べている(ものとして解釈している)。
 疑問したいのは、まさにこの点である。つまり、「この目から見え、この耳から聴こえ……」という第一基準でさえ、そうして見られたり聴こえたりするところの内容を抜きにして考えることはできない(そうして見えたり聴こえたりするその内容がどうであれ、見えたり聴こえたりすることそのものが第一基準として働く、というのはわかる。とはいえやはり「見え」や「聴こえ」の実質、つまり内容というのがなければ、見えたり聴こえたりというのが言えないので、ともあれ内容がなければならないとは言わざるをえない)。だから、「第一基準/第二基準」という分類さえ、二重化せざるをえないのではないか。現にこうある、というアクチュアルな現実だけを見ても、そこには「現に見え、聴こえている」ことと「これが見え、これが聴こえている」こととがわかちがたく共にある。概念化された後には、「現に見え、聴こえている」ことと「何々が見え、何々が聴こえている」こととは切り離して考えることができる。この、「現に」と「これが」とのあいだの「分離/不分離」というのが、実存と本質、存在と意味とのあいだの大きな隔たりだと言える。
 これは煎じ詰めると、「私秘性抜きの純粋な独在性とはありうるか(思考可能か)」という問いになるだろうか。独在性とは私秘性が内在したものとしてしか考えられないのではないか。「現にこうある」の「現に」と「こう」とは、分けられないのではないか。という疑問が、ここでの疑問をもっとも純化した形ではないか。何らかの内容を伴わないと「見えている」とさえ言われ得ない、というのは確かにその通りだが、他方で独在性のみを概念的に扱うことは実際可能であるように思われる。そしてその可能である所以こそ、よく累進構造図を用いて永井が説明するようなあの精妙な仕組みによるものなのだ、と(それこそ永井が紙幅を費やして説明してきたことではなかったか)
 うーん。そうなるとこの疑問というのは、単に的が外れているだけのように思われなくもない。
 現に見えているということと、見えている内容とを、分けて考えることができる。それはそもそもなぜか(考えとして妥当なのか)と。これに対する答えは、「そもそもわれわれはそれを分けて考えることができるようなパラダイムを生きているから」というものでしかありえないように思われる


 動物について1


 持続を考えると第二基準が外せない

 記憶(と思われるもの)は、少なくともその根幹の部分にかんしては、本質的に真でなければならない、という問題があるのだ。それは、客観的事実との関係において、異なる事実を表象しているということとは別の問題であり、むしろそのようなことは(この連関で捉えた場合には)これから述べる事実の上に乗って、そこから分化、派生して成立するしかない、といえるはずなのである(それ以外にどのような経路がありうるのか、私には考えつかない)。この記憶は、それこそがすなわち自分であり、それが自分であることしかできないがゆえに、すべてはそこを出発点とせざるをえないような、そういう意味での真理性を持つ。それの正しさを(あらためて意識することなく)自明の前提として生きていくことしかできないがゆえに、そこを出発点とする以外の生き方・あり方はありえないがゆえに、その意味で、それは自明に真でしかありえないのである。〈私〉や〈今〉のような存在論的な(「在る」ことがそこから始まるような)出発点がそうであるのとはまた別の意味で、こちらもまた(「である」ことがそこから始まるような)最深の出発点であって*、通常の意味での真なる記憶は、これを前提として、そこに、その身体に付いている眼が実際に見た、といった種類の事実が付け加えられることによって成立している、といえるだろう。この後者もまた、経験的事実にすぎないとはいえ、それはそれでまた、それを前提とすることなしには、われわれは実在世界について知ることも覚えていることもできないのだから、この世で暮らしていく上での根本前提ではあることになるが、いま問題にしているのはさらにその根底にある信憑の問題である。

* いったん〈私〉が存在した以上は、その継続性はこちらに依拠するほかはなく、じつのところは当の〈私〉の存在そのものさえも、この継続性に依拠してそこからしか認識できないことになる――略――。

独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3:永井均:春秋社:p268

 持続を考えるとそうなる、という話。終章40の考察に対してリプライ(というかリツイート)を貰ったが、そこで永井は以下のように記している。
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 一読した限りでは基本的に正しい考察だと思いました。始めのほうに「言いかえるとこれは、第二基準から第一基準が創出される、とでも言っているかのようだ」とありますが、そう言っています。持続に関しては第二基準に優位性があることは以前からの主張です。だからそこに「矛盾」が内在するのだ、と。
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 持続を考えると第二基準が外せない、というかもはや第二基準から第一基準が創出されるとさえ言える、と。まあ確かにこれは当たり前のこと、のようにも思える。……ああ、もしかして。上記してきた自分の疑問が、この交点でクリアに理解できるのでは? 「ともあれ内容がなければならないのだから独在性だけ取り出して考えることはできないのではないか」と問うたが、だから第二基準が外せないんだ、というこの話に繋がる。

 動物は果たして存在しているのか

 いや、とはいえなおも疑問できるのではないか(まだ疑念の炎は完全に鎮火されてはいないようだ)。そうだとすると、犬や猫のような非言語主体には独在性さえ無い、ということにならないか。ここでの「持続」とは、「自己が自己において客観的に存在し続けている(=自己認識が成立している)」ということだと理解する。そのうえで、この種の自己認識がなければ第一基準、つまり独在性さえもありえない(というかこの種の自己認識によって初めて独在性が成立する)というのなら、やはり非言語主体には独在性がないことになり、そうなるともはや内的な意味においては存在さえしていないということになるのではないか。
 これはやはり問うべき問題ではないか。意識主体に独在性を読み込まないことが概念的に可能かというと、それはそれで論理矛盾と言えなくもないように思われる。あるいは第二基準というのがもっと広い意味に取られ、ただ何かしらの内容が(非概念的な形であれ)ありさえすればよい、というのなら非言語主体にも存在の余地は与えられうる、とは言えるかもしれない。とはいえ、「非概念的な質」としての内容に基づく独在性と、「概念的な質」に基づく独在性とは、別のもののように思われる。
 いや、非言語主体が前者であり、言語主体が前者プラス後者である、というだけの話だろうかこれは。
 
 非言語主体には「この目から見え、この耳から聴こえ……」というのさえない? ここでの第一基準とは、自己意識を前提としているのか。そうであるのなら、「ない」と言うことにはなるだろう。そう考えてみれば、「この目から見え」の「この」は自己意識を示したものと読むことができる。いやもう、これはそういう話なのでは? 第一基準は第二基準により創出される、というのはそういうことだろう。自己意識が成立していないと、「この目から見え……」の「この」が成立しない。単なる「見え」があるだけというのも考えられないことはないが、というか「哲学探究3:終章4節」で実際にそういう思考実験があるが、それは客観的な形で思考可能なだけであって、主観として捉えることはできないよね、という話だったはずだ。その点は首肯する。そうすると、非言語主体の内観というのは思考不可能ということになりそうだが。
 それでも思考可能なように思われるのは、錯誤なのか。それともそのことが何か、ここで考え尽くされていない新たな議論の存在を予見したものなのか。
 うん、終章4節付近を読んでみると、やはり非言語主体はこの意味では存在していないと言わざるをえないような気がする。

 経験主体の存在しない「しかなさ(独在性)」とは、実のところは、ある空間的位置に何らかの物理現象が生じているのと同じことになってしまわないだろうか。――略――そのようなものが世界そのものの開けの原点になることはありえまい。

独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3 p221

 そしてここに欠けているのは、

 ①複数の意識的体験を、②形式的には同型の他者(すなわち可能な独在性)との対比をも意識しつつ、③主体の持続と相関的に実在する客観的世界を構成しながら、④一つの持続的な「しかなさ」の主体に纏め上げていく統合作用である、と。

独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3:永井均:春秋社:p222


 時間客観性と主体客観性

「独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3:永井均:春秋社:p222注*」で言われている「哲学的洞察」の該当箇所を再読した。うーん。ここはかなり重要なことを言っているような気がする。自己意識なるものも非自己意識的に独在する〈私〉から始められるよりほかないのだ、というのが大まかな話ではある。カント的には「「私」であって〈私〉でないこと」も「〈私〉であって「私」でないこと」も、ともに可能らしいが、そうではないと考えることもできる、と。うーん。どっちだ。カント未読なのでこれを理解できる素地が自分には足りていないような気がするが。
 素朴に考えることしかできないが、素朴に考えるとして、「〈私〉であって「私」でない」とはどのようなことか(思考可能なのか)。素朴に考えて、それは動物のような非言語主体のあり方が想像される。とはいえ確かに、改めて考えてみると自己を反省的に捉えられない主体というのは(終章4節で言われるように)その都度ごとに見えや思いなどがあるというだけでそうした実存が統合されえないようにも思われる。しかし事実として犬や猫はある種の統合状態にあるような印象がある。少なくとも、犬や猫は木々のざわめきや川のせせらぎなどとは明らかに違う、ように思われる。意識はあるが自己意識はないと言うべきなのか、あるいは自己意識はあるが自己を客観視してはいないと言うべきなのか(後者はさすがに矛盾では)。
 そもそも非言語主体に自己意識はあるか。つまり、自己意識とは自己の客観化および他者との同格化を必要条件とするのか。
 あるいは動物は、時間客観性は持つが主体客観性は持たない、と考えればどうだろう。つまり体験を「自己の体験」としてカテゴライズできるが、「私と他者」といった区分けは持たない、と。つまり「他者と区別されるところの自己」「他者と同格の自己」といった、自他関係における客観性はなく、完全に主観に貼りついているが、他方で出来事の生起に関しては通時的に把握している、と。――それが可能であるのは、時間に関しては「現実/概念」の区別がつかないから、だろう。ここから突破口が開けてきそうな気がする。つまり、出来事というのはどうであれ推移していくので、その推移というものが概念的に捉えられなくても、「現に今」という実存的把握における後景として常に捉えられうるから。出来事の推移のなかで「現にないもの/現にあるもの」という対照的な関係が非概念的に捉えられた結果、この実存的把握に基づいた非概念的・実存的な自己意識が生じる、とは言えるのではないか(そう言わないことには「自己意識なるものも非自己意識的に独在する〈私〉から始められるよりほかない」と言えないのではないか)
 
 現にないものが実存的に把握されるというのは論理的には矛盾しているように思われる。しかし他方で、現にないものも実存的に把握されているのだと差し当たり考えないことには、永井への質問として書いたような「現在体験の時間におけるゼノンのパラドックス風矛盾」に陥ることになる(ので、「現にないもの」も現に把握されていざるをえないということになる)。
 そう、感覚的に気持ち悪いのは、「現にないもの」を捉えるその捉え方が、「実存的/概念的」という二種類に(概念上は)分類されうるのにも関わらず、体感としてこの分類はどちらなのかわからない、割り切れない、というところ。例えば今自分は自宅の自室にいるが、扉の外の在り方を概念的に把握しているのか実存的に把握しているのか、と問うと、まあ後者だと答えたくはなるものの、明確にそう言える根拠はない。例えばまた、三年ほど前のことについて思い出している時は、思い出されている当の出来事は概念的に把握されていると言いたくはなる。とはいえ三年前の出来事として現に今思い出されているという意味では実存に乗っている。いや、そう言ってしまうとすべてが実存に乗っているのだから、概念把握も実存においてなされる、とは少なくとも言えるだろう。
 こういう時はやはり動物を引き合いに出したくなる。非言語主体は概念把握ができない主体だから、彼らにとってはどのような別れも今生の別れであり、どのような出会いも奇跡的な出会いだ。自己にとって主体というのが対象化されていない(=世界というのが客観化されていない)ので、玄関先で見送った他者がその先も持続しているという把握ができない。とはいえ、犬猫にとって玄関の扉の先は完全な無であるのかというと、さすがにそこまでは言えないように思われる。つまり犬猫にとって、身近の形象については非概念的な形で把握されているだろう、と。この実存的把握は実のところ何を意味するか。繰り返しによる習慣、条件付け、と言いたくなるが。
 そして、そのような仕方で条件づけられてあるような、非概念的=実存的な現実認識というのは、言語主体においても「現に今」を超えてあるだろう。いや、あるいはそうした現実認識を含めて「現に今」である、と言うべきかもしれない。そうした非概念的=実存的な現実認識こそ、「現に今」における時間的幅や空間的広がりそのものである、と。それこそ音楽を聴くことを考えてみればわかりやすい。音楽を聴くことは、繰り出される音の一音一音を概念的に把握することなのではなく、傾聴している「今この時」に統合された、ひとまとまりの連関として捉えることだろう。


「音楽を聴くことができない人間」という想定

 音楽を聴くことができない人間を考える。音楽のない国においては、連続した音の連なりは、連なりとしては理解されない。それらは統合が成されないまま、単なるバラバラな音として聴き捨てられることになる。逆算して考えると、音楽とは、連続して発音される各音が、一連の音の連なりとして統合的に把握される聴覚現象のことである、と定義することもできる*。   * オリバー・サックス「妻を帽子と間違えた男」が想起される。本書では本当に妻を帽子と間違えた男が登場するのだが、彼はまさに物事を統合的に捉える能力が欠如している。例えば手袋を渡されたとき、彼は以下のように答える。

「表面は切れ目なく一様につづいていて、全体がすっぽりと袋のようになっていますね。先が五つにわかれていて、そのひとつひとつがまた小さな袋ですね。袋と言っていいかどうか自信はないけれど」

妻を帽子とまちがえた男:オリバー・サックス:高見幸朗、金沢泰子訳:晶文社:p40

 物事を分析的・概念的に捉えることはできるのに、手袋としての全体を統合的に捉えることができない。そんな彼は、とにかく何をやるのにも、音楽を口ずさまなければならない。音楽が途切れると途端、自分が何をしていたのかわからなくなりフリーズする。――生における統合を得るために音楽が必要というのは示唆するところがある。    この定義によると音声言語も言語として把握される以上は音楽であるということになる。音声言語が言語として機能するには、音声そのものがある程度のまとまりとして統合的に捉えられなければ始まらない。異国の言語を理解できないというとき、この理解できなさの初発には、「繰り出される音の連なりを統合的に把握できない」という難点があるだろう。これがクリアされて初めて、「その音の連なりが何を意味しているのかがわからない」という問題が生じうる(音声言語を学ぶには、まず音の連なりを捉え、次にその音の連なりの意味を覚える、という段階が必要だ。音の連なりを捉えられなければ、そこに意味を付与することもできないから)。前者は実存のレベル、後者は概念のレベルにおける不理解の形態と言えそうだが、しかし実際のところ、任意の音の連なりとそれが意味するところとはセットで修得される。  だから音楽を聴くことができない人間というのは、日本語が全くわからないアメリカ人にとって日本語を耳にするようなものである、とは言えるかもしれない。しかし、日本語が分からなくても、音声言語としての日本語の音の連なりのみはともあれ把握できるのなら、この対比は当たらないかもしれない。改めてそう考えてみると、この「音楽を聴くことができない人間」というのは、少なくとも「音声言語を持ちえない人間」であり、ともすると「物事を統合的に捉えることができない人間」でさえあるかもしれない。  物事を統合的に捉えることができない人間とはどのようなものか。その種の人間を想像するとして、何をどう想像すればよいのか。例えばドが鳴った後にレが鳴る。この種の変化を、断絶を挟まず、シームレスに(というか「現にこうあるように」)捉える能力というのがここでの「物事を統合的に捉える能力」であると言いたい。この能力を欠いた人間は、生起する物事が瞬間ごとにバラバラの状態で在る、というあり方をしている――と言いたいところだが、「バラバラの状態で在る」というそのパースペクティヴ自体がもう物事を統合的に捉える視座に立ってしまっている。そうなると、そうした存在はもはや「存在しているとは言えない」というのが唯一ありうる答えではないだろうか。今というものを「現実のしかなさ/概念のしかなさ」とに分けて考えた際に陥るゼノンのパラドックス風のパラドックスというのは、このことを示しているのではないか(つまり「そう考えるとわれわれは存在しているとは言えなくなるのではないか」と)。  とはいえわれわれは、いや少なくともこの私は、こうして存在している。そしてこのように作文しているように、物事を統合的に捉えることができてもいる。そしてまた、このように作文しているように、言語を使用することができてもいる。この事態そのものがどこか矛盾を孕んでいるように思え、それがまさに、よく累進構造図を用いて永井が説明するようなあの構造のもとにあるということなのだろう。しかしなぜそのような矛盾を孕んだまま、さしあたり問題ないようにやっていけているのか。  それはともあれ実存が先立つから、というのは一つの答えではないか。つまり、ともあれ物事を統合的に捉えることから全てが始まるし、実存的把握だろうと概念的把握だろうと、ともあれこの統合的な視座においてなされることなので、現に把握がなされているというそのことにおいて矛盾もなにも結果的に無化されている、と。    なにはさておいて、ともあれ統合的に捉えられていないとそもそも(内的に)存在しているとさえ言えない。存在の源泉であるところのこの統合というのは無視できないだろう。だから〈私〉や〈今〉を語るときには、これを前提していざるをえないのではないか。――そうだとして、独在性の議論というのはまさに「この「統合的把握」を概念化して他者にも当てはめることなのだ」と説明しても問題ないのではないか。


 動物について2


 動物(非言語主体)は存在しうるか

 なにか掴んだような気がしたのだが。
 言語主体は非言語主体の上位互換みたいなイメージがあるから、言語主体は非言語主体でもある、というイメージもまたある(人間だってもともと言葉を喋れなかったのだし)。しかしそれは違うのかもしれない(少なくとも永井は違うと言っているようではある、「〈私〉の哲学をアップデートする」のアフターソートp200および注七参照)。しかし非言語主体も主体として捉えられる以上、何らかの統合的把握があるものとして見なされざるをえない(その種の統合状態をまさに主体と呼ぶのだから)。この統合的把握というのは、永井哲学で言うところの「第一基準」と同じこと? まあ永井哲学内で第一基準を統合的把握と言い換えても成り立ちはするだろう。とはいえ、その「第一基準」、つまり「この目から見え……」というそれ自体についてさえ、その成立にはそもそも主体が出来事の生起を統合的に把握できなければならないという前提に基づいている。だからこれは、第一基準の前提の話をしていることになる*。
 
* いや、もはやそれは、その裏に回って考えることができない類の前提かもしれない。ただそうなっているというだけで仕組みも何もない、端的に与えられてあるもの。この前提――つまり時間的幅、浸透した今、統合的把握、とでも呼びたくなるこれ――は、それがそもそも(哲学的に重要な問題として揚言することさえできないという意味において)語りえないことなのではないか。この統合的把握というのは、そもそもの前提というか、前提の前提、生における最背面を成しているため、それを取り上げてどうこう言うことさえできない、と(まあそれならそれで明確にそう言明することにはそれなりの哲学的意義はありそうではあるが)。
 
 そしてわれわれは通常犬や猫といった非言語主体を「主体」として捉えるとき、第一基準を満たし、第二基準を満たさないような在り方(の内観)を想定しているのではないか。つまり、その目から見えたりその耳から聴こえたりはしているが、他者を自己と同格化したうえで自己を反省的に捉えることはないような主体、として。他方「哲学探究3」における永井の議論では、第一基準というのは(持続を考えると)第二基準から創出されるとされており、だから両者は相補的な関係にあるとされている。そうなると、第二基準なしの第一基準というのはありえないことになり、犬や猫といった非言語主体のあり方が謎となる。そもそも「非言語主体」というあり方自体が矛盾を孕むものとなり、それは概念的にさえ存在しえないと言わざるをえなくなるのではないか(言語的交通可能性が対象を主体として見なすための必要条件、ということになるのではないか)。
 違う、と敢えて言うなら。われわれは非言語主体を、ほかならない「主体」として捉える以上、実際には言葉を話すことはないがともあれ自我同一性の持続する主体として、だから自己を統合的に把握している主体として見なしている。だからここでの問題はその「見なし」にあるのではないか、と疑問できるかもしれない。つまり非言語主体を主体として見なすことそのものには、決定的な誤りがあるのだ、と。「非言語主体」などというのは論理矛盾であり、より正しく見るのならそのような対象は主体とは見なせないのだ、と。
 さすがにそこまでは言えない気がする。というのも犬や猫といった非言語主体は、自己を反省的に把握することはできないとしても、物事を統合的に捉えてはいる、ように思えるから。そうでなければ、生におけるあのような一貫性というのは生み出されえないのではないか。いや、生み出されうるかどうかといった自然科学的な問題ではない。事実としてある種の一貫性のある生を歩んでいるのだから、「木々のざわめき」や「川のせせらぎ」のようなものと同一視するのはさすがに無理があるのではないか、と。
「反省/統合」という対立軸が考えられる。これは「本質/実存」「私秘性/独在性」といった対立軸と被るところがある。非言語主体には私秘性がないが、それは「私だけに感じられる」といったように感覚実質を客観化することがそもそもなく、それはただ単に与えられたものとして在るだけだから。非言語主体には「統合、実存、独在性」のみがある――と言いたくなるが果たして独在性まで含めてよいのかどうかは不明である。
 とはいえこの二項は等価ではない。反省的な自己把握というのも統合的把握のもとにおいて成り立ちうることは確かだろう。なにはさておき「統合、実存、独在性」が先だってなければ始まらない。……とまた言いたくもなる。

 

 意識と反省意識

 犬や猫と接するとき、彼らは論理的には反省意識を持ちえないとはいえ、「見なし」としては反省意識を持ついわゆる主体として捉えている、と言えるだろうか。そう言わざるをえないように思われる。
 そもそも意識とは反省意識のことなのか。反省意識でない意識とは何か。ここでの論脈から言うと、ともあれ物事を統合的に捉えてさえいれば意識があり、さらに自己を客観的に捉えていれば(他者と自己との同格化と、それによる世界そのものの客観化という世界観を捉えていれば。内山図で言うと第三図、第四図的に把握されていれば)、それは反省意識なのだということになりそうではある。とはいえ、こと「見なし」においては「言語主体/非言語主体」という差異はありえないように思われる。世界の開闢でありさえすればそれはもう主体として捉えられる、と。人でも犬でも猫でも、ともあれそれを主体として見なすということは、それを概念的には「裏返しの箱」として見なすということに他ならないから。「裏返しの箱」として見なすということと、その「裏返しの箱」が他の箱をも「裏返しの箱」と見なすか(つまり自分が彼をそう見なすのと同じように彼も自分を含めた他者をそう見なすのか)、ということに関しては不問で済ませることができるのではないか(だから風に揺れる洗濯物や斜面を転がる石などを主体として見立てる、ということも常に可能なのではないか)。
 とはいえ自分は犬や猫が、自分が犬や猫をそう見るのと同様に、犬や猫の側も自分をそう見るものとして見なしている。少なくとも自分は犬や猫を、風に揺れる洗濯物と同じようには見ていない。犬や猫は他の主体を、区別しているが「同格の他者」とは見なしてはいない。単純にそう言いたくなる。犬や猫は演技をしない、役柄依存性がない、と言い換えてもいい。

 

 非概念的な自己同一性の成立

 ここでの問題は。独在性は単体で成立しうる(ものとして考えうる)のか、という点では? でも独在性が単体で成立しないと、そもそも超越論的構成なんてものも成立しようがないのではないか。……とはいえ、独在性というのは超越論的構成成立以後にしか存在しえない、とも言える? その把握に関しては、そう言えるかもしれない。それこそ「哲学探究3:終章4節」で、「寒さだけが唐突に生じては消える」といった思考実験で示されているように、第一基準だけがあってもそれを通時的に捉えうる視座がないと無に等しい、とは言えそうではある。
 だからといって犬猫(と接する際に抱かれる主観性)が存在としては無であるなどとは到底言い得ないように思われる。なぜなら、犬猫は、非客観的な仕方で時間の流れ(というよりも現に今における無段階的/質的な変容)を、それそのものとして捉えうるから、とやはり言いたくなる。

 ウィトゲンシュタインの「何が見えていようと、見ているのはつねに私である」とは、この水準で理解されるべき言葉であり、それゆえ、そこにいわゆる自己意識が生じているか否かといったことは、この問題とは典型的に関係ない。反省的な自己意識が生じていようといまいと、「私」という自覚があろうとあるまいと、そういう種類の二次的事実には関係なく、「見ているのはつねに私」だからだ。

〈私〉の哲学をアップデートする:永井均、入不二基義、青山拓央、谷口一平:春秋社:p25

「見ているのはつねに私」というこの性質を他者にも振り分ける、ということさえ達成されればそれでもう主体・意識は成立する(「反省的に自己を捉えているか≒言葉を交わすことができるかどうか」というのはだから関係ない)。だから犬や猫にも意識があると言える、と。
 認識されるところの全て(=世界)に対照される形で必然的にあらしめられる〈私〉、というこのシンプルな在り方を、犬や猫といった非言語主体に見いだしている、とは言えるのかもしれない。「世界=私」であるような在り方。
 とはいえ、「世界=私」であるのにも関わらず、犬や猫は認識において自分と同類の他者を他者として見分けているように思われるのはなぜか。あるいは犬や猫にとって、他の犬や猫や人というのはそれこそ「木々のざわめき」「水のせせらぎ」と同様の純粋な自然現象にすぎず、それ以上のものとしては捉えられていない、と言えるだろうか。論理的にはそう言いたくもなるが、しかし実際に犬や猫を見ていると、実情としてそぐわないように思われる。しかし「哲学探究3」でも言われているように、何かを持続的に捉えるには、自己が自己自身にとって持続的(=同一)でなければならない、とはやはり言える。そうでなければ、物事の同一性を担保する視座そのものがありえないことになるから。しかしその自己同一性というのは、実のところ非概念的(非構成的)に成立するのではないか。そして人間にしても、前提としてそのように成立していないことには概念的な成立というのもありえないのではないか。そしてそうした成立を支えているのが時間、というよりも「出来事の変遷という質そのもの」なのではないか
 
「しかなさ」は本質的に持続しない、と「哲学探究3(p253)」で永井は言った。「時を隔てた誤同定不可能性の問題」について語る文脈。「本当はしかなくはないものをしかなさの内部に取り込まざるを得ない」と述べており、それは時間における客観性の成立条件ではあるだろう。とはいえともあれ何かが認識されているのなら、それは「現実の今」のうちにあり、その「現実の今」というのは時間的幅を持っていざるをえない。そのようにして、概念化されない(=しかなくはないものをしかなさの内部に取り込むという形での把握ではない)しかなさの実質のうちに、過去と呼んで画然と区別することのできない後景が、現在体験として在る、とはやはり言えるのではないか*。
 
* とはいえここにもゼノンのパラドックスが潜んでいる、と疑うことができる。つまり「過去と呼んで区別することができない後景」と、「真の今」と呼ぶべき認識の最先端、という二時点に分けて考えたとき、どこまでが後景でどこまでが真の今なのか、と。この問いに対する答えは、「そもそもそのような客観的時間尺度を持ち込むこと自体が不当であり、これらはあくまでも現在体験として在るのだ」という(ベルクソン風の?)ものになるだろう。ここで言わんとするところの「後景」とは過去の想起ではなく、あくまでも現在体験である。
 
「本当はしかなくはないものをしかなさの内部に取り込まざるを得ない」というのはあくまでも「今/他時点の今」という客観的時間解釈のもとにおいての話であって、現にあるところの体験そのものについては言えないのではないか。それが言えないのでなければ(つまり上記したような仕方で「後景が現在体験として在る」というあり方をしているのでなければ)「しかなさ」もなにも、そもそも認識そのものがありえないだろうから。だからこの意味で、「しかなさ」は持続しなければならない、とむしろ言うべきではないか(この意味での持続とは、時点間における今の移ろいとしてではなく、体験としての後景のシームレスな変化として現れる)。


「しかなさ」の射程

 しかなくはないものがしかなさの内部に取り込まれた後となると、「現実(しかない)/概念(しかなくはない)」が明確に割り切れなくなる。この曖昧さを逆手にとって、例えば「しかなさの(時間的)射程が極端に長い人」といった想定が可能だろう*。
 
* 「しかなさの射程」というのは非概念的・統合的把握をあくまでも外側から概念的に定義したものだと言える。内側からそれを考えると、「「しかなさ」の長さ」などというものは計れない。現に「しかない」のだから、その長さを把握することは「しかなさ」の外側に出ることを意味するから。だから実際この射程というものは、ことが「しかなさ(=独在性)」である以上、他人のそれもわからないし、自分のそれさえわからない、ということになる。
 
「しかなさの射程」というものをどう考えるかを考えたとき、わかりやすいのはやはり音楽だろう。上記したように、音楽を聴くことは、繰り出される音の一音一音を概念的に把握することなのではなく、傾聴している「今この時」に統合された、ひとまとまりの連関として捉えることだろう。楽曲を聴いて四分が経過したとき、一分が経過した時点での認識は過去のラベルを貼られて記憶の産物と化している、と見なすのは適切には思われない。楽曲の全体が「しかなさ」のうちに統合された状態でなければ、それはそもそも音楽と見なされず、単なるバラバラな音の羅列に過ぎないことになるだろうから。
 だから「しかなさの射程が極端に長い人」というのは、極端に長い楽曲を聴き続ける人、のような在り方として想定されるべきだろう。例えば今からちょうど三年前のドの音を「ちょうど三年前にドの音がした」と捉えるのではなく、三年間続いている一連の楽曲として(ドの音とかレの音とか分けて考えることなく)統合的に把握しているような在り方として(だから「三年前」などという客観的な時間観念がここでは捨てられていることになる。上記したように、ここでの時間とは一連の楽曲の質的変化という形で現に現われる、ということになる)*。
 
* 逆に「しかなさの(時間的)射程が極端に短い人」というのは、究極的には想定不可能となる。それはもう「この目から見え、この耳から聞こえ……」という第一基準(の、特に「この」で示されるところの内容)がありえない状態なので、そもそも存在していると言えないのではないか(それは、純粋な独在性、私秘性のない独在性、〈 〉のみ、というあり方を想定することにも等しい。上記したオリバー・サックス「妻を帽子と間違えた男」のような在り方が一応は想定可能だが、その極限は無と化すのではないか)。
 
 そして実のところ、犬や猫といった非言語主体の生というのは、このような状態にあるのではないか(余談だが、それは相当に喜ばしい在り方だろう)。生まれてから死ぬまでではないにしても、ある程度の射程の「しかなさ」のうちに、非概念的な仕方で物事を捉える、といった在り方をしているのではないか。そうとでも想定しない限り、犬や猫が、例えば閉じた扉の先に世界の延長を想定しているような振る舞いを見せたり、お手やお座りをしたり、「さんぽ」と言ったら尻尾を振ったり、「ちゅーる」と言ったら寄って来たりすることの説明がつかないのではないか。ともあれ主体であるということは、まず以て、この種の非概念的・統合的把握が可能であることを言うのではないか。


 自覚なき自己把握

 犬や猫といった動物は人間のように自己を客観化して捉えることがない(自己意識がない)としても、ともあれ第一基準は満たすものとして捉えられると思う。素朴な印象として、このような主体についても(ある種の)持続を考えられるように思うが、動物に第二基準は成立するのか(第二基準は「非概念的な質」でもありえるのか)。
 いや、第二基準が「非概念的な質」であるとしたら、それは第一基準と変わらないことになるのでは。とはいえ……。ああ、ここに疑問の核心が潜んでいそうな気がするのだが。ともあれ「この目から見え、この耳から聞こえ……」というその「見え、聞こえ」というのは、内容である。それは記憶ではなく、現在体験だ。他方で第二基準というのは現在体験の概念化されたもの、実質を伴わない概念だ。自分の問いは、この「第一基準/第二基準」の解釈の仕方の問題だ、と一面では言えることになるだろう。
 そもそも、見えや聞こえがあるということは、世界の側から対照されるところの自己もまたあるということになる。認識が相即的に自己を措定すると言える。動物はまさにこの種の仕方で自己を措定している(というよりも、自己が措定されている)だろう。
 他方人間は、「認識が相即的に措定するところの自己」というあり方そのものを他者に適用し、自己を同格化することで客観的世界を創出している。とはいえ、人間であっても基底の生というのは動物と変わらないと言わざるをえないのではないか。認識が相即的に措定するところの自己において、その種の世界の客観化という観念を創出しているのだから。先だっているのは非概念的な質であり、いかなる概念もその「非概念的な質」において取り扱われるよりほかない、のではないか。
 だからこそ、人間は人間である以前に(現に)動物で(も)ある、とは言わざるをえないのではないか。
 動物に第二基準(としての非概念的な質)が成立するとしたら、どのようなものか。そもそも第二基準というのは「3/10/2023現在、K市在住、阿久沢牟礼と名の付く人物」といった、客観的・意味的な自己把握を言うのだから、当然動物(非言語主体)はこの種の捉え方をしえないだろう。とはいえ前記したように、動物にも「見え、聞こえ」といった感覚実質が現にあるのだとしたら、そうした認識そのものが言わば「自覚なき自己把握」として働きうる。動物とは言わば、世界に照応されるところの自己として在る。だから動物の自己というのは、世界に対する反応において在る、とは言えるのではないか*。
 
* そう言ってみるとそれは自然現象と極めて似ているような気がしてくる。木の葉は風に吹かれて揺れる。猫はネズミを見ると飛び掛かる。人は火の手から逃れる。これらはどう違うのか。木の葉には意志がなく、猫や人には意志がある、と単純に言いたくなるところではあるが、外的状況に対する反応という点では同じことであり、そこに意志を見いだすというのはまったく恣意的な作業に過ぎない。
 こう分類すればどうだろう。木の葉は風に吹かれると必ず揺れるが、猫はネズミを見たとしても必ず飛び掛かるわけではない、と。つまり後者は、「飛び掛かる/飛び掛からない」というところに「意思の自由」を見いだし、結果的に行為の主体として見なしているのだ、と。あるいは逆に、「意思の自由」を前提としているから「飛び掛かる/飛び掛からない」という行為の選択もありうるのだ、と。
 では、われわれが通常自然現象と見なしているもののなかに、「必ずしもそうなるわけではない」というようなものがあればどうか。例えばある洞窟のある場所で、水滴が垂れてくる音が時折人の声に聞こえる、とか。それが必ず人の声に聞こえ、またこちらの呼びかけに対して応答するような音声を発するようになったら、それはたまたまだったとしても意識主体と見なされることになるだろう。そこから遡及的に考えると、われわれにとっての人間を、その種の偶然的な存在と見なすことも可能だ。つまり、普段よく会話する家族友人知人がすべて、偶然そういう音声を発しているだけで意識や意志といった「中身」など全くない、という想定。
 風に揺れる木の葉に意志を想定することもできる――例えば「寒くて身震いしている」といったように。いずれにせよ、それらはあくまでも「見なし」の問題であり、これを超えるということは絶えてない。対他的に見ると、何らかの事物を主体として見立てるということは、まったく恣意的な作業に過ぎないとは言えそうだ。それを主体として見立てるのに足る条件、のようなものは無く、世界内のどの形象を主体として見立てるかというのは実は単に経験的な問題に過ぎないのかもしれない。つまり、「人類は犬と呼ばれる形象に主体性を見いだしがち」といったような(そう考えると、それこそ「木の葉を主体と見なす共同体」「転がる石を主体と見なす共同体」「犬や猫を主体と見なさない共同体」等というのがあり得ることになる。またそうであるとすると、なぜわれわれは主体の見なしについて概ね一致しているのか、ということもまた問うべき問いとなるだろう)。
 
 われわれは動物について、「己の認識に措定されることで持続する主体」と見なしているのではないか。そして、なぜそれだけで(いわば非概念的な質・統合的把握だけで)持続する主体として成立しうるのかというと、それこそ「しかなさの射程」に依る、と言いたくなる。だから犬や猫の生というのは音楽のような在り方をしている、と比喩的に表現できることになる。動物のような非言語主体は、音楽を聴く鑑賞者として、音楽に照応される形で自己がある。


「傍観」と「あるがまま」

 とはいえ、そうなると自分の振る舞いそのものも一つの音楽のもとにあるのか。それとも、それだけは音楽ではない、つまり外的な見舞われではない、内的な、いわば意志的なものなのか。
 ここでの疑問は、生の全てが音楽であり自らを照応するとしたら、この意味での自己とはもはや完全な傍観者と化しており、現実世界に一ミリも足を置いていないのではないか、というものとなる。それは最背面としての〈 〉の視座からすべてをただ傍観しているような在り方ではないか。
 ――あるいはそう言えるかもしれない。この問いは明確な答えが得られるような類のものではないだろう。自分自身についてさえそう言え、それは一面の真理だろう。他方、最背面としての〈 〉を否定できる理由は、だからわれわれ人間が自己を他者と同格の存在として客観的世界に位置づけているからであって、ここにきて初めて「自由意志」等々といった思想が生じる余地が生まれることになる。
 ここでのさらなる疑問は、では動物はどうなのか、という点。徹底して傍観的な在り方でない限り、動物を主体と見ることはできないのか。それとも傍観的な在り方ではない主体としての在り方がありうるのか。そしてそれがありうるとしたら、「非概念的な質」による世界把握を第二基準とするような自己把握の仕方に基づいているのではないか、と。そして動物をそのように見なしうることの根底には、われわれ人間の生もまたそのような非概念的な仕方における自己把握をしているから、と。
 
 そもそも傍観的な在り方というのは何なのか。それは、自己と世界とを視野に入れたパースペクティヴなのか、それとも自己と世界とが未分であるようなパースペクティヴなのか。前者は人間(言語主体)のもの、後者は動物(非言語主体)のもの、と言えそうではある。
 主体としての自己そのものを、客観的世界内の一人物として傍観する、というあり方が前者であり、これは例えるならネットゲームの操作者とアバターの関係に比される。
 後者はどうだろう、少なくとも傍観とは言わないだろう。それは、言うなれば、自分が役者であるという自覚なしに舞台上で役柄を演じるような在り方、となるだろうか。動物には、生における外側というものがない。だから「内外」といった対比もなく、ただあるがままにある。「音楽としての生」とはそのようなものだろう。自己を客観化し(え)ないことにより、自己や世界を可能的には見ず、つまり自己や世界が「自己」や「世界」と呼んで客観的に取り扱われることなく、ただそれそのものとして、唯一無二のものとして、現に在る、という状態。なぜそれを主体と見なすことができるのかというと、単純に第一基準が成立しているからだ、と言いたくはなるものの、それこそ「哲学探究3」で、「寒さだけが唐突に生じては消える」といった思考実験で示されているように、第一基準だけがあってもそれを通時的に捉えうる視座がないと無に等しい。だからそこには、第二基準ではない何らかの統合的把握を前提にしている、と言わざるをえないのではないか。


 自己把握とはそもそも何なのか

 さらに言うと、第二基準、つまり自己の構成的把握というのも、実のところこの統合的把握の前には非本質的な要素でしかない、と言えるのではないか(という謎の直観があるのだが……)。
「私は阿久沢牟礼である」という自己把握とはそもそも何なのか。それは、現に今統合的に把握されている限りにおける内容全般に、「阿久沢牟礼」という記号をラベリングしただけのことではないか。本質的なのは「内容」であって、第二基準とはその内容に対する単なるラベリングに過ぎない、と。そしてそのラベリング自体もまた内容であり、別の内容によって補完されている、と言わざるをえないのだから、結局のところ、それら仕組みをひっくるめて総じて内容である、とも言わざるをえないだろう。そしてその内容というのは、現に今、こうしてある限りのところのものである、とも言わざるをえないだろう。
 自己同定の根底には、〈私〉ないし〈 〉といった独在性(=統合的把握から内容を捨象することで抽象化された「見えそのもの」「聞こえそのもの」といったもの)ではなく、それが把握されているということが遡及的に「現に見えている」ということを照応するところの「これが/見えている」という統合的把握があり、これこそそれ以上遡ることのできない主体の地盤と言うべきではないか。生というのは「内容(これ)」とその「把握(見え)」とがないと成立しえないだろうから。内容だけがある、ないし把握だけがある、というのは、それがどのようなことなのか想定することがそもそもできず、両者は不可分の関係にある。実のところ、独在性という概念は不可分の関係にあるこれらを分けて考えるという点において、何か根本的な過ちを犯しているのではないか(と敢えて疑問してみよう)。
 
 以上の論考を整理する。「哲学探究3」は、そもそも内容の把握と、内容が把握されるところの地盤としての自己同一性については、超越論的構成の働きに拠っており、だから持続を考えると第二基準のほうが第一基準よりも優位にある、という話だった(と理解している)。しかしそうなると、動物のような自己意識を持たない主体というのは、「哲学探究3:終章4節」で「ただ寒さだけが生じる」という例によって論じられたように、認識を統合する持続的な在り方ができないことになり、つまるところ主観的には存在していないと言わざるをえないことになるのではないか、というのが疑問だった。
 そして個人的な直観からすると、動物は主観的にも確かに存在しているはずで、それは「哲学探究3」で論じられたような在り方とは異なる論理で持続主体というのが成立しているのではないか、と。ひいてはそれは人間のような言語主体においてもその成立の根拠となっているのではないか、と。そして、動物的な持続とは、「時間軸上を今が動いていく」といった客観的な時間概念に基づかない在り方をしているのではないか、と問うた。
 次いで、現在体験にも時間経過(内容の質的変化)を読み込まないことには成立しない、という点から、現在体験そのものを非概念的に捉えられなければそもそも認識というものが成立しえないと論じ、これを以て、動物的な持続は「音楽としての生」であると結論した。そして人間の生(つまり言語主体としての生)もこの「音楽としての生」の上に乗っかっており、この種の統合的把握が生の基底を成していると言わざるをえないのではないか、と。


 動物における入れ替わりの想定について


 動物の入れ替わり

 記憶でありさえすれば、それはそれを想起する主体における記憶であり、ともあれそれが想起されている主体が経た過去であるということに、相即的になる、とは言えるのではないか。偽の記憶を挿入されるとか、過去のある時点で入れ替わっていたとかいった想定においては、客観的事実との照応によって誤りが正される可能性はあるものの、それが誤りと言いうるのはあくまでも客観的世界に立脚しているからであって、主体としては仮にそのような記憶改竄や入れ替わりを裏付ける客観的な証拠があろうとなかろうと、それはあくまでも自分自身の記憶としてある、とは言わざるを得ない。この意味において、記憶が「他者の記憶としてある」ということは、原理的にできない、とは言えるだろう。
 例えば「現にAである私だが、二年前から向こう一年はAとしての記憶が途絶え、代わりにBとして生きてきた記憶がある」という場合、Bのほうは他人の記憶である(あるいはBのほうが自分の記憶であり、現にAである自分こそ他人である)と、ある意味では言えるかもしれないが、しかしそれはどうであれ私の記憶ではあらざるをえない。この意味において、「他人の記憶」というのはありえない。
 記憶そのものに、「自分のもの/他人のもの」という目印があるわけではなく、記憶とは想起される内容以上のものではない(仮にそういう目印があるとすると、そもそもなぜ記憶は自分の記憶でありうるのかという問題が提起できる。目印というのもまた記憶に基づいているのだから、これは「自分の記憶の正しさ」「自分の記憶の記憶の正しさ」「自分の記憶の記憶の記憶の正しさ」……といった具合に累進するだろう)。
 そもそも「私は阿久沢牟礼である」とは概念把握なので、このような把握をしない動物(非言語主体)については記憶改竄や入れ替わりの想定は不可能だろう。自己を自己自身で客観的に捉えない限り、この種の概念的な自己同一性というのはありえない。加えて、動物における記憶というのは非概念的な質なので、仮に入れ替わりなどが起こったとしてもそれは入れ替わりとは見なせない、のではないか。
 ……と思ったが疑問が生じたので考えよう。動物のような非言語主体に入れ替わりの想定は可能か。
 主観を考えると入れ替わりとは見なせないとしても、客観的な想定としては可能だ、とは言えるだろうか。むしろそれが言えないことには、動物を主体と見なせないということに同時にならないだろうか。ともあれ主体である以上、そこから世界が開かれているのであり、そこから世界が開かれている以上、何らかの意味で統合的把握が為されているとも考えざるをえない。このような場合、世界認識が遡及的に示すところの意識(「自己意識」「反省意識」ではない単なる意識ないし統合的把握)について、入れ替わりの想定をすることは可能でなければならないのではないか(そうでないと、われわれは動物を「多身体単一意識」の主体と見なしていることに相即的になるのではないか)。
 入れ替わりの想定をするときわれわれは、主体を「身体(=ハードウェア)/精神(=ソフトウェア)」といったように切り離して考えている。動物についてもまた、それを主体と見なす限りにおいて、身体と精神のような区別された在り方を当てはめていると必然的に言えるだろう。そういう意味では、ともあれ何らかの対象を主体と見なすということは、その主体自身が自己を反省的に、世界を客観的に見ることができるかどうかとは無関係に、自己自身の世界解釈にそれを当てはめて捉えることなのだとは言えるだろう。


「身体間の精神の乗り換えが容易な社会」という想定

 逆に、「身体/精神」という捉え方を排した主体の捉え方というのはありうるか。主体とはつまり精神のことである、と言える? あるいは。主体とはつまり身体のことである、と言うよりも疑問の度合いは小さい。例えば、人間が総じて義体化されるとか、生活の場が完全にVRに移行するとかして、身体を自由に乗り換え可能となったとしたら、「主体とは精神である」というのはより確からしく言えることになりそうではある。ということは、主体というものを捉えるにあたって身体の重要性というのは、現状身体と精神とはそれほど簡単に乗り換えたりできない、という(いわば偶然の)事実に基づく、と言えるのだろうか。そう言えるとしたら、任意の対象を主体と見なすにあたって対象の身体が演じる役割は非本質的なものに留まる、と言わざるをえないのではないか。
 ――いや、身体が乗り換え可能であっても、「どの口が言うのか」という実存的なレベルにおける主体の所在表明は依然として重要ではありうる。とはいえ、「どの口が言うのか」という問題と、その口が言うところの精神(本体?)は誰なのか、という問題とは切り離して考えることができる。ことに上記したような身体間の精神の乗り換えが容易な社会においては、「その口が言う」ことが「その主体が言う」こととイコールではない(このような社会においては、「名乗ること」がまず重要になるだろう。身体が主体を相即的に示していない以上、身体の操作者としての自らの身元を明かす必要があるだろうから。とはいえ名乗りの信憑性についてはどこまでも偽ることが可能である以上真偽が定まらないが)。
 このように語るときすでに、「精神こそ主体である」ということが前提とされている。では、「身体こそ主体である」という考え方は可能だろうか。上記したように、身体に対して精神(=身体の操作者)が自由に入れ替わることができる、というような社会において、身体のほうを主体と見なす、ということは可能か。そのように見なしたら、「身体を精神が自由に乗り換える」という見方さえ成立しないのではないか。――そう、「身体間の精神の乗り換え」という着想自体が「精神こそ主体である」という前提に基づいているのではないか。「乗り換えた」と言いうるためには、それを行う地盤としての主体が必要であり、その主体には乗り換えを認識するための通時的・統合的な把握が必要であり、その役は精神以外に担うことができないのではないか(そしてその精神というものは、つまるところ記憶にほかならないのではないか)。それを身体に担わせるとなると、結局それは「任意の身体における操作者の履歴」以上のものにはなり得ず、それはやはり「主体」と呼ぶことが論理的に不可能なのではないか。――その履歴を誰が把握しうるのか、ということを考えると、やはりそこには通時的な認識主体としての精神を考えざるをえない)。主体である以上、何かが通時的に把握されていなければならず、そうして通時的に把握されている記憶内容そのものが自己を形成する、というよりほかに主体というものを定義できないのではないか。
 
 身体間の精神乗り換えが一般化した社会においては、たとえ名乗ったとしてもその主体が偽っている可能性は除去できない。われわれは身体間の精神乗り換えが不可能とされている世界に生きているので、実質身体の同一性が主体の同一性と合致しており、いわば見た目の把握によって対象が通時的な主体であることを把握し、同定しうる。
 とはいえ身体にも変装したりイメチェンしたりといったように、誤りおよび間違いの余地はある。そのような錯誤の余地というのが最終的にどう解決されるのかというと。例えばスパイを暴く場合には尋問拷問などして口を割らせたりなどするだろう。つまり、彼が何者であるのかを知るということは、すなわち彼がどのような経緯でここに居るのかという記憶に基づく通時的・統合的把握そのものを知る必要がある、と。だからやはり、この現実世界においてもやはり、主体と呼んで指示する対象の本質は記憶ということになりそうではある。
 そうなると次に問うべきは、記憶と認識についてだろう。そもそも記憶と認識とはどう違うのか、と(それこそ真に重要な問題ではないか)。素朴な印象を述べると、「認識とは記憶である/記憶とは認識である」のどちらも言えそうな気がする。何かが認識されているのなら、認識された当のものは既に認識されている以上必然的に過去であり、それは記憶の想起であると言える。他方でいかなる記憶であってもそれが想起されるという体験そのものは当然認識である。認識でない記憶も、記憶でない認識も、ともにありえないように思われる。では「認識/記憶」とはそもそも何なのか。これらを分けて考えるとき、どういう点で区別しているのか。これもまた素朴に考えると、現在体験が認識であり、現に今体験されているのではない物事を回顧したときのその内容が記憶である、と。記憶は想起という体験ではあるものの、現在体験とは区別して認識される、と。過去食べた美味しいステーキの記憶を想起して今よだれが出る、という程度はまあありうるかもしれないが、さすがにナイフとフォークを使って実際に口に運んでしまうという事態は起こらない。なぜならそれは、あくまでも記憶であって現にあるものではないから。
 とはいえ、「現にある/現にない」というその種の対比自体、言語主体としての人間に特有のものの見方と言える。「現実/可能」という対比は、この現実から超出した視座をともあれ仮構しないことには成立しないだろうから。そう言ってみると、あるいは動物は、端的な認識と過去の想起とを区別しないような在り方をしているのではないか。
 ――とはいえ。そうだとして、それは「過去の想起」であると言いうるのかどうか。「過去が想起されているのにも関わらずそう思わず、現在体験と地続きのものとして捉える」とそれらしく言ってみたところで、その想定自体が原理的に検証不可能だろう。ことが主観である以上、過去の想起が過去の想起として捉えられないという想定は、そもそも過去の想起がありえないということを意味するのではないか。そうなると動物には現在体験のみがあり、そもそも過去を想起しない(というか原理的にできない)と言ったほうがすっきりする。では「過去の想起」とは何なのかと問うてみると、だから当の記憶印象に「過去」のレッテルを貼ることだ、と本質的には言えることになるのではないか。
***************
「私は阿久沢牟礼である」という自己把握とはそもそも何なのか。それは、現に今統合的に把握されている限りにおける内容全般に、「阿久沢牟礼」という記号をラベリングしただけのことではないか。
***************
 と上記したが、これと同じことが時間についても言える。つまり過去とは、現在体験を対象的・客観的に捉えうる視座に立脚したうえでなされる、現在体験そのものの記号化・類型化であって、それ以上のものではありえないのではないか。認識全般はその内容がどうであれ、現に認識されているところのものであらざるをえない以上、現在体験だと言える。過去の想起とは、その現在体験のなかの特定の内容を、一括して「過去」と括ることそのものに他ならない、と言えるのではないか。
 最近読んだ「時間と自我」で、大森荘蔵が以下のように述べていたのをふと思い出す。

 夢を想い出すとは、一度みた夢を今一度ハイスピードで見直すことではない。それは一般に想起とは知覚の再生や再現でないのと同様に夢のビデオではないのである。むしろ事は逆で、夢を想い出すというそのことの中に「夢をみた」という過去形の夢見の意味がすべて含まれているのである。

「時間と自我」:大森荘蔵:青土社:p45

 だから過去とは、その都度(現在体験であるところの内容の特定のものに過去のレッテルを貼ることで)作り出されると言えるのではないか。そう言ってみると「記憶」とは、そのように過去のレッテルを貼られた特定の内容のことであり、そのようにしてレッテルを貼られていない内容であるところの現在の現在体験と区別されているのではないか。そして、厳密に言うと「過去」とは「過去あった出来事」なのではなく、「その内容が認識されているところの現に今において過去あったと見なされた出来事」と言うべきではないか。
 そうだとすると、「過去の出来事」といって指示すべき対象はそもそもありえない(現に今しかないのだから、これは当然のことではある)。人間(言語主体)と動物(非言語主体)との違いは、現在体験であるところの内容に対して、過去(つまり「過去あったと今見なされた出来事」)というレッテルを貼ることで類型化・客観化するのか、それともそんなことはしないで内容を総じて端的な現在体験としてのみとらえるのか、という点にのみある、ということになる。
 つまり動物は過去を想起しないが、それは「卑近な現実」しかないということを意味しないことになる。動物(非言語主体)という主体のあり方を捉えるにあたっては、人間(言語主体)であるところのこの私から、「認識に過去のレッテルを貼る」「自己に固有名をラベリングする(ことで他者と区切り、また他者にも固有名をラベリングすることで客観的世界を創出する)」という諸々の「レッテル貼り」を除いたあり方を想像すればいいことになる。
 端的に表現すると、「動物は端的に生きている」と言える*。
 
* そうはいっても、動物だって「現にないもの」を想起することはあるのではないか。いや、それはない。動物にとって昨日の記憶は「昨日の記憶」ではなく、現にあるものだ。とはいえ、昨日食べた肉の記憶が想起されたとして、肉が現に目の前にあると錯覚するわけではない。それはあくまでも(昨日)食べた肉の印象として今あり、またそれは「昨日食べた」というレッテルが貼られない。レッテルが貼られない、単なる記憶印象としてそれはある。そう、言ってみれば、動物における自我同一性というのは、そうした「単なる記憶印象」によって形成されている、と言うべきではないか。そして実のところ、人間における自我同一性についてもそれは言えるのではないか。――というのも、「私の名前は阿久沢牟礼で、誕生日は云々で、学歴は云々で、趣味は云々で……」といった概念的な情報というのは、アクチュアルな自己把握において何の役割も果たしていないように思われるから。
 
 そうすると、入れ替わりの想定とはそもそも何だったのかと疑問が浮かぶ。身体が今まさに入れ替わったとしたら、自分は以前の身体と今の身体とを比べられるだろう。なぜなら、少し前までそうであったところの身体とは違う身体を動かしている自分をそこに発見するだろうから(というかそれがそもそも入れ替わりという想定における大前提だろう)。しかしそれくらいなら、動物だって可能だろう。概念把握ができないからといって、身体が入れ替わっても(ないし変化しても)まったく気づかないということはありえない。なぜありえないとはっきり言えるかというと――「現に今入れ替わった」というアクチュアルな変化さえ認識できないとすると、それは認識が統合的に把握されていない(=そもそも主体とは呼べない)ことを意味するから。この意味においてはだから明確に、動物に対しても入れ替わりの想定は可能である、と言えるだろう。
 そして実のところ、入れ替わりという想定には前提としてこの種のアクチュアルな変化があり、「誰々から誰々に入れ替わった」といった概念把握はその後に検証されうる、言わば付帯的・非本質的なものに過ぎないのではないか。
 例えばもともとA身体であったところの私がB身体へ突然変化したとする。そのB身体が入れ替わった時点でこの世に初めて生み出された、というのであれば、それは入れ替わりというよりも単なる変化と呼ぶべきだろう。他方、そのB身体が現にこの世に位置を占めていた場合は、「阿久沢であったところの主体が坂東へ移った」と言うに値し、さらにB身体であったところの主体がA身体へ突然変化したとするのなら、「阿久沢と坂東の精神が入れ替わった」などと呼ぶべき事態が生じ、これは正当に「入れ替わり」と呼ぶのに値するように思われる。


 第一基準的な記憶に基づく自己というあり方

 身体に加えて記憶そのものが入れ替わるような想定は不可能だ、という意味では記憶が自己というものを担保している(というか自己とは記憶だ)と言えるだろう。しかしその記憶とは全的に第二基準というわけではなく、第一基準でさえ記憶と言える。第一基準的な記憶(ここで統合的把握と呼んでいるところのそれ)が自己把握の前提を成して初めて、第二基準的な記憶が成立する、とは言えるのではないか。いや、もっと言うと、第一基準と第二基準とは、実際そのように明確に分けて考えることはできないのではないか。
「現にこの目から見えている」というその認識自体が統合的に把握されたものである以上、それは記憶であるとは言える。そのように、ある程度時間的に幅のある認識が、「現在/過去」と客観的に区別される以前の状態で、まさに「現在」そのものにおいて(第一基準的に)把握されていない限り、そもそも認識というものは成立しないだろう。まずはその種の「無差別的/統合的」把握において自己があり、これを元にして第二基準的な、つまり客観的主体としての自己、というものが構築されうる、と言ったほうがものの順序に即しているように思われる。
 この種の第一基準的な記憶に基づく自己というあり方こそ動物のあり方であり、それは人間である以前に動物で(も)あるわれわれ人間にとっても同様である、とここでは言いたい。ここでの問題とは何なのか。少なくとも、記憶のうちどれが「第一基準/第二基準」なのか、という厳密な分類にあるのではない。提起すべき問題とはむしろ、そうした「第一基準/第二基準」といった区別は明確には不可能ではないかという点。そしてこの区別が曖昧であるからこそわれわれはこのようでありえているのだ、と言いたいのだがそれを言うにはさらに言葉を費やす必要があるだろうし、今の自分の能力には余る仕事のようにも思われる。
 一端この辺で終わりにしておこう。

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