見出し画像

よい景色の追認不可能性

 夕暮れのサイクリングから帰ってきて自宅マンションの正面玄関脇の扉の前あたりでふと思った。特にどこかへ行く目的があるわけでもなくただそこいらをぐるぐる経巡るだけである。何が楽しくてそんなことをしているのか――と思い返してみても特段これといった要素に思い当たるわけではない。しかし、これといった要素に思い当たらないからといって、自転車に乗ることが総じてくだらないというわけではないし、また乗りに行きたくなる。これは考えてみると不思議なことである。
 そこでこんな仮定をした。物事の良さとか好ましさのなかには、良さとか好ましさを感じたこと自体を記憶にとどめておくこと(つまり顧みること)が難しい種類のものがあるのではないか、と。西田幾多郎の言うところの主客合一の境地というものが真にありうるのだとしたら、それは実のところ記憶されていないのでなければならないことになるだろう。「トンネルを抜けると雪国だったということそのものが私である」というほどに、私と世界とが合一した瞬間というものは、そこで感じた良さも含めた諸々が、まさにその時そう感じられたということを以て閉じられてこそ完全なものと化すのではないか。そうした良さというのは、綺麗な小石を集めるような在り方をしていない。過ぎてしまえば無化されるような何らかの物事が、まさにその時においては得も言われぬほどよい、ということはやはりある。そして実のところ、それこそこの世を生きるに値するものと化しているとさえ言えるのではないか。
 よい景色を見ることと、よい景色を見たと実感することと、よい景色を見たという記憶を回顧することとは、それぞれ別のことだ。では「よい景色」とは何なのかというと、それはその景色を目の当たりにしているまさにその時そう感じられているところのものだ。それを目の当たりにしながら「よい景色だな」と実感してしまうと、「よい景色とそれを見ているところの自分」とが客観化されてしまうので、私と景色との間の得も言われぬ統合状態(=実存)から遊離してしまう。実際、あからさまによい景色を目の当たりにしたときいつもこの感じがある。「自分はこの景色を真に楽しむことができているのだろうか」といったような、不可解な疑念が景色を心裏で汚すことがある。それでもその景色がそうした自分の内的な声を黙らせるほど強力なものであれば、忘我の境地にその種の絶対的なよさが去来する。――しかしどうだろう、特段よい景色と認識されることのないような日常の風景が、疑いを差し挟むことのない統合状態(=実存)を実現している(が、そのことに気づかずにいる)ということはありえるのではないか。そうなると、ただ「見えている」ということのみを条件としてあらゆる景色が「よい景色」となりうるのではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?