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弟とブルガリと東京

東京という単語には魔力がある。
この世の綺麗なものや面白いものや美味しいもの、悲しいこと汚いこと残酷なことその全てがギュギュッと詰まった東京に憧れたことがない日本人はいないのではないだろうか。

かくいう私も、かつては東京に憧れて、東京を目指した女だった。


自分のキャリアや夢について考えた時、
東京は私の行き先ではなくなり私がこの先東京に住むことは無くなったけれど、

それ以来東京との縁は切れたと思っていたが、
東京という単語は意外な形で私の目の前にひらりと舞い戻ってきた。

「姉ちゃん、俺東京配属になっちゃった」

私の弟が新卒の配属が東京本社になったのである。

弟。

私の2つ年下の可愛い可愛い弟は、
地元の九州が大好きなマイルドヤンキー九州男子。

そんな弟が、「広い世界を見てみたい!」という悲壮な決意を胸に就活戦線に身を投げて掴み取った大きな製薬会社の内定。

面接に落ちても、酷いこと言われても、めげずへこまず涙涙の私と弟の話は以前書いたんだけど、これはそれのその後の話である。

彼の夢は、都会の大きな会社でいろんな人に出会い、揉まれ、成長し、広い世界を見て一回りおっきな自分を手に入れることである。

都会といっても、我ら兄弟は九州の田舎出身なので、福岡や広島も都会に含まれ、大阪なんて巨大メガシティなのである。

弟は、都会に行きたいといってはいたものの、
「大阪に行けたらいいなあ。」
くらいの感覚だったので、

いきなりの東京への片道切符に文字どおり呆然としていた。

「東京は希望者も多いし、僕は西日本って希望出したのに…」

と戸惑う弟の持ってる片道切符が、
私にはギラギラと光るプラチナチケットに見えた。

サラリーマンにとって本社とは強烈な魔力を持った言葉である。

全国のサラリーマンは巨大な組織の中で東京にある本社に評価されるために実績や好事例を求めて日々奔走している。

弟のようなペラペラの新人はともかく、
中堅どころの社員にとって本社に行くことは色々葛藤はあれど栄転であることには間違いない。

本社には、生え抜きのエリートはもちろん地方から成り上がってきた人、中途から殴り込みをかけてきたキャリア組、さまざまなバックグラウンドのその会社が誇る選りすぐりのプレーヤーが集まる。

そんな人たちを先輩に持って働けることはまずサラリーマンとして絶大な成長の機会になるし。

暮らすにしても東京には面白いものや美味しいものがそこらじゅうに転がっていて何かに興味を持った時手を伸ばせば届くところにさまざまなドアの鍵が転がってる。

私は映画が好きで大阪に住んでるけど、
大阪にさえない映画や映画祭が東京ではバンバン公開されて、海外から俳優が来日する。

全てのもの、こと、ひと、が忙しなく最前線を交錯する都会が弟両目いっぱい210度の視界に入り切れない密度と速さで駆け抜ける。

弟がこれから飛び込む大都会で、
弟はきっと何回も恥をかいて、何回も失敗して、
何回も落ち込んだりするんだろう。

でも、そこに何年か住めばきっと彼の望んだ広い世界を泳ぐ泳ぎ方を覚えて、きっともっともっとすごいところに行けるのだろう。

そして彼が入社したのは、夢を見て努力すればそれなりのことを彼に教えてくれる大企業だ。

そんな彼の門出に、何かしてあげたかった。

そしてすぐ頭に浮かんだのは名刺入れだった。

私が新卒の時、2020年4月はまだコロナが未知の恐怖ウイルスとして認知されており緊急事態宣言で大阪のデパートは全て閉められていた。

熊本の両親が地元のデパートでビビアンウエストウッドの名刺入れを送ってくれた。

えんじ色の可愛いデザインで気に入っていたが、
その後カルティエ、Tiffany、Burberry、サンローラン、LV、GUCCI、、、華やかながら華美ではないワンランク上の名刺入れを握りしめて商談に特攻していく先輩たちの名刺入れを持たせてもらった時にその皮のしっとりした感じや、
何十年使っても綺麗に重厚感のある雰囲気に、

「ああ、もっと考えて名刺入れを買えばよかったなあ」

と思った。

商談の際に受け取った名刺入れを座布団に商談資料を広げる時。
さっとポケットから取り出して広げる時。

華麗にさりげなく登場する名刺入れはサラリーマンにとって大事な大事な相棒なのだ。

そんなことも考えずに、両親に任せきりにして。

両親が一生懸命心を込めて選んでくれた名刺入れはそれはそれで素晴らしいけれど、
私は弟にはサラリーマンの最大の相棒の名刺入れには拘って欲しかったのだ。

それに、一つでも一流のものを持っていれば、
景気もいいし、そのブランドものに彼自身が追いついていくんじゃないかと思った。

「名刺入れ買いに行こうよ」

と、LINEで弟を心斎橋に呼びつけた。

「高いお店にたくさん行くんだから、おしゃれをしてくるんだよ!」

と言ったら、彼なりに精一杯オシャレをして弟はちょこんと心斎橋の駅に現れた。

ポールスミスやビビアンウエストウッドやCKのお店にふらふら入って行こうとする弟を引っ張ってGUCCIの店に入る。

弟はGUCCIに憧れていてアメ村でGUCCIの古着のTシャツを買ったりしていたのを覚えていたからだ。

出入り口に立ってるガードマンに怖気付いて

「怖いよ、やめようよ」

と小声で言う弟を引っ張って、
近づいてきてくれた店員さんに

「弟が新卒で社会人になるのでお祝いで名刺入れが欲しいんですけど、どんなのがありますか?」

と聞いてみると、店員さんは優しく快くいくつかの名刺入れを出して見せてくれた。

弟は終始緊張していたが、いくつか気に入ったものを恐る恐る手に取って眺めていた。

店員さんがGUCCIと書かれた名刺に、

「型番控えさせていただきますから、ご検討なさってくださいね」

と言ってGUCCIの綺麗な名刺を渡してくれた。

GUCCIの店から出ると、
弟はきょとんと不思議そうな顔をしてGUCCIの名刺を眺めて、

「なんでこんなのくれるの?」

と聞いてきた。

「あのね、名刺入れだけでもいろんな種類があるから、次君がこの名刺入れをもう一回見たい時とか、買いたい時にこの名刺に書いてくれてる番号を店員さんに見せたら今日見たのと同じものを出してくれるんだよ。」

「へええ…」

「高いものだから、見たからって言ってすぐ買わなくていいからね。こうやって今日はいろんなブランドの名刺入れを見に行って最後に一個買って帰ろう」

弟はコクコク頷くと、何周も何周も心斎橋の大丸の2階と3階をぐるぐる回り、

ついに2階の奥にあるブルガリの前で彼は足を止めてこっちを見てきた。

「入っていいの?」

と聞いてきたので、

「いいだろ!いこうよ!」

と2人で入っていくと、綺麗な店員のお姉さんが出迎えてくれた。

「何かお探しですか?」

と言う言葉に弟が、

「名刺入れを…」

と小さな声で言うと店員さんはにっこり笑って

「こちらへどうぞどうぞ」

と弟を店の奥へ案内してくれた。

「僕の新卒のお祝いで、、」

と恥ずかしそうに私の方を見ながら弟は自分でお姉さんに説明した。

「そうなんですね!おめでとうございます。
新卒でしたら、あんまり華美なものは良くないですよね。少々お待ちくださいね」

お姉さんはカードキーをガラスケースの下の引き出しにかざして、たくさんの名刺入れを弟の前に並べてくれた。

そうしてる間に、もう1人綺麗で落ち着いているオトナな店員さんがやって来て、

「本日はありがとうございます。
現在こちらの〇〇がトレーニング中になりますので私も一緒にご案内させていただきますね」

とまさかの2人体制。

さっきのGUCCIの時と同じように大きな目を見開いてたくさん並べた名刺入れを見比べている中で緊張マックスの弟がはたと視線を止めた名刺入れがあった。

濃いブルーで光の加減で青みが変わり、
控えめながらもしっかりブルガリのアイコンが取り入れられてる新卒でもベテランでも嫌味なく使えそうな名刺入れだった。

弟の目が止まったのを店員さんは見逃さず、

「ぜひ、手に取ってくださいね。」

と言ってくれたがどうしていいか分からず見てるだけの弟に、名刺入れを手渡しで渡してくれた。

「ポケットがたくさんついてるのわかります?
ここには大事な名刺入れとかよく使う取引先の名刺入れを入れとくと便利ですよ。

それから、後ろにもポケットがついているので、
交通カードとか入れておくと通勤の時もすごくいいと思います」

弟は手に持たせてもらった名刺入れの柔らかさに感動して、

「持ちやすいです…」

と言うとお姉さんはにっこり笑って、

「こちら皮にも非常に拘っておりまして…」

と教えてくれた。
どう見てもハイブランドに慣れていなくて、ブルガリの中ではそんなに高くない商品を見にきた弟に対して、弟が緊張していて触るのに躊躇して手に取れないこととか、そういうことを汲んでくれた。

「あの、これの型番を教えて欲しいです」

弟がぼそぼそとそう頼むと、
お姉さんはにっこり笑って、

「かしこまりました!」

とポケットから名刺入れを取り出した。

あっ!

と口をぽかんと開けた弟にお姉さんは少し恥ずかしそうに、そしてイタズラっぽく笑って、

「わたしもこれ、もう10年くらい使ってるんですけど、味が出て素敵でしょう?」

と、お姉さんの手の中にあるブルガリの名刺入れは弟が目を奪われたものと同じ深いブルーのキラキラ輝く名刺入れ。

お姉さんの10年の時間をいい時も悪い時も一緒に揉まれて、どんな想いも輝きに変えてきた何とも言えない煌めきを持っていた。

「さっきも言いましたように、ここに交通カードも入れてますし…」

とお姉さんの名刺入れはしっかりと使われて息をしていた。

息をしている名刺入れはショウウィンドウの中の新品よりも素敵だった。

ブルガリの上質な名刺に、
型番を書き留めたお姉さんは、光沢のある銅色の封筒にその名刺を入れてその名刺を持って出口まで送ってくれた。

「ごゆっくり考えられてくださいね」

と言って弟に名刺を渡してくれた。

弟はお店から出ると呆然として、

「めっちゃ優しいし、俺こんなにしてもらっていいのかなあ。まだ見に行っただけなのに」

ため息をつくようにそう言った弟に、

「うんうん。すごく親切だったね」

と言うと、

「うん。。なんか幸せな気持ちになった」

ともらった名刺を大切そうにポケットに仕舞い込んだ。

その後、心斎橋の街を2人で歩いていろんなお店を見に行った。

PRADA、サンローラン、バレンティノ、ダンヒル、カルティエ。

ブルガリのお店に入った後、弟は堂々とお店に入るようになり、ハキハキとお店の人と話した。

ハイブランドの何とも言えない威圧感と緊張感に圧倒されていた弟だけど、
ブルガリでお客さんとしてあのお姉さんがしっかり弟だけを見て接客してくれたおかげで弟も自信がついたようだった。

それにしても、
名刺入れ一つとってもさすがハイブランドというものは奥が深く、
あの小さなレザー製品にそのブランドのアイコンやこだわりや、使いやすさがぎゅぎゅっと詰まっている。

そして、手に握り締めた時の感触がどのブランドも全く違うのが面白い。

ブランドのお店で名刺入れを手に取るたびに、

「これが1番いい気がする…」

とうっとりしてしまう弟は私に似てミーハーで優柔不断だ。

結局その日だけで10枚以上の名刺をもらった私と弟は適当に入った喫茶店で名刺を広げて、

「あのブランドはこうだった」
「あのブランドのさわりごごちがよかった」
「あのブランドは色が良かった」

と入ったお店や名刺入れのことを思い出してみた。

そうやってああだこうだ2人で言ってる時間がすごく幸せだった。

幸せな私を横に弟は、この世の全ての悩みを眉間の皺に閉じ込めたような顔をしてウンウンと唸っている。

いままでInstagramでしか見たことのないブランドものを触ってみて、
その中から一つを選ぶのは彼にとっては大変な作業で、

ああでもこうでもないと考え込んでいた。

バレンティノ、サンローラン、ブルガリの名刺が残った。

そして、

弟は机に広げられた名刺から、もう一度ブルガリの名刺を手に取った。

「あのお姉さん、すっごく優しくてかっこよかった。名刺入れも1番素敵だった」

ショウウィンドウの中の名刺入れも、
10年の時を超えたお姉さんの名刺入れも両方すごく素敵だった。

「三つともささっともう一回見て決めたら?」

と、私が言うと弟は首を横に振ってバレンティノとサンローランの名刺を丁寧にポケットに仕舞い込み、

「やっぱりブルガリにする」

と喫茶店の席をたった。

二回目のブルガリに行く道中弟は無言だった。

何やらすごく緊張してるようだけど、
君、お金を払うのはお姉ちゃんなんだからね。

と心の中でツッコミを入れた。

心斎橋の大丸で神妙な顔して2人でエスカレーターに乗って、弟がブルガリの店に着いた途端にさっきのお姉さんがすぐさま弟を見つけた。

期待と喜びと微かな自信が滲んだ目がすごく綺麗だった。

「おかえりなさいませ」

と言われて、照れてしまう弟と姉。

「もう一回見せてもらっていいですか?」

と言うとお姉さんは頷いて、さっきのショウウィンドウからさっき見ていた名刺入れを出してくれた。

それを手に取った瞬間、弟は

「うん!やっぱり〜!」

と言ってあっさりさっきの煩悶を投げ捨てた。

「これください!」

はっきり言った弟に、

「かしこまりました」

握らせてもらった名刺入れを持ったまま嬉しそうにしている弟に、

「新しいものを探してまいりますのでこちら一度お預かりいたしますね」

と、言ってくれた。

そんな善意に気が付かないぼけっとした弟は、

「ええ、これでいいですよ…」

と少し残念そうな顔をした。
弟の気持ちが少しわかる気がした。

手に取って接客を受けて、この名刺入れにはすでにちょっとだけ弟の思い出がつまっているのだ。

「これと同じ、まだ誰も触ってないのを後ろから探して来てくれるんだよ。」

と教えてやると、弟はすごすごと名刺入れをお姉さんのお盆の上に乗せた。

店の奥のガラスケースに通されて2人で座って、
持って来てもらったイタリアの天然水とチョコレートを食べながら名刺入れを待った。

少し経つとお姉さんが嬉しそうに弟が選んだブルーの名刺入れを持って来てくれた。

「一応最後に傷や気になる点がないかお確かめください」

と言われて、弟は大事そうにこれから自分のものになる名刺入れを手にとってしげしげと観察した。

「大丈夫です」

と言うと

「それではお包みいたしますね」

とお姉さんは名刺入れを持って奥へ。

また少し経つと、リボンをかけられたブルガリの箱と紙袋をお盆に乗せてお姉さんが戻って来た。

カードの手続きや、証明書の処理をしながら、
お姉さんは嬉しそうに弟に、

「私、実は長年ブルガリに憧れていて本当に少し前にやっとブルガリで働けるようになったんです。だから、今日新しい門出を迎える方にこのブルガリで名刺入れをご案内できたことがすごく嬉しく、親近感を感じます。いい名刺入れを持ってると、自分が折れそうな時、絶対助けてくれるんですよ。私もそうでした」

と話してくれた。

弟は神妙な顔をしてお姉さんの話を聞いていた。

「色々見たんですけど、ここのが1番カッコよかったんです」

と正直な感想を弟は語った。

最後にお姉さんが、いろんな書類を封筒に入れて箱と一緒にブルガリの紙袋に入れた。

「お出口までお送り致しますね」

私と弟は席を立ち、弟はお姉さんと出口までの距離を歩く。

「新社会人おめでとうございます。
頑張ってくださいね。ありがとうございました」

と言う言葉を背に、私と弟は大丸を後にした。

デパートから出た後弟はカッコつけて小脇に抱えていたブルガリの紙袋を両手に抱き締めるように持ち替えて、

振り返ってデパートを見上げて、

「俺、頑張る!姉ちゃんありがとう!」

と笑った。

「うん。うん。」

なんだかほろほろ涙が出そうになってしまった。

私の新卒一年目はパワハラ上司に捕まって電車自殺を真剣に検討するほどに地獄だった。

だけど、大阪に残ってこうやって弟にハイブランドの名刺入れも買ってやれたし、
大好きな言語を使って国際的に働けるようにもなったし。

だからさ。

弟よ、たとえどんなに辛いことがまってたとしても悔しい時や理不尽にぶつかっても手元にあるブルガリの名刺入れを見て、

「俺は、新卒からこんな一流な名刺入れ使ってんだ!負けるか!お前らとは格が違うんだ!」

なんて自分を奮い立たせて頑張ってくれよな。

君が入った大企業ならそこで耐える価値がたっぷりたっぷり詰まってんだから簡単に負けるなよ!

って、言いたかったけど何となく言えなかった。

弟は東京に行く。
思い出残る関西を捨てて、
19歳で九州から出て来てさらに東の東京へ飛んでいく。

私が憧れて手を伸ばした東京を泳ぎ出す。

もしも大阪に残ってたら、また辛かった時とか大変な時とか飛んでいけるんだけど。

東京は私だって数えるくらいしか行ったことないし、そう簡単に飛んでもいけなくなるから。

代わりにブルガリをポケットに入れて持って行ってね。

お母さんから預けられたお金で弟のスーツを作って、
いつものお店でステーキを食べて、
心斎橋の駅で弟を見送った。

社会人になって1番楽しくて幸せな1日だった。

その夜弟から名刺入れの写真が送られて来た。


…………やっぱり私も名刺入れ買いたいなあ!!

なんて、スマホでグルグル名刺入れの画像を見てる私はあいも変わらず都会の怠け者。

入社1ヶ月が経ち、ようやく名刺入れを手にした、と弟からそんな話を聞いた夜に思い出したことをつらつらと書きとめて、今日はもうおやすみなさい。

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