意外と自分は他人軸だった話
今日、というか昨日、か?
友達に、今思っている「遠慮」を全て話した
結果帰ってきたのは、「気にしなくていいよ」だった。
昔から私には考えすぎる癖がある。
そのせいなのかなんなのか、相手の状況を鑑みて、私がやった方がいいなら何でもやるって言ってしまうし、逆に私がいない方がいいだろうと思ってしまうと、縮こまった挙句、すっと消えてしまう。
そのおかげで、高校時代は安請負したことに苦しめられた記憶が多々あるし、今でもあれもやるよ、これもやるよ、と言った後に、ふとなんで私これやってんだ?と思う時がある。
逆に、一定以上、人と仲良くなれなくて気がついたら独り、なんてことも多い。
外ヅラがそんなんなもんだから、逆に家の中では何にもできない。
私がやった方が両親が助かるだろうな〜ってことから、これやっといてって言われたことまで。本当にクズ娘だと思う。ごめん。
ただ、無意識のうちにそこでどうにかバランスを取っているのだろう。
だけど、「気にしないでいいよ」と言われた。
気持ち的には、半々だった。
本当に、誘いたいときに誘っていいんだ。と、
私が気遣うことは、必要なかったんだ。と。
嬉しくも、苦しくもあった。
他人のことをそんなに考えながら行動しすぎなくてもいいんじゃない?というのもわかる。だけど、自分勝手な行動になるんじゃないか、って、それが怖い。
なんで怖いか、上手く言葉にできないけど、多分、嫌われるのが怖いんだと思う。それが、自分にとって大切な人たちだと余計に。
好かれるためには、愛されるためには、この人が喜ぶように、この人の邪魔にならないように、と。
どこかで、自分軸では無い、他人軸の世界で、私はものを言う人間になってしまっていたらしい。
だから、「優しいね」って言われる。
この間、何かで見た記事に、
誰にでも優しい人には、優しい人を求める人しか集まらない。つまり、誰にでも優しい人の元に集まるのは、優しくして欲しい、自己中心的な人たちだ。
的なことが書いてあった。
「優しい」と言われることの多い自分は、みんなに優しくすることが正解では無い、と言われるような気がした。
まあ、そりゃ、誰にでも優しくはしない。
というか、その見せかけの優しさは、好意を求めてやっているもので、だからきっと、裏切られたら心の底から苦しくなるだろう。
結局、そんなもんの優しさなんて、いらないんだろうな。
まだしばらくは、自分は他人の顔色を伺ってしまうだろう。
だけど、その場ではそうであっても、もう少し本音で、自分に正直に、誤魔化さずに、相手のことを考えすぎずに、少し鈍感なフリをして、ものを言ってみてもいいのかもしれない。
それが、本当の優しさなのかな。
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