見出し画像

「永井均先生古希記念ワークショップ:私・今・現実」の感想

 一番面白かったのは入不二の「唯一中心分有型の解釈」。永井が独在性(独在的事実)の側にひたりついた哲学を展開するのに対して、入不二は論理構造の側に立って可能性を探っていくという印象がある(入不二独特のこの論理への執着は、他の著作でも感じられた、時間論だったと思う)。永井哲学に慣れると、永井の言明のすべてを「自分自身が感じているところのもの(というかまさに唯一で並ぶところのないこの、これ)」へと依拠させて考える癖がつくが、その点入不二のような論理執着型の哲学(と断定できるほどは知らないが)というのは、違和感というほどでもないが「異なる感じ」がして面白い。まったくわからない、肌に合わない、というわけではないのは、論理そのものもまた「自分自身が感じているところのもの」へと依拠させることが不可能ではないからだろう。

「唯一中心分有型の解釈」がなぜ面白く感じたのかというと、自分自身、永井の著作を読み始めたころに似たようなことをふと感じたから、だった。独在的な性質は内容を持たないので、任意の主体の持ついかなる内容であれ独在的でありうる。そして誰しもが自己認識を持って(いるということには少なくともされて)おり、自己認識を持つということの根底には必ず独在性がなければならない(ほかならないこの目から見え、この耳から聞こえ……という性質がそれ自体対象化されなければそもそも自己認識という概念が成り立たない)。これらのことから自分は、「みんな〈私〉じゃん……」とふと感じたのだった。思ったのではなく感じたのだった。その時、自分という存在が全他者にばーっと広がっていくような謎めいた感覚とともに、妙な納得を覚えたことを覚えている。あくまでも印象、というか体験としての話で、当然批判的に見ることができる。

〈私〉から私を取り去った純粋現実性(〈 〉)という概念は面白い。ウィトゲンシュタインの比喩で言うと「チェスの駒に被せる王冠」ということになるだろうが、王冠それだけを抽出して考えることは、果たしてできるだろうか。そもそも永井の独在性というのは、「ほかでもないこの私/この私以外の他者」とか「ここから開かれているところの現実/ここから開かれているのではない現実」とか「まさに今この時/他時点の今」という風に、何らかの対比項があって初めて言えることだろう。というか、そもそも物事というのは、対象と非対象との対比がないと揚言できないようになっている(比類のない物事というのはまさに「語りえない」)。であるならば、純粋現実性とは、果たして語りうることなのか。

 もちろん永井の独在性も、それが語られるとき語りに漏れることこそ本当に語るべきことであるという点では、語りえないことを語ってはいる。ただ入不二の純粋現実性というのは、それを(語ることで示すどころか)語ることさえできないのではないか。というのも、受肉を持たない、受肉以前の現実性というのは、端的に言って、何を言っているのかわからないのではないか。受肉以前の純粋現実性があって、それが(発表の円グラフみたいな図のように)各人に現実性を付与していると論じたところで、それは文字通りの形而上学の域を出ないのではないか。

 なんにせよ、純粋現実性というのを考え出す根源的な足掛かり自体が〈私〉ないし〈現実〉ないし〈今〉といった、「こうしてある以上(無内包)、このようにもある(第〇次内包)」という受肉後の視点からしか捉えられない以上、それ以前に遡る(減算する)ということは、できないのではないか。いや、もっと言うと、やはりそれが果たしてどのようなことなのかがそもそもわからないのではないか(永井哲学徒としては、そもそも哲学とは「この、これ(独在性/私秘性)」を足場に理解するよりほかに術がなく、純粋現実性にはまさに足場がないように思われる)。
 それでも「唯一中心分有型の解釈」が面白いと思える所以は、先にも述べたように

*************
1:結局皆に独在性なる普遍概念(という矛盾的なもの)を認めない限り喋れない。
2:独在性はいかなる内容も持たない以上内容としてはどのようでもありえる。
*************

 という点からいわば幻視されてくるものなのではないか。事実としてわれわれの言語は独在性が対象化されて組み込まれたのちの地平でないと機能しえないし、肝心のその独在性というのは内容を持たないのに、言語使用のうちに常にすでに示されている(独在性自体は語りに乗らないとはいえ、他者の発言を言語として受け取るということのうちに、「その目から見え、その耳から聞こえ……」という状態がその人にとって生じている――つまりその人から世界が開かれている――という前提を織り込んでいる、そうでなければ言語的交通が成り立たない)。

 とはいえ「唯一中心分有型の解釈」というのはやはり面白いし、自分にとっては実感を伴ってさえいたし、肩入れしたくもある(その実感がこの解釈に沿ったものなのかはわからないが)。

 うーん、入不二 基義「現実性の問題」を読むか……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?