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独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きえないのか―終章40を考える―

 はじめに

 本文は、以下に引用する永井均著「独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3」の終章40に対する考察です。
 永井哲学用語を説明抜きに用いており、恐らく永井哲学徒でないと意味の取れない内容となっています。ご了承ください。

 以上の観点から、最後に、何度も論じて来た分裂の問題をもういちど振り返ってみよう。この問題設定において最も興味深い点は、未来の〈私〉とは現在の〈私〉を過去の自分として思い出す人のことでしかありえないはずなのに、その条件を満たす人間が二人生じてしまった場合には、どちらが端的に〈私〉であるか、という問題が新たに生起しうる、という点にある。これは真に驚くべきことと言ってよいだろう。超越論的な記憶連続体の構成的な盾は超越的な独在主体の神秘の矛をもってしても突き破れなかったはずなのに、ここではむしろやすやすと突き破られているように見えるからである。ここに、われわれの世界を構成する二つの原理の矛盾が鮮やかに露呈している、と見るべきなのだ。いったんこのことを認めたなら、通常は決して発覚しないだけで、〈私〉が安倍晋三になることも、〈私〉である人が突然〈私〉でだけなくなることも、あるいは世界がいきなり百年前にもどることも、本当は可能なのではないか、と思う人がいるかもしれない。たしかに、世界はそのような理解の余地を暗に含んで成立してはいる。異なる二つの原理が通常は重なって一緒にはたらいているだけで、やはりその二つは独立であるはずだからだ。しかし、そのたまたまの重なりのせいにすぎないのかもしれないとはいえ、そういう想定に意味を与える方法をわれわれは持っていないこともまた事実なのである。分裂の思考実験だけが、まったく同じ記憶を持った二人の人間をあえて設定することによって、超越論的連関にふたたび超越的視点の介入の余地を与えることに成功している。そして、ここにもう一つの真に驚くべきことが起こりうるのだ。それは、分裂後、なぜか〈私〉であった側がわずか数時間かせいぜい数日で死ぬ場合を想定したとき、〈私〉は、〈私〉でなかったほうの人に「なる」ともいえる、ということである。確かに、その人は、分裂後〈私〉だったほうの人の分裂後の経験を受け継いではいないが、それ以前のすべてを受け継いで生きているのであるから、若干の記憶を喪失するだけで、〈私〉はそちらになって生き残るといってよいのである*(*なぜなら、通常の場合でもわれわれは過去の自分とこの種の繋がり方によってしか繋がっておらず、それを超えた紐帯を原理的にもちえないからである)。しかし、もしそうであるなら、分裂当初は、なぜその人は〈私〉でないことができたのか。そのなさはいったい何に由来するのか。今度はそちらのほうが謎とはなるだろう。これは、要するに二つの原理が競合している、ということなのだ。われわれの通常の時間的連続性はそのように(すなわちただ記憶の繋がりを根底に置いてのみ)成立しており、しかも、その記憶連続体こそが世界の実在性の根底をなす(じつはそこからすべてが始まっている)のであるから、それ以外の選択肢はじつはありえない。分裂後になぜか〈私〉であった人が死んだ後の世界は、自分が死んだ後に自分の記憶をもった他人が活躍しているだけの(しかもそうであるかどうかを知ることさえできない)世界であるといえると同時にまた、〈私〉がその人になっている世界でもあるのだ。これは真に驚くべきことであると言ってよいだろう。〈私〉の存在という存在論的事実に驚嘆すべきなのはもちろんだが、〈私〉の持続にかんするこの構成的な原理にもやはり驚嘆すべきなのである。そして、世界はその原理に基づいて構成されることになるのだ。

(終章40:p273ーp275)

 1 「になる想定」とは何なのか


 最後の最後にすごいこと言い出した、と思ったのだが、どういうことなのだろうこれは。
分裂後、なぜか〈私〉であった側がわずか数時間かせいぜい数日で死ぬ場合を想定したとき、〈私〉は、〈私〉でなかったほうの人に「なる」ともいえる
 とはどういうことなのか(以降これを「になる想定」と呼ぶ)。そして
分裂後になぜか〈私〉であった人が死んだ後の世界は、自分が死んだ後に自分の記憶をもった他人が活躍しているだけの(しかもそうであるかどうかを知ることさえできない)世界であるといえると同時にまた、〈私〉がその人になっている世界でもあるのだ
 とはどういうことなのか。
 端的に考えて、そうした想定は「自分が死んだ後に自分の記憶をもった他人が活躍しているだけの世界」としか考えられないように思われるのだが。〈私〉が死んだ後、〈私〉になった、と言える、という想定における後者の〈私〉というのは、あくまでも《私》であって〈私〉ではありえないのではないか。概念的にはそう言える(言わざるをえない)というだけで、原理的にはそれはありえない、とも言わざるをえないのではないか(という意味で永井は言っているのか)。
 なぜそう言えるのか(ここで何が主張されているのか)を考えよう。
「未来の〈私〉とは現在の〈私〉を過去の自分として思い出す人のことでしかありえないはずなのに、その条件を満たす人間が二人生じてしまった場合には、どちらが端的に〈私〉であるか、という問題が新たに生起しうる」とはどういうことか。
〈私〉というものを時間貫通的に考えると、記憶内容に基づいた他時点の私が、現に今の私にとって時間的な繋がりを持つ、という捉え方しかできない。しかし、主体(身体)が二つに分裂すると、同一の記憶内容に基づいて〈私〉を時間貫通的に捉える主体が二人存在するということになり、そのどちらもが私であると言えてしまうことになる(=どちらが私なのかという問題が生じる)。この時に、どちらなのかを決定づけるのは、同定を要さない世界開闢の事実、つまり独在性、ということになる。ここでは、超越論的構成の盾が独在性の矛で簡単に突き崩されているように見える、と。――ここまではいい。
  問題はその先の「になる想定」のほう。
 〈私〉であると言えるためには何かしらの内容がなければならず、すでにして〈私〉であってしまうと、〈私〉であるところのその内容からは切り離せない。だからこそ、〈私〉であるところのその内容がほぼ同一である他身体が、私の死後も生き続けると考えた場合、超越論的構成の働きによって、それは〈私〉であると言ってもよいことになる、と? んなことあるかい。
「実存は本質に先立つ」ではないが、ともあれ「独在性は超越論的構成に先立つ」とは言うべきではないか、と思うがどうだろう。「になる想定」は、まるで超越論的構成が独在性をも生み出す、と言っているように思われて違和感を覚える。特にこの想定の場合、〈私〉は一端死ぬので、まるで無の状態から生み出されたとでも言うような。もしそうであるのなら、それこそ「たくさんの他者のなかでどれが〈私〉なのかわからなくなる」のではないか。ともあれ世界が開かれている(第一基準が成立する)ということから開始されることで、第二基準も機能するのではないか。そう、言いかえるとこれは、第二基準から第一基準が創出される、とでも言っているかのようだ、と。
 いや。純粋な独在性に自己認識を依拠させることはできないので、一端死んだ〈私〉が再び甦る、といった考えは適切ではない。となると、開闢の事実と内容とはお互いに照応し合っているとは、やはり言わざるをえない。そしてその内容というのは移ろい、過去(記憶)を形成していく。形成された記憶内容をもとに自らを捉えている以上、自己同定の根拠が同じ人間が二人おり、〈私〉であるところの一人が早々に死んだら、もう一人が〈私〉になる、と? んなことあるかい。
 

 2 復活の想定の場合


  分裂の想定をせず、復活の想定をしたらどうだろう。一端死んで三日後に復活した、というような。であれば問題なく復活した〈私〉は〈私〉だ、と素朴に言いたくはなる。分裂の想定とは違って、身体的連続性もあるから。……ということは、身体の不連続性が問題だということ? そうではないような気が。
 ここで復活の想定に納得できるのに「になる想定」が納得できないというのは何故なのか、を探っていくのがよさそうだ。
「になる想定」において、分裂後〈私〉であるほうをA、〈私〉でないほうをBとする。
「になる想定」の場合、身体的連続性がないということもそうだが、一端は分裂して別の人間となったBが、〈私〉であるところのAが早々に死んだところでなぜ〈私〉になるのかというのが単純に疑問である。仮に「なった」として、その時、分裂してから死ぬまでの期間に〈私〉だったその〈私〉(の記憶連続体)は、どこにいったのか。消えたのか。
「になる想定」では、「p274:確かに、その人は、分裂後〈私〉だったほうの人の分裂後の経験を受け継いではいないが、それ以前のすべてを受け継いで生きているのであるから、若干の記憶を喪失するだけで、〈私〉はそちらになって生き残るといってよいのである」と述べている。「若干の記憶を喪失する」と言っている以上、このBは「分裂後~になる以前」の記憶を失っていることになる。
 このときAとBのどちらのほうの「分裂後~になる以前」の記憶を失っていることになるのか(どちらが想定されているのか)。――「分裂後〈私〉だったほうの人の分裂後の経験を受け継いではいないが」とあるから、〈私〉であるAは、Aとしての「分裂後~になる前」の記憶を失う(Bとしての「分裂後~になる前」の記憶を持つ)と想定されていると言える。そうなると、それはもうAではなく完全にBだろう。そうなると〈私〉は、移動するというよりも、もともとBだったということになる、ということなのか。
 

 3 なぜ〝早々に〟死ななければならないのか


 なぜ「わずか数時間かせいぜい数日で死ぬ」ことをきっかけとしてBになると言えるのか。早々に死ななかった場合、Aとしての私はBとは異なる記憶連続体になってしまうから、だろう。数日ではなく十年後二十年後に死んだとしたら、これはもう記憶連続体としてお互い別人と見なさざるを得なくなってくるから、まさに「なったという視座がありえない」という理由によって想定不可能ということになる。――しかし、そんなのは程度問題であって、分裂後の生存期間の長さに関わらず、分裂したらもう別の記憶連続体だ、と言わざるを得ないのではないか。自己を構成するにあたって参照される記憶というのはそこまで厳密ではない、ということ? 
 それなら以下のような思考実験が成り立つ。
「になる想定」における「分裂後数日の記憶」のような、自己同定において無視できる程度のわずかな記憶の相違を持つ人間を無数に設定し、順繰りに「になる想定」を続けていけば、当初の私とはまったくの別人になる、という想定も可能になるのではないか、と。
 つまりこういうことだ。Aが〈私〉であるとして、Aが死んだらBになる、と言える程度にわずかな記憶の相違を持つBが存在するとする。次いで、Bが死んだらCになる、と言える程度にわずかな記憶の相違を持つCが存在するとする。これをDEFGHIJK……Zと複数置く。すると、AとZのあいだには、およそ無視できないほどの記憶内容の相違があったとしても、ABCDEFG……Yと順に死んでいくと、最終的にはZになる、と言えてしまうことになる。そうすると、〈私〉は誰にでもなれる、ということになるのではないか。
 この想定を何と呼ぼう。「になる想定」に対して「段階的になる想定」とでも呼ぼうか。
  

 4 そもそもなぜ死ななければならないのか


 では「死ぬ」のほうはどうだろう。ほぼ等しい記憶連続体が二人存在する状況から、一人しか存在しない状況へ変遷させることが必要、ということだろうか。二人と一人で何が違う? 逆に、二人ではなぜ駄目なのか。Aである〈私〉が死なずに、〈私〉とほぼ等しい記憶を有するBになる、という想定は不可能なのか。つまり、同一の記憶と身体を持つ記憶連続体相互間において、〈私〉が身体を乗り換える、という想定は、可能か。この時変わるのは、身体の物理的な位置のみ、ということになる。
 安倍晋三になることができないのは、そうした想定をしても、「なったと言える視座」がありえない、というものだった。ところが、同一記憶保持者同士の場合、自らの記憶に基づいて「なった」と言えるのではないか。記憶が同一である場合、〈私〉であるAからBへと移動したとすると、その差異は物理的な身体の位置の違いにしか現れない。それでも私はAからBになった、と言えるだろうか。
 例えば〈私〉であるAは雪国に、他人であるBは南の島にいたとする。それでも、「記憶が同一」という想定上、二人は移動の瞬間まで、雪国にいたという記憶を保持していることとする(つまりBの記憶はAの記憶に同期されている状態)。この場合、移動後にBの身体において目覚めた私は、雪国から南の島へ瞬間移動したように感じるだろう。「もともと雪国にいたのに今は南の島にいる」という事実を以て、AからBへの〈私〉の移動は達成されたと言える視座が成立する、とは一見見なせそうではある(実験の内容と条件を事前に聞かされていれば、なおさらそう言えそうである)。
 しかし、逆の場合はどうだろう。
 私であるAは南の島に、他人であるBは雪国にいたとする。それでも、「記憶が同一」という想定上、二人は移動の瞬間まで、雪国にいたという記憶を保持していることになる(今度は、Aの記憶がBの記憶に同期されている)。すると私は移動後、記憶が同一の状態にあるBの身体において目覚めることになる。この時私は、実際は(?)南の島にいたAから雪国にいるBへと移動したのだが、記憶としては雪国のまま、連続していることになる。これについては、「実際は移動した」と言える視座がありえないから、移動の想定も不可能、とは言えそうだ。とはいえ、Bのほうは初めの想定のように「もともと雪国にいたのに今は南の島にいる」という事実を以て移動したと言いうる視座が成立しているのだから、B→A間の移動の成功を傍証としてA→B間の移動を裏付けうる、とは言えるのかもしれない。
 とはいえ、この想定には重大な欠陥がある。――そもそも、AとBのどちらも雪国の記憶に同期されるとしたら、AがBに(BがAに)なったのか、それとも記憶を改竄された主体がただその場で目覚めただけなのか、それとも記憶を改竄されていない主体がただその場で目覚めただけなのか、いずれなのかはわかりようがないのではないか。
 一つ目の想定を例にとると、もともと雪国にいた私が南の島の私として目覚めたのか。それとも、もともと南の島にいたのだが「雪国にいた」という記憶改竄を被っていた私がただその場で目覚めたのか。結局どちらなのかについては、どのような観測手段や内観によってもわかりようがないだろう。それでも、雪国のA身体と、南の島のB身体の、どちらかが〈私〉ではある。しかし、その開闢性そのものは、いかなる意味においても、移動という事実を保持することはできない。これが独在性に対する超越論的構成の優位性だ、と言えるのではないか。


 5 改めて、「になる想定」とは何なのか


 ここまでで割と整理されてきた印象はあるが、それでも「になる想定」がわからない。どこがわからないのか。
 上記した雪国と南の島の想定では、何かSF的な操作でお互いの〈私〉を入れ替える、といった想像のもとに考えている。しかし「になる想定」は、そもそも「Aとしての〈私〉が死んだ後Bへ移動するとしたら」という前提を抜きに、論理必然的にそうなると言える(言ってよい)のだ、と言っているように聞こえる。何の特殊な操作も必要なしに、自分が早々に死んで自分とほぼ同じ記憶を有した人間が生きているなら、そいつは〈私〉だと言える、と。「仮に移動したと考えるとき、〈私〉になったと言いうるか」ではなく、「そういう状況が成立したら、それはもう〈私〉になると言ってよい」と。そこがこの想定の驚きポイントの一つだとは言える(いや、もしかしたら核だとさえ言えるかもしれない)。
 だとすると、「移動するとしたら」という積極的な想定を入れたらどうなるか。つまりAとしての〈私〉の肉体が、分裂後早々に死んだその瞬間、Bにおける〈私〉になる、と。そうすると、この想定はまあ、可能なように思えなくもない、のではないか。
 ――いや、違う。これこそ、「移動したと言いうる視座がありえない」からその想定は不可能だと言わざるをえないのではないか。結局、記憶は分裂後の記憶を含めて全的にBのものであるのだから、この時「になる」と想定されるところの〈私〉とは、もともとBであったという自己認識しか持たないだろう。そう、だから「になる想定」は、移動の想定でさえない、ということになる。AとBとに分裂し、Aが〈私〉だとして、早々に死んだらBになると言えるとする。しかしこの時、「Aであった」という事実はもはやどこにも残らない。だから「Bになった」とも言えない。これは端的に無意義な想定ではないか? もともとBが〈私〉だったとしたらどうだろう。ほぼ同一の記憶を持つAが分裂後早々に死んだとしたら、「私は(もともとAだったのだが)Bになった」と言えるだろうか。それこそ無意義な想定だろう。
 これはもしかしたら、なった後の視座(つまり過去形で)を考えることはできないが、なる前の視座からのみは(つまり未来形では)ともあれそう考えられる、という類の問題なのかもしれない? つまり、Aである〈私〉は、分裂後早々に死んだとするとBであるところの〈私〉になる、と、未来形では言えるし言ってよい、と。これは、もしかしたら、未来における自己認識の話をしているのだろうか。……そう考えると納得できるかもしれない。三日後の〈私〉は、今から三日間の出来事の記憶のほかは、今とほぼ同一の記憶を有し、それに基づいて自己を認識する主体である、とは言わざるをえない。だからこそ、今から私が分裂してAとBに分かれ、〈私〉であるところのAが二日後に死んだとしたら、Bは三日後の〈私〉であると言ってもよいことになる、と。これはまあ確かに、(あくまでも〈今〉の〈私〉という視座からは)言ってもよいし、未来における〈私〉については、そもそもそう捉えざるをえない、とも言えそうではある。それこそ、「になる想定」の議論の箇所に付けられた以下の注のように。

 なぜなら、通常の場合でもわれわれは過去の自分とこの種の繋がり方によってしか繋がっておらず、それを超えた紐帯を原理的にもちえないからである。

p275

 6 「段階的になる想定」の時点ヴァージョン


 それがいくら未来における〈私〉の話だったとしても、「になる想定」における分裂後の時間を十年と設定すると、さすがにその十年間の出来事の記憶によって自己認識が変様しているので、「ほぼ同一の記憶」とは言えない。だから、今から私が分裂してAであるところの私が十年後に死んだとしても、Bは十年後の〈私〉であるとは言えなくなる――というのが「になる想定」における「数時間かせいぜい数日で死ぬ場合」という想定の意味だった。とはいえ、これもまた上記「なぜ早々に死ななければならないのか」で論じた「段階的になる想定」の時点ヴァージョンとでも言うような、同型の想定が可能だろう。
 つまり、現時点の〈私〉をAとする。三日後の〈私〉をBとする。AとBのあいだには、自己同定において無視できる程度のわずかな相違しかない。また、Bの三日後の〈私〉をCとする。BとCとのあいだには、自己同定において無視できる程度のわずかな相違しかない。このように三日間隔で、DEFGHIJ……Zと、合計一二一七個の時点を設けるとする。すると時点A(つまり現在)の〈私〉と、最後の時点Zの〈私〉とのあいだには、十年分の記憶の相違があることになる。これは自己同定において無視できるとは言い難いが、しかしABCDE……と順々に時を経ていくと、最終的にはZになる、と言えてしまうことになる。そして、これに関しては実際、われわれは、そう言えてしまうというパラダイムのもとに生きている
 これは改めて考えると驚きだ。なぜなら、十年前の時点においては今とは別人と言えるほど自己同定(=記憶)に差があり、また十年後の時点においては今とは別人と言えるほど自己同定(=記憶)に差があるのにも関わらず、それらを時間貫通的な私と見なしているのだから(「十年前の時点においては」という前提からして、その種の通時性を前提としている。しかしこの前提がなければ語ることができない)。この「見なし」もまた、「他者における私」がいびつな世界像のもとに構成されるのと同型の意味において、またいびつな世界像のもとに構成されていると言えるだろう(とはいえ、「私/他者」が物理的・客観的に明確な区切りを持つのに対して、「今/他時点の今」がその種の明確な区切りを持つのかというと怪しく、ここには「客観化された今(他時点の今・《今》)」と「厚みのある今(直接把握されている今・〈今〉)」という二つの時の捉え方が、それ自体明確な区切りを持たず輻輳しているような感じがあり、この点にいつも思考の困難を覚えるのではあるが)。
 

 7 <私>は安倍晋三になることができるのでなければならない


 別人になるとは言っても、身体は物理的に連続しているのではないか、と言いたくもなるが、ここで「身体の物理的連続性」を持ち出すことは有効な批判になりえない。なぜなら、昨日の私も、十年前の私も、(通時的に)同一の身体である、という認識そのものが記憶に依拠してなされるものだと言わざるをえないから。それでも事実として身体はこうしてあるが、こうしてあるところの身体から、記憶の参照を抜きにしてその連続性を裏付けることはやはりできない。
 例えば「一夜ごとに身体が他人と入れ替わる世界」があったとしたらどうだろう。その世界では、名前が身体の代わりを成し、記憶がそれを裏付けるようなあり方を成すだろう。例えば私はその世界で学生だったとする。一夜明けてどこかの誰かの身体から目覚めると、記憶を頼りに学校へ向かい、いつもの席に着く。名乗ることで学友に自分を認識させ、過去のやりとりの続きとしての日常を彼らと営むことになるだろう。いずれにせよ、このような世界の想定が可能であるということは、このようでない現実世界において、身体は自己同定に関して本質的な役割を果たしていない、とは言えるのではないか(あるいは、身体は記憶に基づいてこそ自己同定に関して本質的な役割を果たしうる、と言ってもいい)。そして自己同定において本質的なのは記憶である、とも言えるのではないか。
 この想定のヴァリエーションとして、「一夜ごとに記憶が他人と入れ替わる世界」を想像してみれば明らかだ。完全に他人と記憶が入れ替わったのなら、まさに「入れ替わったと言える視座がありえない」ので、入れ替わったという事実そのものもありえないことになる。
 そうすると、自己同定には記憶の内容そのものが本質的な役割を担っているとは言えそうではある。しかし前記した「段階的になる想定」が示すように、「自己/他者」「今の私/他時点の今の私」のあいだにおける内容の差異など程度問題に過ぎない、と見なすこともできる。そして事実として〈私〉は、「段階的になる想定(時点ヴァージョン)」が示すように、「自己同定において無視できる程度のわずかな相違」を日々重ねることで、ある時点から見たら別人と言えるような人間になっており、またなっていく。
 終章40でも言われたように、まさにここに、「われわれの世界を構成する二つの原理の矛盾が鮮やかに露呈していると見るべき」だろう。現在の〈私〉と十年後〈私〉とのあいだには、自己同定において無視できない記憶内容の差がありながら、「〈私〉は十年後の〈私〉になる」と言わざるをえない。さらには、十年前の〈私〉と現在の〈私〉とのあいだにも、自己同定において無視できない記憶の差があるだろうが、事実として「十年前の〈私〉は現在の〈私〉になっている」と言わざるをえない(つまり〈私〉はすでに別人になっているし、今後必ず別人になる)。だから、そのような〈私〉の移動の想定においては「なったと言える視座がありえない」のにも関わらず、他方ではまた、段階を踏みさえすれば「<私>は安倍晋三になることができるのでなければならない」とさえ言えるだろう。

 これで疑問は解消されただろうか。
 まだ何か「もやもや」が残っているような気がするが、それこそ「われわれの世界を構成する二つの原理の矛盾」の所為なのだろうか。
 それとも自分の頭が追い付いていない所為だろうか……。

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