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大和文華館「やまと絵のこころ」展(2024,冷泉為恭)

閲覧ありがとうございます。日本絵画一愛好家です。

さて、先月終了しておりますが、本年2024年の初春の過日、奈良市学園前の大和文華館にて1月5日から2月12日まで開催されておりました特別企画展「やまと絵のこころ」展を拝覧して参りました。

僭越ながら大和文華館のウェブサイトにリンクを張らせて頂きます。

本投稿の少し前までの時点では、本展「やまと絵のこころ」展の詳細についてページが残っていたのですが、飽くまで2023年度の展覧会の紹介という位置づけで、2024年度の展覧会の紹介に更新されて「やまと絵のこころ」展の紹介ページは確認できなくなりましたので、上記のリンクはトップページに張らせて頂いております。

大和文華館は、近鉄学園駅前の南出口から出て、向かって左手にある交差点を渡って、学園前交番の前を通って、最初のT字路を向かって右側に曲がって、そのまま道なりに歩いたところにあります。僭越ながら、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影させて頂いた、正門前の看板写真を掲載させて頂きます。

本企画展は、その名称の通り「やまと絵」の展覧会ですが、作品そのものよりも絵師に注目した展覧会のように位置づけられている模様です。本展の趣旨は、チラシ(フライヤー)にも展示作品リストにも掲載されておりますが、2つ折りの展示作品リストの4ページ目にある本展の趣旨から下記の通り引用させて頂きます。

本展で紹介するのは、やまと絵の伝統を受け継ぎながら制作を行った絵師たちです。中でも、幕末期の岡田為恭は、平安・鎌倉の古絵巻の原本を熱心に学んだことで知られています。2023年は為恭が生まれてから200年、2024年は没後160年に当たる節目の年であり、これを記念して大和文華館所蔵の為恭作品4件を一挙に展示します。

特別企画展 やまと絵のこころ 展示作品リスト第4ページ「展観内容」第4-8行

要すると、本展「やまと絵のこころ」展の主役は、冷泉為恭先生になると弊方判断いたしました。

ただし、本展では、「冷泉為恭」ではなく「岡田為恭」となっております。

弊方の印象では、「岡田為恭」よりも「冷泉為恭」の方が世間的によく知られていると思います。安直ですが本記事の投稿時点で、Google のキーワード検索にて "冷泉為恭" で検索すると検出結果は約57,400件であり、 "岡田為恭" で検索すると検出結果は約13,600件でした。約4倍の差があります。

それでは、本展では、なぜ「冷泉為恭」ではなく「岡田為恭」とされているのでしょうか?

こんなことに萌えを感じてヲタトークをしようとするから記事が長くなるのだと思いますが、たいへん恐れ入りますが、弊方ヲタクですので、敢えて萌えに忠実にヲタトークを進めさせて頂きたく思います。

為恭先生の展覧会/企画展は過去に何度か開催されている模様ですが、弊方、これら展覧会にお伺いできたことがありません。そうすると、本展「やまと絵のこころ」展が実質的に最初の為恭先生の展覧会/企画展になるのかもしれません(為恭先生の作品自体はそれなりに拝見したことがあります)。それはともかく、過去の展覧会/企画展の図録については、古書または開催ミュージアムの在庫により入手できたものを弊方所有しております。

その中で最も古いのが、2000年に敦賀市立博物館にて開催された特別展「復古大和絵 冷泉為恭を中心として」展の図録です。この図録に掲載される為恭先生の小伝から、僭越ながら下記の通り引用させて頂きます。

 姓は藤原・冷泉(外祖父梅價の妻「ほの」が、公家《くげ》の冷泉家と姻戚関係にあったと伝える)御子左《みこひだり》(冷泉家の遠祖の家号)岡田・菅原(岡田家の本姓)など種々名乗っているが、一般に冷泉または岡田姓で呼ばれている。本図録では「冷泉」とした。

敦賀市立博物館特別展「復古大和絵 冷泉為恭を中心として」図録
第112ページ上段第9-12行 《》内はルビ

本展、もちろん写真撮影禁止ですので、掲載できる写真がほとんどないため、まぁ、そんなに無理から写真を掲載する必要性もないのですが、note の投稿では写真がないとなんとなくさみしいので、ご参考までに、敦賀市立博物館の「復古大和絵 冷泉為恭を中心として」図録を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した写真を、僭越ながら掲載させて頂きます。

次に古いのが、2001年に岡崎市美術博物館にて開催された展覧会「冷泉為恭展-幕末やまと絵と絵夢花火」展の図録で、この図録に掲載される、当時の岡崎市美術博物館学芸員でいらした杉山明美先生(現在のご所属については確認できませんでした。)の論文「為恭の生涯」から、少々長くなって杉山先生には申し訳ありませんが、僭越ながら下記の通り引用させて頂きます。

 為恭はこの和歌の家《引用者註:藤原定家を祖とする冷泉家》とは直接的な関係を持たない。しかし「名は体を表す」とのことばを地でいくかのように王朝文化に傾倒し、冷泉をはじめとする平安貴族のイメージを持つ姓名を自称することによって、自らに枷をかけ、画業に反映させる手段とした。生れは狩野だが、少壮期には冷泉、御子左、藤原の姓を多く用い、壮年期には宮中の官職と並んで養子先の岡田家ゆかりの菅原征を名乗っていることが署名落款などにも見える。
 因みにこの冷泉姓の使用にあたっては母方の家が姻戚関係にあったとも、また母親が狩野家に嫁す前に冷泉家へ仕えていたとも伝えられ、その関連からか、為恭が本家の冷泉家側からその使用を咎められた時、「我は冷泉家のご落胤である」といったという逸話も残される。後の伝記や作家紹介の文字表示としては本名の岡田為恭で紹介されることが多いし、適切だと思うが、実際にその作品を一度でも目にすれば、作者の名が冷泉為恭と呼ぶに最もふさわしいと思うのではないだろうか。

岡崎市立美術博物館「冷泉為恭展-幕末やまと絵と絵夢花火」展図録
第148ページ上段第7-18行

さきほどと同様に、この図録についても、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した写真を、僭越ながら掲載させて頂きます。

ちなみにこの図録は、本記事の投稿時点でも岡崎市美術博物館に在庫がある模様ですので、為恭先生ファンの方はぜひご購入されることをお薦めいたします。

次に古いのが、本展「やまと絵のこころ」展を開催した大和文華館において、2005年に開催された特別展「復古大和絵 為恭 -幕末王朝恋慕-」です。この図録に掲載される、大和文華館の学芸部部長でいらした、故中部義隆先生の論文「為恭芸術の近代性」から、僭越ながら下記の通り引用させて頂きます。

為恭が冷泉姓を名乗った理由は判然としない。為恭は母、織及が永泰に嫁ぐ前に仕えた冷泉家の落胤であったとも、織及の母が冷泉家と婚姻関係にある明覚寺の娘であったとも伝えられる。たとえ冷泉家と血縁関係がなかったとしても、絵師の名乗る姓として、社会的に容認されていたのだろう。

大和文華館「復古大和絵 為恭 -幕末王朝恋慕-」図録第8ページ第4-6行

さきほどと同様に、この図録についても、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した写真を、僭越ながら掲載させて頂きます。

この図録も、本展「やまと絵のこころ」展にお伺いした時点でも在庫がありましたし、本記事の投稿時点でも在庫がある模様です。為恭先生ファンの方々はぜひご購入されることをお薦めいたします。

次に古いのが、個展/回顧展ではないのですが、名古屋市の徳川美術館にて2014年に開催された「復古やまと絵 新たなる王朝美の世界-訥言・一蕙・為恭・清-」展の図録です。この図録に掲載される、徳川美術館学芸員の薄田大輔先生の論文「冷泉為恭墨絵試論」から、僭越ながら下記の通り引用させて頂きます。

嘉永三年(一八五〇)二十八歳で岡田家の養子となったことで「岡田」姓を名乗り、これ以降「田米知佳(タメチカ)」の自署があることから、「岡田為恭《ためちか》」という表記が適切である。しかし、現在では「冷泉為恭」の名が広く使用されているため、本図録でも「冷泉為恭《ためちか》」と表記する。

徳川美術館「復古やまと絵 新たなる王朝美の世界-訥言・一蕙・為恭・清-」展図録
第149ページ下段第8-12行 《》内はルビ

さきほどと同様に、この図録についても、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した写真を、僭越ながら掲載させて頂きます。

代表的な展覧会図録の論文から上記の通り引用させて頂きましたが、これら引用箇所だけで見ると、やはり「岡田為恭」とすることが適切な模様です。ちなみに引用させて頂いておりませんが、これら展覧会図録掲載の論文から判断されるのが、為恭先生は、「冷泉為恭」時代は「れいぜい・ためたか」と名乗られており、その後、「岡田為恭」となってからは「おかだ・ためちか」と名乗られていた模様です。

それでも、大和文華館を除いた展羅会では、みな「冷泉」姓を採用されております。本展「やまと絵のこころ」展でも、よく知られている「冷泉為恭」でええやん?! と思ったのですが、大和文華館の「復古大和絵 為恭 -幕末王朝恋慕-」図録において、故中部義隆先生が先ほどの論文の中で、次のようなご指摘をされており、これが「冷泉為恭」ではなく「岡田為恭」とする理由ではないか、と弊方ヲタク的に妄想しております。僭越ながら再び下記の通り引用させて頂きます。

 為恭が冷泉姓、藤原姓を用いた時期、すなわち、冷泉時代までが為恭の画業全体における修養期に位置付けられる。

大和文華館「復古大和絵 為恭 -幕末王朝恋慕-」図録第8ページ第8行

 翌年の嘉永三年(一八五〇)、二十八才の年に、為恭は公家の蔵人所衆を勤める岡田恭純の養子となる。岡田家では、為恭の義父の恭純、義祖父の栄柄も養子である。御所の飾付などの他、蔵人所衆に定まった職掌はなく、為恭は以前と同様に絵師として活動している。むしろ、為恭は大和絵の学習を深めるために、岡田家の養子となったと思われる。官人になることで、御所の様子や宮廷行事をより詳細に知ることができ、何より、在野の町絵師であった為恭は、ようやく大和絵を描くにふさわしい社会的地位を得ることができた。

大和文華館「復古大和絵 為恭 -幕末王朝恋慕-」図録第8ページ第14-18行

要すると、為恭先生が「冷泉」(および「藤原」)を名乗っておられたのは、画業の初期(修養期)であり、画業が本格的に認められた時期は、地下官人「岡田」家に養子に入ってからであるので、「冷泉為恭」とするよりも「岡田為恭」とする方が適切ではないか、というのが、大和文華館のご見解ではないかと、弊方ヲタク的に妄想しております。

なお、本記事では、以下、偉大なる大和文華館に敬意を表しつつも、分かりやすい方にも媚びるという折衷案で、「冷泉(岡田)為恭」とさせて頂こうと思います。

本展「やまと絵のこころ」の構成ですが、「1.やまと絵の原点」、「2.やまと絵の継承と変容」、「3.琳派の絵画と装飾」、「4.岡田為恭の復古やまと絵」となっておりました。

このうち「4.岡田為恭の復古やまと絵」では、作品番号27「拾集古器図柵」、作品番号28「善教房絵詞模本」、作品番号34「春秋鷹狩茸狩図屏風」、作品番号35「伊勢物語八橋図」が、大和文華館所蔵の冷泉(岡田)為恭先生の作品でした。

本展「やまと絵のこころ」展では、「図録」ではありませんが、本文12ページ、表紙1-4を含めると合計16ページのパンフレットが制作されており、もちろん弊方購入させて頂きましたが、当該パンフレットでは、大和文華館所蔵の4作品全てが掲載されているわけではなく、作品番号28「善教房絵詞模本」(パンフレットではNo.10)、および、作品番号34「春秋鷹狩茸狩図屏風」(パンフレットではNo.12)のみが掲載されておりました。

本展についての弊方の所感ですが、飽くまで私見ということでご容赦頂きたいのですが、本展は、コンパクトながら、やまと絵の起源からその変容、そして近世の復古やまと絵の俊英、冷泉(岡田)為恭先生に至るまでがわかりやすく展示されており、おっさん激萌えでした。

昨年2023年10月11日から12月3日まで東京国立博物館で開催されていた特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美」展も、弊方、拝覧させて頂きましたが、この東博の「やまと絵」展は、実質的には、平安時代、鎌倉時代、および室町時代までの作品群となっておりました。

これに対して、本展「やまと絵のこころ」展は、凝縮された「やまと絵」の“回顧展”であって、その取りが冷泉(岡田)為恭先生! というような所感を弊方は覚えた次第です。

ここで、個別の作品についてヲタトークを始めると長くなるので、差し控えさせて頂くとして、いや、やっぱり1作品についてのみヲタトークをさせて頂きたく思います。

その前に、冷泉(岡田)為恭先生といえば、非常に有名なエピソードが知られているかと思います。

岡崎市美術博物館「冷泉為恭展-幕末やまと絵と絵夢花火」展図録の先ほどの杉山明美先生の論文中に、当該エピソードに関して、かなり詳細な記載がありますので、たいへん僭越ながら下記の通り引用させて頂きます。

 弘化から嘉永と改元された二十七歳頃、為恭は西洞院通り下立売上ルに八畳と十畳の客間を含む母屋と、別棟に十二畳の画室や土蔵をも含む大邸宅を持った。その佇まいは平安貴族の屋敷を真似て、畳を敷かない檜板張りの室内に古い唐櫃などの調度品を置き、さらに床は上代の書や絵が飾られたという。そして為恭は夜に烏帽子を被り、装束、太刀を付けて、庭で自分の影を写し、平安期の昔に思いをはせて楽しんだという。

岡崎市立美術博物館「冷泉為恭展-幕末やまと絵と絵夢花火」展図録
第149ページ下段第30-34行

レ、レイヤーさんやっ! コスプレイヤーさんやっっ!! 為恭先生が平安貴族コスプレを楽しんでいらっしゃるっっっ!!!

おぉぉぉぉぉぉ!!! 何と言うことでしょう!!! 20世紀後期頃に創始された格調高い現代文化であると弊方思い込んでいたコスプレ文化を、何と、偉大なる絵師、冷泉(岡田)為恭先生はすでに幕末において先取りされていたとはっっっ!!!

冷泉(岡田)為恭先生のコスプレイヤーぶりについては、レイヤー自画像(?)を描かれていることからも、めっちゃ気合い入っていると思われます(弊方私見)。

その自画像の一つが、本展では1月30日から最終日まで展示されておりました、奈良県立博物館蔵の特別出陳「天照皇大神宮参拝図」です!!!

残念ながら、本展「やまと絵のこころ」展のパンフレットには掲載されておりませんが、大和文華館「復古大和絵 為恭 -幕末王朝恋慕-」展図録には、第96ページに図版番号59として掲載されておりました。

いちおう、弊方の判断として引用の範疇に入るかと思いますので、「復古やまと絵 為恭」展図録の同作品を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影させて頂いた画質のよろしくない写真を、飽くまでご参考として僭越ながら掲載させて頂きます。より明確な画像をお楽しみになりたい方は、ぜひ「復古大和絵 為恭 -幕末王朝恋慕-」展図録をご購入頂ければと思います。

大和文華館「復古大和絵 為恭 -幕末王朝恋慕-」展図録第96ページ右

この作品に関しては、先ほどの故中部義隆先生の論文集『近世絵画研究-大和文化館所蔵品を中心に-』の中に「研究ノート 為恭の画中自画像」という論文があります(同書第106-107ページ)ので、同論文から僭越ながら下記の通り引用させて頂きます。

 この作品《引用者註:奈良県立美術館蔵「天照皇大神宮参拝図」》には、為恭自身が二人の従者を連れて、天照大明神を祀る神社を参拝する姿を描いています。画中の為恭の満ち足りた安らかな表情は、「年中行事騎射図」の男と非常に似ています。

大和文華館『近世絵画研究-大和文化館所蔵品を中心に-』第107ページ上段13行-下段第2行

写真が微妙なので少々把握しにくいと思われますが、狩衣っぽい衣装を身につけられて、おそらく烏帽子を被られて、ダンディな口髭をお生やしになられた為恭先生が恭しげに頭を垂れておられて、そのすぐ後ろというか横くらいに二人の人物が蹲踞(そんきょ)っぽい姿勢で控えておられます。

このお二人のうち画面手前側の方には「源守照」、奥側の方には「在原以善」とのお名前が付されており、冷泉(岡田)為恭先生のお弟子さんだと考えられているようです。

さらに引き続いて、中部先生は同論文で下記の通りご指摘されております。僭越ながら引用させて頂きます。

 為恭にとって朝廷儀礼や神事を描くこと自体が、理想とする王朝世界の復興でした。為恭は「年中行事騎射図」の礼拝する男に自信の姿を重ね、画中の理想郷に浸っているように思えます。

大和文華館『近世絵画研究-大和文化館所蔵品を中心に-』第107ページ下段第6-8行

為恭先生が「養子」に入った、地下官人・蔵人所衆の「岡田家」は、先ほど引用させて頂いた通り、先代も先々代も「養子」だったとのことですが、これは、地下家「岡田家」が「株」化されて売買されていた可能性を示唆するのではないかと弊方、妄想したいと思います。

そうすると、為恭先生は、理想の王朝世界を復興するために、絵師として稼ぎまくった資金で、下位とは言え「お公家さま」である菅原姓の「岡田家」株を購入し、さらには、平安貴族の屋敷を再現して、その上でコスプレをされていたのではないか?! まさしく、己が求める美に魂を捧げたかのごとき、気合い入りまくりの超絶コスプレイヤー先生でいらしたと弊方妄想しております。

このような強い美意識というか美学というか美への信念が、数々の素晴らしい作品群を生み出された半面、暗殺という悲劇的な最後につながったのかもしれないと、弊方ぼんやり思っております。

なお、故中部先生の論文集『近世絵画研究-大和文化館所蔵品を中心に-』は、大和文華館にて絶賛販売中ですので、弊方としては強くおススメさせて頂きます。下記に大和文華館の出版物「名品鑑賞」のページのリンクを張らせて頂きますが、同ページにありますように同論文集は大幅値引き中ですので、購入して損することはないと弊方申し上げさせて頂きます。

また長くなってしまった上に、結局、本企画展の萌え所をほとんどヲタトークせず、為恭先生のヲタトークしかしていないような感じになってしまいました。たいへん申し訳ございませんでした。

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