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アントニオ猪木さんと吉田松陰先生の共通点それは闘魂

 私は、猪木さんの著作を繰り返し読み、その教えを大切にしています。

 私はもしかするとものすごい発見をしてしまったのかもしれません。アントニオ猪木さんの行動や発言は、吉田松陰先生のそれとあまりにも似ています。

サマリ

 まずアントニオ猪木さんと吉田松陰先生の行動や発言が似ていると思った事柄を列挙します。

  • 世間の常識には収まりきれない先覚者であった

  • イラク人質解放と海外渡航企図

  • 「馬鹿になれ」と「狂いたまえ」

  • 幼少期に農作業の経験により大地とつながっている

  • 日本代表監督が挙げた偉人が吉田松陰先生と猪木さん

  • 必殺技と偽名がマヂ卍

  • ライバルの名と幼名がトラ

 共通点は闘魂です。闘魂とは、 「己に打ち克つこと。そして闘いを通じて己の魂を磨いていくことである」との意味です。
 以下、拙い文章で詳しく語ります。

吉田松陰先生

 '1830〜59
 幕末の志士。維新回天の原動力となった、大膳大夫毛利家が治める長州藩のご出身で、多くの門下生を育てました。
 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

燃える闘魂アントニオ猪木

 若い読者の中には猪木さんのことをよく知らない方もいらっしゃるかもしれないので簡単に紹介します。
 '1943-2022
日本のプロレスラー、国会議員、詩人など活躍は多岐に及び、猪木さんをくくれるジャンルはなく、アントニオ猪木と言うしかないスーパースター。猪木さんが発信するメッセージに多くの人が元氣をもらいました。本当の世界平和の実現を訴え続けられた人でありました。
 キャッチ・フレーズは「燃える闘魂」。

 アントニオ猪木さんの代名詞と言えば「燃える闘魂」です。山岡荘八先生の著作に『吉田松陰』という小説があります。この小説の中に「燃える闘魂」を連想させる文章がいくつか登場します。
 紹介します。

「もっと大きな声で!梅太郎も虎之助も男であろうが。男はな、どんな時にも元気をなくしてはならないのだ」

こうした自信家なればこそ、その勉強ぶりも又群を抜いてゆくのだが、とにかく吉田大次郎が、不思議な「火の玉!」を抱いて生れて来ていることだけはまぎれもない事実であった。

「――僕はこの通り元気なのだぞ」

そうした二十一回猛士の闘魂が燃えてあったのに違いない。
はげしい抱負と闘魂を秘めて、教育に立向おうとする松陰なのだ。

「重之助、一首出来たぞ。元気を出せ!」
「さあ、出かけよう。元気を出さぬか、重之助」
「それを味なことと申したのだ。刀を与えておくと、二人は必ず切腹する。それを見越して取上げられた……これは死んだ気で生きよという大きな愛情だ。さ、元気を出せ。よいか、おれたちは死んだのだぞ。死んだ人間に恐怖はあるまい」
「――はい。十月二十七日の昼過ぎでした。末の子が患うていましたので、その看病に疲れてウトウトしているとき、寅次郎は、九州から戻ったおりよりも、ずっと元気で私のところへ戻って来ました。約束を果そうと、私に顔を見せに来たのに違いありません。人一倍孝心の深い子でしたから」

『吉田松陰』(山岡荘八)

 コラムを書くにあたり、改めて調べてみると「闘魂」はたったの二回しか登場していませんでした。もっと出会ったような気がしていたので、ちょっと意外な気がしました。私の主観に過ぎないと言われればその通りなのですが、小説を読んでいる間は吉田松陰先生とアントニオ猪木さんが重なってみえました。興奮して間をおかずに続けて二度読みしました。こういうことは珍しいです。ただコラムを書きはじめるまでに二ヶ月が経ってしまいました。その時の興奮そのままにすぐさまコラムを書き始めればよかったとちょっぴり後悔していることを公開しておきます。
 間が空いたことで冷静に書けるという利点もあるはずだと、前向きに捉え直してみることにします。現在と過去は自分の心持ち次第で書き換えることは自由にできます。そして積極性の発露、つまり元氣こそが明るい未来を呼び込む秘訣なのです。踏み出せばその一足が道となるわけです。

 ところで、「燃える闘魂」の由来をご存知でしょうか。猪木さんは、1988年4月4日東京ドーム大会でドン・フライ選手を4分9秒グランドコブラでくだして引退試合を勝利で飾ったあとのセレモニーで次のように述べられています。

わたくしは色紙にいつの日か「闘魂」という文字を書くようになりました。それを称してある人が燃える闘魂と名付けてくれました。
闘魂とは己に打ち克つこと。そして闘いを通じて己の魂を磨いていくことだとおもいます。

アントニオ猪木 引退セレモニー

 色紙に「闘魂」を書くようになったいきさつについては『アントニオ猪木自伝』の中で次のように述べられています。

力道山先生(註: 引用者が「先生」を追加)は死ぬ前、色紙によく「闘魂」という文字を書いた。私はいつも墨をすって、色紙の上を走る筆先を見ていた。その言葉が特に印象に残っていたので、いつの日か私は色紙に「闘魂」と書くようになった。私のキャッチ・フレーズになっている"燃える闘魂"のルーツは力道山先生なのだ。

『アントニオ猪木自伝』(アントニオ猪木)

 燃える闘魂と名付けてくれたのは誰かというと、舟橋慶一アナウンサーだと言われています。

『燃える闘魂』という猪木さんのキャッチフレーズも、もともと舟橋さんによるものです

 余談ですが、おもしろいことに長州力というリングネームの名づけ親も舟橋慶一アナウンサーなのです。そう、みなさまご存知の通り吉田松陰先生は長州藩士。維新、つまり革命の原動力となった薩長連合の一方の雄、長州藩です。山口県出身でアマレス経験のある本名吉田光雄選手が革命戦士・長州力となったのです。
 もしかしたら舟橋慶一アナウンサーが歴史好きで山岡荘八先生の『吉田松陰』を読んでヒントにしたのではないかと想像の翼を広げてみました。長州力のリングネームの名づけ親と聞けば信憑性もありそうです。この想像に私は興奮を覚えました。しかしながら、どうも年代が合わないし、ご本人は「大学の応援歌」に登場する「燃ゆる」に根があると発言されています。

プロレスファンを魅了した数々の異名。「燃える闘魂」の名づけ親が語る誕生秘話

 私はさきほど年代が合わないと書きました。山岡荘八先生の『吉田松陰』は1976年の発刊なのです。一方、新日本プロレスの旗揚げ戦が1972年1月13日です。私が確認できる範囲で調べた限り、1974年10月10日の対大木金太郎戦では実況アナウンサーが猪木さんの選手紹介の場面ではっきりと「燃える闘魂」と発言しています。(NJPWWORLDの有料会員になると視聴できます。)その前から頻繁に使われていたような雰囲気さえ感じます。
 もう一度、山岡荘八先生の『吉田松陰』が発刊された1976年に注目を戻してみると、2月に異種格闘技戦でウィレム・ルスカ戦、6月にはモハメド・アリ戦が行われています。もうだいぶ、「燃える闘魂」=アントニオ猪木のマッチが世間に浸透していたころだと考えられます。
 私のもともとの仮説は、舟橋慶一アナウンサーが歴史好きで、山岡荘八先生の『吉田松陰』を読んだことから「燃える闘魂」が生まれたのではないかというものでありました。この仮説は時間の流れが合いません。

 ちょっと待てよ、と。山岡荘八先生がプロレスを好きで、猪木さんを観ていたとしたらどうでしょうか。猪木さんの闘う姿に吉田松陰先生を重ね、吉田松陰先生のことを書く途次で猪木さんの闘う魂を見出し、自然と小説の中に「闘魂」と書かせてしまったのではないでしょうか。必然だったのではないでしょうか。
 私の推測が当たっているのかどうかはわかりません。私にはアントニオ猪木さんの行動や発言は、吉田松陰先生のそれとあまりにも似ているように思えたのです。

 以下、似ていると思った事柄をあげていきます。

世間の常識には収まりきれない先覚者であった

 海外に行くことが当たり前にできるようになった私達には想像することすら難しいのですが、当時は国法で鎖国と決められており、犯すと死罪が待っている海外渡航の企図を吉田松陰先生は断行しました。自分の目で海外を観てみたい。そしてそれは偵察でもあり、当時野蛮であった西洋列強の侵略を食い止め、真の文明とは何たるかを教える教育をも含んだ挑戦であったのです。
 猪木さんは、「本当のことなのかそうでないのか、自分の目で見て、耳で聞いて、正しい判断を下せ」(『最後の闘魂』)と述べられています。吉田松陰先生の考えと共通するところがあります。

絶対に実現不可能といわれたモハメド・アリ戦をはじめ、1990年にイラク国内の在留邦人たちの解放に奔走したこと、1995年に北朝鮮で「平和の祭典」を開催し、2日間で38万人を動員したことなど、わたしはことあるごとに「非常識」と言われてきた。しかしわたしは、自分のことをとても常識的な人間だと思っている。

『最後の闘魂』(アントニオ猪木)

 常識とは一体、何でしょうか。話をしている時点における大多数の意見に過ぎないのではないでしょうか。吉田松陰先生の海外渡航の企図は当時としては死罪、言うまでもなく非常識の極みです。現在ではどうでしょうか、当たり前のことに変わっています。
 時代が変わって大多数の価値観、意見が変わったに過ぎないのです。
 アントニオ猪木さん、吉田松陰先生ともに一歩を踏み出す実践が伴ったお二人でした。お二方とも迷わず行かれる方でした。お二人とも世間の常識には収まりきれない先覚者でありました。

イラク人質解放と海外渡航企図

 さきほどの節にでてきたことと一部重複します。今度はアントニオ猪木さんに注目してみます。
 1990年湾岸戦争前夜にイラクに乗り込み、人質解放に奔走されます。そのときの心境を『アントニオ猪木自伝』から引いてみます。

イラク国民もまた、人質のようなものだった。こっちの要求を押しつけるだけでは、何も解決できない。
日本に戻った私を待っていたのは、マスコミの厳しい批判だった。売名行為だとか、政府の足を引っ張る行為だとか、さんざん叩かれた。マスコミも含めて日本人は狂っているのではないかと思った。売名したければ、世論に乗っかって、イラクを攻撃せよと言えばいい。イラクを理解しようという私の行動の、一体どこが売名行為なのか。何故、現地に行った私だけが批判されて、日本で議論ばかりしている議員たちは批判されないのか。
イラクが正しいと言っているのではない。しかしアメリカがかざす正義の旗に、尻尾を振って付いて行けばいいというのでは、日本はナメられるだけではないか。自分で調べ、考えて行動することのどこが悪いというのか。

『アントニオ猪木自伝』(アントニオ猪木)

 猪木さんも吉田松陰先生も自分の目で観ること、相手と話すことが大事だと言っています。進撃の巨人がお好きな方ならおわかりだとおもいますが、アルミン・アルレルトです。
 猪木さんの外国との交渉は「闘魂外交」と呼ばれます。
 いまこそ相互の理解を深める、言うべきことは言う本当の「闘魂外交」が必要なのです。

「馬鹿になれ」と「狂いたまえ」

 猪木さんは「馬鹿になれ」という詩を書かれました。
 吉田松陰先生は「狂」の一字を大事にされました。
 どちらも共通するのは、一生懸命、一心不乱にただ一事にあたりなさいということだとおもいます。
 ゴール(でっかい夢)を定めるということです。ゴールに向かって、一心不乱に迷わず進めば、クヨクヨ立ち止まることはありません。学校や仕事でいまは嫌だなと思っていることでも、ゴール(でっかい夢)を先にみすえていれば「どうってことねえよ」です。楽しむ余裕すらでてきます。
 元氣があればなんでもできる!!! です。吉田松陰先生が勉強された『孟子』には、「志は氣の帥なり」という言葉があります。志とは、ゴール(でっかい夢)のことです。ゴール(でっかい夢)があると、元氣がでて、なんでもできる!!! というわけです。

幼少期に農作業の経験により大地とつながっている

 猪木さんは中学卒業を待たずしてブラジルへ渡り、「過酷な奴隷労働であった」と『アントニオ猪木自伝』の中で本人が述懐しているようにコーヒー豆の収穫をされていました。
 吉田松陰先生は、幼いころ(おおよそ4歳)から父の畑仕事を手伝っていました。野良を教場に『論語』の素読をはじめていたそうです。
 私には農作業の経験がなく語るのは難しいので想像でしかないのですが、多感な時期に大地とつながる経験を通じて、生命とは何であるのか、どう生きるべきなのか、どう生命を活かしきるべきなのかをお二人とも自然から、土の中から学ばれていたのだとおもいます。
「何も音がしなくなると、風の音だけが聞こえてくることがありますね......」猪木さんのおっしゃった言葉です。『アリと猪木のものがたり(村松友視)』の中で紹介されていました。以下、引用します。

ゆとりのあるコーヒーを愉しみ味わっているのは世界中のゆとりのある生活をしている 人々であり、コーヒー豆の生産者たちは、赤道をはさんだ生活者である人々だ。 それゆえに、コーヒーをおいしく淹れて飲む工夫をするのが、貧しい生産者への感謝の証でも あり礼でもあるというのが、私が作家生活をこなし始めた頃に偶然に知り合った、コーヒー豆を販売する店の店主のこだわりだった。コーヒー豆はその運搬の途次でとうしてもかすかな塵や汚れが附着してしまう。だから熱湯で一度豆を洗うのです......と、店主は烏龍茶を飲むときに茶葉を最初に湯で洗い流すやり方で、コーヒー豆を布で濾すさいに、まず熱湯で一度コーヒー豆を洗いしたあと、おもむろに湯をカップに注いでくれ た。こうやればえぐみのないコーヒーが味わえるでしょう••••••という言葉通り、 そのコー ヒーにはたしかにすっきりとした味わいがあった。

コーヒーも飲めない極貧の人たちが生産するコーヒーを、ゆたかで余裕のある人たちが 味わっている……という店主の視点と、その生産者たちへの礼儀であるかのような味わい方に、私はうなずかされるものを感じた。

で、しばらくしてイノキにその話を伝えると、表情が何となく曇ったように見えた。 相手の言葉がストンと腑に落ちぬときにあらわす、独特の困ったような申し訳なさそうな表情であり、私はこの表情に何度か出くわしている。

「そのやさしさ、分かるんですがねぇ…………」

イノキは、しばらくの沈黙のあとそう言ってから、

「俺たちがブラジルのコーヒー園で働いてた頃は、コーヒーなんて一度も飲んだことがないんですよね。仕事の終りぎわに落ちている豆を拾って帰って、フライパンで煎ってそこ 熱湯をたらして……味も何もないんですが、ああ、これがコーヒーなのかなあと。そんな体験がありましたからねえ、コーヒーからえぐさがなくなるのは、俺にとって寂しいっていうか......」

私の持ち出した"ちょっといい話〟に水をさして恐縮というニュアンスを浮かべながらのイノキの言葉だった。

コーヒーからえぐさがなくなるのは寂しい・・・・・・は、泣かせるセリフだった。その上に、 かつてブラジルで聴いた 「何も音がしなくなると、風の音だけが聞こえてくることがあり ますね……」という謎めいた言葉をかさねると、その上にイノキの体の芯にある”達観 " の強さとアキレス腱とも言える繊細さの危ういバランスが描かれるような気がしたもの だった。

『アリと猪木のものがたり』(村松友視)

日本代表監督が挙げた偉人が吉田松陰先生と猪木さん

 野球の栗山監督は吉田松陰先生のお名前を挙げ、サッカーの森保監督は猪木さんのお名前を挙げています。

栗山監督 “吉田松陰の魂”を胸に世界一奪還必ず 侍ジャパン全30人出そろった

【日本代表】出る前に負けること考えるバカがいるかよ!森保監督が猪木魂継承「自信をもらった」

 両監督ともに大切にされたキーワードは「」です。ここまで来ると単なる偶然だとは思えません。話が出来すぎています。ちなみに私は両監督に何の面識もありません。日本代表監督がお名前を口にされていることにただならぬサムシングを感じます。

 ちなみに野球が世界一に輝き、サッカーがまだなのはどこに差があるのでしょうか。
 私はこう思います。日本人が血肉と化しているかどうかの差ではないかと。バリバリのメジャーリーガーとして1987年にヤクルトで活躍したホーナー選手は言いました。「地球の裏側にもう一つのベースボールがあった」 ーー Baseballを受け入れた日本人は「野球」へと昇華させたのであります。あたかも日本古来から行われてきた伝統競技のように「野球」を発展させました。受け入れて発展させ、我が血肉とするのが得意な民族なのです。Soccerもカタカナの「サッカー」や「蹴球」、「蹴鞠」と呼ばれるようになったときにはじめて世界一の栄冠を勝ち取れることでしょう。

必殺技と偽名がマヂ卍

 猪木さんの必殺技と言えば、オクトパスホールド、卍固めです。吉田松陰先生は当時国禁、犯せば死罪であった海外渡航を断行します。失敗したときの用心のため旅籠に泊まる際には変名を使っていました。そのときに使った変名は「瓜中万二(くわのうちまんじ)」です。吉田家の家紋が卍であることに由来しています。
 山岡荘八先生の『吉田松陰』の中で「闘魂」の文字と卍で、猪木さんと吉田松陰先生に共通点があることを確信しました。
 マヂ卍です。

ライバルの名と幼名がトラ

 猪木さんの最大のライバルと言えば、いろいろとご意見はあるでしょうが、タイガー・ジェット・シンだとおもいます。吉田松陰先生の幼名は、寅次郎なのです。
 「1990年9月30日 アントニオ猪木&タイガー・ジェット・シン VS ビッグバン・ベイダー&アニマル浜口」は二人がタッグを組んで、試合後感動的なマイクパフォーマンスがあります。二人はいつまでもタッグを組みたいと発信します。そして世界の平和を祈ります。

さいごに

 アントニオ猪木さんと吉田松陰先生の共通点を述べました。共通点の中にはこじつけもあったことを認めます。
 TVのプロレス中継を山岡荘八先生が見て、著作『吉田松陰』に「闘魂」を登場させたのではないかという気がしてなりません。この推測は当たっていようが当たっていまいがどうでもよいことです。
 世界が混迷の度を増す中、「闘魂」の連鎖こそが世界平和の鍵だとおもっています。戦うことではありません。ましてや他人を傷つけることではありません。相手は己自身です。己に打ち克ち、利他を心がけましょう。

さいごにわたしからみなさんに、みなさまに、メッセージをおくりたいとおもいます。

人は歩みを止めたときに、そして挑戦を諦めたときに年老いていくのだとおもいます。

この道を行けば
どうなるものか
危ぶむなかれ
危ぶめば道はなし
踏み出せば
その一足が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ
行けばわかるさ

ありがとうーーーーッ!!!

アントニオ猪木

 闘魂の意味は、 「己に打ち克つこと。そして闘いを通じて己の魂を磨いていくことである」 との猪木さんの言葉をそのまま胸に刻み込んでいます。知っているだけで終わらせることなく、実行する、断行する、一歩を踏み出すことを自らの行動で示していきたいとおもいます。
 アントニオ猪木さんのメッセージから元氣をもらったものとして、それを次代に語り継ぎ、自分自身が「闘魂」を体現するものでありたいとおもいます。

 世界が平和でありますように、アレをご唱和ください。
 1、2、3 ダーッ!!
(1990年9月30日 アントニオ猪木&タイガー・ジェット・シン VS ビッグバン・ベイダー&アニマル浜口)


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