質問(23/2/15講義)
大登:
質問1
9段落の後半での⓪(開闢そのもの性)なしの①(なぜか一人だけ性)だけの生起はありえないという議論についての確認です。この主張の根拠となっているのは、もし①だけが生起したとしたら、何がなぜか一人だけあることになるかわからなくなるから、という点にあると考えて良いでしょうか。
永井:というよりも、もし①だけが生起したとしたら、という想定が成り立たないといういことです。それは必ず⓪(開闢そのもの性)を伴うので。
大登:
質問2
12段落で時間のしかなさには二義性があるという議論がされていました。これを〈私〉のしかなさの二義性に重ね合わせてみると次のような理解になると考えて良いでしょうか。
一つ目は「しかなさ=年表」という意味での「しかなさ」で、これは「私=世界」という段落9でされた⓪に対応する。この一つ目の意味でとると、「しかなさ」はその都度新たに(すでにこの時点で同じ「しかなさ」概念を使っているから妥協的であるが)生じているのだから、新しく生成してくる「しかなさ」同士には全く異なるものでなければならない。それゆえ、なぜ「しかなさ」が動くのかが謎となる。二つ目は、年表の中でなぜか現に「しかない」今があるという意味でのしかなさで、これは客観的世界の中でなぜか一人だけ〈私〉であるやつがいるという段落9での①(それに伴う②)に対応する。この場合の「しかなさ」は可能的な現実に「しかない」今を認めるのだから、現実に「しかない」今がそうした可能的に「しかない」今になるということが理解できる。言い換えれば、この二つ目の意味での「しかなさ」を理解してはじめて、「しかなさ」が動くことが理解できるようになる。
永井:段落12の問題は段落9の問題を対応させないほうがよいと思います。別の問題なので。
晃太郎:
時間は流れるものなので一般論・本質論の側がA事実の存在から抽象を経て人為的に構築されるのはわかるのですが、私は他者になることがないのに、なぜ〈私〉の一般化・概念化は起こるのでしょうか?
永井:時間の場合の流れに相当するものが、人称の場合には言語的意味になります。ですから、それはいきなり一般化・概念化そのものです。
牟礼:
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【哲学探究3、p234(13節)】
ド・ミ・ソと音が鳴ると言っても、それはつまり、ド・ミがあったという記憶とともにソが聴こえている(ソが聴こえているそのときにド・ミがあったという記憶もまたある)という事実でしかありえないことになる。時間の経過は、聴こえる領界の中で聴こえる対象が移り変わっていくのではなく、むしろ「しか聴こえなさ」のほうが移行していくことなので、経過そのものをその外から捉えることは不可能であり、あたかも経過をその外から捉えるかのような視点はその内側から構築されるほかはない。
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ソが聴こえているときにド・ミがあったという記憶もまたある、という仕方で〈今〉が把握されるのなら、どこまでが記憶でどこからが端的な認識でしょう(どこまでが「概念のしかなさ」でどこからが「現実のしかなさ」でしょう)。――このように疑問したとき、例えば「ソが聴こえているときにソが鳴り始めた記憶もまたある」というように今方向へ接近する形で無限に微視的に見ていくことができ、これはゼノンのパラドックス風の累進に陥るように思います(認識とはどこまでも記憶ということになり、今が成立しないことになる?)。
今というものを捉えるにはともあれ何かが認識されていなければならないと思いますが、認識というのはそもそも出来事をある程度の時間的な幅のもとに統合的に捉えることであって、時間的幅のまったくない認識というのはありえないので、認識そのものにもまた時間が必要だと思います。
この意味における時間(現在体験の時間)と、年表式の時間とは異なるもののように思われますが、他方で双方は分かちがたいようにも思います。私の議論の場合には、「現実のしかなさ」はこの私であり(というかこの、これであり)、「概念のしかなさ」は他者においてある、というように画然と分けられるのに対して、時間の議論の場合には「しかなさ」における「現実/概念」の区切りというのが明確には割り切れず、個人的にはこの点にいつも悩まされております。これら疑問について、考えをお聞かせいただきたいです。
永井:時間の議論の場合には「しかなさ」における「現実/概念」の区切りはまったく人工的に(つまり我々があえて概念的に把握することによって)外からあてがわれているので、その意味で「明確には割り切れ」ないのは致し方ないことです。
※哲学探究3 終章 第Ⅰ節~第Ⅱ節
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