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【美術館レポート】内藤礼「生まれておいで 生きておいで」東京国立博物館

本当はデ・キリコ展に行きたかったのですが……。

 早めに着いたのでチケットだけ先に買っておこうと思い、改札出てすぐのチケット売り場に向かうのだが、そこで「デ・キリコ展」もとい「東京都美術館」が休館中であることを初めて知る……。

 K氏到着後。
 まさかの休館です、どこへ行きましょうか、と。
 西洋美術館でも行こうかと思ったのだが、内藤礼なる芸術家の企画展に興味があるとのことで、東京国立博物館(以下、東博)へ向かうことに。

 内藤礼。
 平成館、本館、本館の休憩所的な所、の三カ所での展示。

 平成館の展示は左右対称の展示室に、ほぼ左右対称に鑑賞物が配置されているという構図。その鑑賞物というのが、東博所蔵の小さい土器のほかは、ごく小さいガラス玉や、ニット帽の先に着いたポンポンみたいなもののごく小さい玉が、天井から吊られていたり、絵画から中身と額を除いたといった風情のガラス版だったり、直径一センチ程度の鏡だったり、小枝だったり、といった、とにかくささやかな鑑賞物がぽつりぽつりと配置されている。

 本館も同様に、ごく小さなガラス玉が天井から吊られており、空間をごくささやかに演出している。広い空間のなか、地べたにガラスの箱が六つほど置かれており、中には東博所蔵の動物を模した土器だったり、骨だったりが収められており、そのガラス箱の上には「ただ色を塗りました」といった風情の画布や、そこらへんから拾ってきた風情の木片、脇には木の枝、ガラス箱の一隅には「まぶた」と題された、銀色の小さな紙片が糸に吊られて空調の微風にチラチラ揺れている。

 左右の部屋の壁には、額にさえ入れられていない剥き出しの画布がそれぞれ十枚ちょっと貼り付けられているのだが、その絵がすごい。
 何かの下に敷いていて色移りしちゃったとか、たまたま絵の具が飛んで汚れちゃったとか、そういう風情の、およそ人間が意志を持って何かを「描いた」とは言い難いような有様である。
 そこからは、絵というものを「何かを描いたもの」として象徴的に捉えることを拒む意志を感じるし、また創作者自身の「具体的なものを表したくない」という意志をも感じる。

詩情、枯山水、神さびた空間。

 詩情、というのが適切に思われる。

 例えば言語創作において、具体的なことを述べたくなくなると、必然的に詩や短歌、俳句の形式を取ることになる。そうすると表現はより抽象的になり、言葉は通常の意味連関を離れ、相互に響き合うような「配置」が美的印象における重きを占めてくる。そして「配置」は必然的に、それら言葉の配される「地」をも浮き彫りにする。

 本展示の鑑賞物の抽象性、鑑賞物そのものの「非創作性=非作為性」、印象のあまりの「淡さ」はだから、それの展示される「地」としての空間そのものを鑑賞者に意識させる。

 例えば吊るされたガラス玉を、もっと大きなものにすれば光を取り込んできらきら輝くだろう。展示物をもっと大きくすれば、目を引くものになるだろう。しかしそうすると鑑賞物は、展示室という空間のなかで鑑賞されるべき「対象」と化してしまう。

 有体な比喩だが、ここでの鑑賞物は枯山水における岩のようなものとして捉えることができる。それ自体として個別に抜き出して鑑賞することももちろん可能ではあるが、それの配置された空間と呼応するものとして捉えることもまた可能であり、むしろそうした見方がささやかな仕方で(他方では細心の注意を払って)促されているように思われる。

 鑑賞物とそれが配置された空間とを分離せず、全体的な場としての印象を立ち上がらせようという意志は、それこそ展示室に鑑賞者が腰掛けることのできるベンチや小上がりを設けていることからも伺える。

 特に、本館特別5室の空間そのものがかなり良い。当日は薄曇りとはいえ初夏の日差しが差し込んでいたはずだが、この空間は採光の窓が厚い壁に落ちくぼんでいる所為か、昼なのか夕方なのか曖昧な、無時間的な自然光が全体に神さびた印象を付加しているようで興が深かった。

 面白く鑑賞した。


補遺

 展示室は写真撮影不可。
 なので以下、素敵なイラストを載せておられるリルコさんの記事をリンクさせていただきます。
 会場の雰囲気、伝わります。

「小宇宙(コスモ)を感じる…」
 まさしく……!


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