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短編小説:桜に恋い恋う

 桜色の爪、桜色を帯びた肌、桜色の唇、真っ黒に艶やかな髪。彼女が持つものは至極当然ながら、そうあるべきものがそうあるだけだった。
 まさしく春のひとだった。春そのものを生きるひとだった。そして確かに、ほとんどおよそ永遠の、僕だけの春だった。
 安アパートに不似合いな彼女は、いるだけでその部屋を春にした。いったりきたりして春風を起こした。話し声は春のさえずりだった。笑ってくれたら、穏やかな長閑な幸福だった。そして、窓越しの住宅街を、映画か何かでも見ているように毎日、飽きもせず、眺めていた。春のおわりも、梅雨の日々も、夏の始まりも、夏の盛りも、秋の手前も。
 あの日も同じだった。愚かにも違ったのは僕だけだった。
 そんなにも見つめるのなら焦がれるのなら知りたいのなら、ガラス越しでは切ないだろうと思った。彼女の視界に割り込んで、彼女にじっと見つめられながら、鍵を外して、さらりと窓を開けた。
 彼女の口はぽかりと「あ」のかたちをつくっていた。ぶわりと吹き込んだ夏の風を浴びて、彼女は花吹雪になった。ばっとほどけて、たくさんの花びらになった。僕の部屋は花嵐の有り様だった。
 たった今、僕の目の前で、彼女は春に還った。
 伸ばした手は、彼女をつかまえようとするのではなく、窓を閉めようとするべきだった。それもどうせ間に合わなかった。
 噎せ返るほどの彼女の残り香でいっそ死んでしまいたい。それも叶わない。どうせなら跡形もなく消えてくれたらよかった。こんな名残、捨てられない。忘れられない。
 
 儚くて残酷な春のひとよ。
 
 永遠に似せたふたりきりの暮らしを、惜しんでくれたかい。まって、と、僕を咎めようとしてくれたかい。秋も冬も知って春を迎えてほしかったのにごめんねなんて、嘆く資格を僕にくれるかい。
 
 
 
 

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