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97 願いを叶える

 長い歳月と、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦を経て、ある男がついに上位存在のもとへたどり着いた。

「長旅ごくろうさまでした。それではあなたの願いを一つ、叶えましょう」
 と、上位存在は言った。

「何でも叶えてくださる、というのは本当でしょうか」
「ええ、何でも叶えて差し上げます」
「すると例えば、願いを叶えてもらえる回数を無限に増やしてください、というお願いも?」
「半分可能、半分不可能、と言っておきましょう」
「と、言いますと」
「例えばあなたが不老不死を願ったとします。その後やっぱり死にたくなって、殺してくれと願ったとします。この場合、二つ目のお願いは一つ目のお願いに矛盾を生じさせるので、叶えられないことになります。つまり厳密に言いますと、二度目以降のお願いはそれ以前のお願いに矛盾しない内容に限られる、ということになります。それでもよろしければ、お願いの回数を増やすこと自体は可能です」
「なるほど、わかりました」
 男は少し悩んでから、言った。

「それでは当初の予定通り、『いつでもどこでも何度でも願いを叶えてくださること』これをわたしのお願いとしたいと思います」
「わかりました。後悔はないですね」
「はい」

 天上から突然強い光が差したかと思うと、男の身体全体が温かななにかに包まれ、数秒のあいだ宙に浮くと、ふわりと着地した。

「これでわたしは、いつでもどこでも何度でも願いを叶えてもらえるようになったのでしょうか」
「ええ、いつでもどこでも何度でも願いを叶えてさしあげます。試しに何か、お願いになられてはいかがでしょうか」
「そうですね。それでは、空を飛べるようにしていただけますか」
「わかりました」

 ふたたび天上から強い光が差したかと思うと、男の身体は天高く、弾丸のような速さで飛んでいった。何を言う暇もなく男の身体は大気圏を越えて宇宙に躍り出、半死半生のまま地球の衛星軌道を回り始めた。

 それから男は、これまで経て来た人生とは比べものにならないくらいの時間を掛けて、ゆっくりと地球の重力に引き戻されていき、やがて流星の一つとなってふたたび地表に降り注いだ。すさまじい速さで地面にたたきつけられ、散り散りになった肉片がアメーバのごとく、これまた長い時間を掛けて寄り集まり、ようやく人の形を取ると、ぼんやりと意識が戻ってきたのだった。

 あまりに長い時を経たものだから、男は自分がたった今、唐突にこの世に生み出されたように感じた。幸いなことに言葉は失っていなかったが、言葉を交わすべき相手のほうがどこにもいなかった。

 わけもわからないまま男はさまよい、そしてとある草原地帯で細長い剣のようなくちばしを持つ大型生物に追いかけられたとき、思わず叫んだ
「こっちへ来るな。どこかへ行け」
 と、その言葉に答えるように、頭のなかで声がする

「それがあなたの願いですか」

 これまでさんざん探し回ってついぞ聞くことのなかった他人の声を聞き、男は驚きのあまり立ち止まった。その拍子に大型生物のくちばしに心臓を刺し貫かれていたのだが、血を吐きながら、構わず男は続ける
「それがわたしの願いです」

「わかりました。その願い、叶えましょう」

 天上から突然強い光が差したかと思うと、大型生物はあとかたもなく消え去った。胸の傷はすぐにふさがった。
「これはどういうことなのか、教えてください」
 と、男はすぐに叫んだ。
「これ、の内容をもう少し具体的にお願いします」
「あなたは誰で、わたしはなぜ生きていて、さっきの生き物をなぜ消し去ることができたのか、教えてください」
「わかりました。お忘れのようなので改めてご説明いたしますと、あなたは今から日の巡りにして七三九一五九八〇三日前にお願い事をされました。それというのも『いつでもどこでも何度でも願いを叶えてくださること』というお願いでしたので、こうしてお願いを叶えてさしあげている次第です。『何度でも』ということはつまり、無限回お願いを叶えてさしあげることを意味しますので、これを実現するためにあなたは不死となった次第です。それからあなたは二度目に『空を飛べるようにしていただけますか』とお願いされたので、その直後に飛び立たれ、地球の衛星軌道をぐるぐる回ることとなりました。然るべき時を経て地表に落ち、そして今に至るというわけです。ああ、それとわたしは『何者でもない者』であり、それ以上でも以下でもありません。あなたがたの言葉では『上位存在』と呼ばれておりました。これくらいでよろしいでしょうか」

 上位存在が言い終えるのが早いか、男はすぐに次の願いを口にした。
「もとに戻してください。人がまだ沢山いた、あの頃に戻してください。お願いします」
「あなたの言う『あの頃』が何を指すのかを明確にしていただく必要があります。と言いますのも、あなたの認識が確かでない限り、あなたにとって願いが叶ったと思うに足る状況がどのようなものなのかもまた確定しないのです」
「それでは、まずわたしの記憶を元通りに戻してください」
「それも同じ理由から不可能です。あなたの認識が確かでない限り、あなたにとって記憶が戻ったと思うに足る状況がどのようなものなのかもまた確定しないのです」
「それでは、記憶が戻ったと思うに足るようにしてください、というお願いではどうでしょう」
「それは可能です。その場合、あなたに任意の記憶を植え付けた後で、その記憶自体を自分自身のものであると信じ込ませ続けることになります。それでもよろしければ、願いを叶えることは可能ですが、いかがいたしましょう」
「あなたは『上位存在』ですよね。わたしが実際どのような経験を経てきたのかを知っているのではありませんか」
「イエスでありノーであると言っておきましょう。確かに、あなたがどのような経緯を経てここにいるのかをわたしから見たところの客観的事実として通覧することは可能です。しかしあなたが経て来たとあなた自身思っていることが何なのかは、あなたにしかわかりません。あなたの経て来たと思っていることと、あなたが実際に経て来たものとしてわたしが通覧するところの客観的事実とが、必ずしも一致しているわけではありません。思い違い、夢の記憶、創作された記憶、イメージによる脚色、感情の機微等々を含めて、何を忘却の淵に捨て去り、何を記憶に留め、結果として何を真実と感じるかはあなた次第なのです。そうした真実性そのものをわたしが通覧するところの客観的事実の側へ寄せ、それを信じ込ませることは可能です。しかし老婆心ながらご忠告さしあげると、すでにあなたは『いつでもどこでも何度でも願いを叶えてくださること』をお願いされている身の上ですので、その記憶がお願いによって形成された、つまるところ偽りのものであるという可能性にいずれ思い至ることとなります。あなたが不死である以上、これは必ず起こることです。その際にふたたび同じお願いをされても、同じ対応が出来るだけで、これは繰り返されることになるでしょう。これらの事情を了解されたうえでなおこのお願いを願われるのであれば叶えてさしあげますが、どうしますか」

 男はうなだれ、うつむいた。赤茶けた地面に黒々と広がって乾きかかった自分の血のあとをそれとなく眺めつつ、ふと思い至って口を開く
「しかしそうなると、現に今あなたが言っていること自体が偽りで、わたしの記憶はすでに改ざんされた後なのではないか、と疑えることにもなりませんか?」

「その通りです。念のため付言しておきますと、わたしは偽りを述べてはいませんし、偽りを述べる動機もなく、また今後とも偽りを述べる予定はありません。しかし先にあなたが提案されたように、あなた自身で記憶の改ざんを望むという可能性がある以上、そうした疑いは決して晴れることはないでしょう。仮にわたしに『今後二度と嘘をつかないこと』を望まれても、結果は同じです。わたしがあなたに述べる真実とは、わたしが通覧するところの客観的事実に基づいており、それはあなたが真実として認識しているところのそれではありません。つまりわれわれはそもそも、真実性が依拠する根幹の部分を共有することができないのです。ゆえにわたしがあなたを欺いたとあなたが思われるとすれば、それは各々の認識上の相違と言うべきでしょう。そしてわたしはあなたではなく、あなたはわたしではない以上、この溝は残り続け、埋まることはありません」

「それなら、わたしをあなたにしてください」
 と、咄嗟に男はつぶやいた。

「そのお願いは、お願いの意味するところが不明なので受理しかねます」
「わたしを、上位存在にしてください」
「上位存在とは、この世でただ一つのもの。並び立つ者のないもの。上に立つ者のないもの。あなたが上位存在になるということは、あなたにとって願いを叶えてくれる高次の存在、つまりわたしを欠くことになるので、『いつでもどこでも何度でも願いを叶えてくださること』という願いと矛盾してしまいます」。

 男は急激な疲れを覚えた。思わず膝をつきそうになり、足に力を込めた。先ほど獣に貫かれてから一瞬でふさがった胸の傷跡にふと手をやると、かさかさに乾いた血のかたまりが左の脇腹から足先に沿って固まっている。それは地面に広がった血だまりへと繋がり、こちらも乾きかけていた。強い日差しにさらされている所為で目がおかしくなったのか、血は見る間に黒さを増していくように見え、今はふさがっているはずの胸から自分自身が黒い影となってどくどく流れ出ているという、およそ現実味を欠いた妄想がありありと実感された。地に根を張ったように、足が動かなかった。

「結局何なら叶えてもらえるんですか」
 ほとんど誰にともなく、やむを得ずといった仕方で漏らした呟きに、上位存在は答える。

「前のお願いに矛盾しない形で叶えられるお願いなら、それこそ無数にあります。ありすぎて列挙できないほどです。なにしろ、現時点であなたが望んだ主なお願いは、『いつでもどこでも何度でもお願いを叶えてくださること』と、『空を飛べるようにしていただけますか』の二つだけですので。そしてどちらも、未だに有効なお願いです。あなたは今後お願いを叶えることもできれば、今すぐにでも空を飛ぶことだってできるのです」

 これを聞いて男は、身体に得体のしれない疼きを感じるとともに、ぶるぶる震え出した。それが〝空を飛ぶ〟前兆であることを、男は直観的に悟った。
「しかし空を飛ぶといったって、真上に打ちあがるだけでしょう。それがわたしの願いだったとでもいうのですか」
「お願いはあくまでも『空を飛べるようにしていただけますか』であり、『自由に空を飛べるようにしていただけますか』でもなければ、『思い通り空を飛べるようにしていただけますか』でもありませんので、このような仕様となっております」

「止めてください」

 と咄嗟に叫んだ途端、男は派手に砂ぼこりを巻き上げて、限界まで引き絞った弓から放たれた矢のように、天頂めがけて一挙に吹き飛んでいった。

「具体的な内容をおっしゃってください」
 と、上位存在は言った。景色もわからないほどの速度で上昇を続ける男は、口を開くのにさえ精一杯の努力が入った。

「内容って何ですか」
「何を止めるのか、ということです」
「飛んでいるこの状態を止めてください」
「それはできません。これはあなたご自身のお願いによって規定された状態ですので、途中でやめるとなるとお願いに矛盾が生じてしまいます」
「では時を止めてください」
「時を? 本当によろしいのですか?」
「このままだと前の二の舞になります。早く」
「すると初めのお願いも二度目のお願いも永久に留保の状態となりますがよろしいですか」
「何でも構いません」
「つまりあなたが記憶を戻されることも、今後お願いを叶えられることも、実質的にはありえないということになりますが」
「早くしてください」
「わかりました。その願い、叶えましょう」

 ――そしてすべてが無に帰した。

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