【7】二次創作から一次創作を学ぶ「創作文教育」
学校の作文教育とは、ある時は説明文とか感想文、またある時は小論文だの創作文を扱うはずなのだが、しかしてその実体は、読書感想文の無双状態。小論文が辛うじて食い下がってはいるが、説明文はフルボッコにされ、創作文に至っては時空の彼方に消えかかっている。
その甲斐あってか、人々はネットで好き勝手に創作しまくって、もはや作文教育の創作文には興味ナッシングだが、私は敢えて時空の彼方から創作文を救い出し、作文教育に創作文を組み込みたい。
しかも単なる創作文教育ではなく、二次創作文の実践によって一次創作を理解していく新機軸なのだ。
創作文教育の目的
私は創作文教育の目的を、
教育者の指導後に被教育者が「 自由意思で創作文に取り組む 」機会の提供、
だと考えている。あくまで創作文を始める自由を確保したいのである。
ひらがなカタカナ漢字を覚え文法と紐付け、行事や読書の感想文を書き、詩歌の鑑賞や試作がなされ、読解問題に説明文や小論文が付随するのだが、創作文については散発的に「物語の結末部分に加筆してみよう」と出てくる。それらの知識や試作がネットで自由に公開され、一次創作と二次創作の線引きで議論がなされるのだから、このまま創作文だけ野放しなのはおかしな話だ。
そんなことしたら誰も読書感想文なんて書かなくなって、教育の場が「創作活動のお池にはまってさあ大変」かと思いきや、ところがどっこい。
実は真逆で、教育の段階では二次創作が何かを学び、二次創作文の練習をするだけだ。一次創作したければプライベートでいくらでもすればいい。発表の場はネットにいくらでもあるし、何らかの募集に応募だってできる。
どうしても教育に一次創作を取り入れたいなら、自由研究や文化祭を利用したらいい。もちろん超メジャーコンクールが思い浮かぶだろうが、長文でべらぼうな量の創作文の下読みが必要な創作文コンクールは、ぶっちゃけミッション・インポッシブルだったりする。
創作文教育の内容
学ぶべきは一次創作文と二次創作を分かつオリジナリティの実際であり、
創作文に潜む二次創作性や二次創作文に潜む創作性、
日本の同人誌や海外のファンアートやファンダムの文化論、
パクリ(盗作)やパロディ(文体模写)やパスティーシュ(作風模倣)の線引き、
敬意を込めた引用やモチーフを共有するオマージュやリスペクトやトリビュートの在り方、
をひとつひとつ把握していき、二次創作文の改変練習として、
ですます体やだ、である体など文体の書き換え
登場人物の性別を入れ替える
一人称、二人称、三人称の変更
主人公と脇役の視点を変更
物語の続きを加筆
結末や真相を変更
外伝や番外編を追加
を単純な改変から複雑な改変に始まり、短文から長文へ段階的に取り組み、簡単な問題から難しい問題へと学習を積み重ねていく。当然、初等教育・中等教育・高等教育の国語教育で一貫して二次創作文教育を扱い、一年一年、着実に理解を深めていかねばならない。
さて、どうでしょう?
追伸:創作文教育の裏旋律
ようするに、なぜ君は他人の創作文を無断転載したり誹謗中傷するのかね、といくら問い質したって埒が明かない。ではどうすればいいのかって、それはつまり創作文への理解や創作文の実体験が圧倒的に不足している。だったら学校教育の中でしこたま経験してもらえばいい。
ちなみに作文教育の目的は、我々が社会生活に必要な、
公文書(公人との手続き書類)や私文書(報告書や契約書)の作成や提出、私信の伝達や詩歌・随筆・創作の発表、
を自由に行う練習だ。それぞれを同程度、一貫して学ぶ必要がある。
文章の表現と鑑賞が、我々の生き方にどう関わっているかの文化的な側面、技法や実践の成り立ちを探る芸術的な側面、思想信条や趣味嗜好の主張や影響を見極める文芸的な側面によって彩られる、文章の歴史についても、やはり一貫した指導が望ましい。
でもって、国語教育とは、江戸時代まで各藩をそれぞれのお国としていた我々が、明治以降の近代化(政治に民主制を、経済に資本制を導入する施策)に際し、
それぞれのお国ことばを仲立ちする標準語を国語化するべく表記や話法を統一化し、各地域の間でコミュニケーションを成立させ、共同作業に必要な号令や合図を一般化することで、
全国レベルの集団行動を実現させていくプロセスであった。
本当に目指すべき作文教育は、
一人一人が説明文・感想文・小論文・創作文の練習を積み上げ、それぞれの生き方によって学術論文・業務報告・文芸活動に活かしていくこと
に他ならない。
壁l・ω・) 壁l)≡サッ!!