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読書日記 2023/10/29

 昨晩は2019年文藝冬号を読み返していた。その中の何かを読まねばと思って引っ張り出したのだけど読んでるうちに忘れてしまった。

 今読んだら、大前粟生「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」と遠野遥「改良」が同じ号に載ってるのはなかなか凄いことだなあと思ったり。
 全然世界観も文体も違う作品ではあるけど、どちらも男性ジェンダーとされる作家からこれが出た、ということに当時凄い希望を感じたし、読み返したら薄まるどころか更に強く感じた。

 今読めてよかったな、と思ったのは大友良英「2011年からの『踏み絵』」。
2019年はあいちトリエンナーレの表現の不自由展への脅迫事件があり、そのことへ大友良英氏が当時ツイートした内容が羅列されて始まり、あいトリのことから、ヤノベケンジ氏の「サンチャイルド像」撤去の話、アートが公共空間に現れることで引き起こす対立の話から、大友氏が関わってきた福島のイベントが振り返られ「踏み絵を踏ますようなことはすまい、と思っていたのに誰あろう自分がそれをしてしまった」という苦い苦い吐露。そこからまた踏み絵を踏ませないための「まつり(盆踊り)」へとシフトしていくこと、というエッセイ。
 Twitterの二項対立を作りやすい設計とその土俵に乗りたがる人の多さ、安易に敵味方を分けるための踏み絵を踏ませることに対して、逡巡し続ける氏の姿勢と逡巡しながらよりベターを求めて歩むことをやめない氏の活動に、今必要なのこれだよな〜と思いながら読んだ。
 イーロン・マスクは徹底的にTwitterを改悪してXにしたけど、そうなる前からすでに土壌は育っていたのだよな〜と思い出す。そして、あんなに騒がれたあいトリの脅迫事件も、サンチャイルドの撤去も、匿名の騒いで騒いで踏み絵を迫った人たちや敵認定した人たちに石を投げまくっていた人たちは何の責任も取ること無く、何事も無かったかのようにまた違う誰かや何かに更に石を投げやすくなったXで石を投げ続けている。
対して実名を上げて石を投げられた人や、踏み絵を迫られた人、その踏み絵自体を結果的に作ってしまった人たちはさんざん傷ついたり、そこから様々なことを考えざるを得なかったり、生活に影響が出たり、と全く非対称である。

 話は飛ぶけど、私はあれまであんまり津田氏に興味を持ったことがなかったのだけど(ゼロ年代論壇自体を信用していなかったこともあり)、あいトリで東浩紀氏と決定的に決裂したことで興味を持ったと言うか、この人信頼できるかもと思ったのだった。
 津田氏は責任を持って「引き受ける」ことを決意し、ぼろくそに言われほうぼうから石を投げられながらも戦った。東氏は距離をつけて相対化しようとし「引き受けない」スタンスを見せた(そもそもゼロ年代論壇自体が私の中ではそういうことばかりしている人たちというイメージで信用できなかった)。そういう東氏を利口と評する人はいるだろうし、引き受けないことで外から好き勝手に論じることも出来る。
 でも、もうそういう利口さは何も産まないし、何も解決しないよなということに気が付いてしまったよね、という感じ。
景気が良ければ、命の危険がない社会ならば、そういう利口さを面白がれる場もニーズがあるかも(あったかも)しれないけど、残念ながら実はもう相当前からそんな社会ではない。
 2019年と2020年の間には後の歴史では書かれるかも知れないくらい大きな隔たりがある。2019年まではピンとこない人もたくさんいた「差別は人を殺す」ということばが実感を持って迫ってくるようになった2020年以降、相対化や利口さで乗り切ろうろするのはバカと同義だと思う。というか無責任。 
 この島国は2020年以降のコロナ禍対策に完全に失敗したし、それは2012年以降の自公政権の失政の上にある。そしてコロナ禍はそれまで差別に無縁でいられた人にも踏み絵を強いた。そのなかから自分で考えることや選択することから逃げ出したい大人が沢山現れて陰謀論が支持されたり、自分の下を作ることで安易な安寧を図ろうとしたり、が世界中で起こった挙げ句にQアノンの米議会乱入事件があって、ミャンマーのクーデターがあって、ロシアのウクライナ侵攻があって、今回のハマスへの反撃という名のイスラエル政府・軍によるパレスチナ人のジェノサイドがある(これらはそれぞれ歴史的文脈もあるが今までは良くも悪くも期間限定的な紛争で終わっていたものが引き返せないところまで言ったのは2020年以降の世界だから、というのはあると思う)。

 日本の報道なんてこういう状況にくその役にも立たないから海外のニュースサイトを見ることばかりになる。ストレートニュースとスローニュースばかりである。無力感に打ちのめされる。それでも出来ることを考える。無力感に打ちのめされる。そのループである。
特に今回のイスラエルの過剰反撃が始まってから更にそうである。無力感に加え自分の無知を思い知らされることも続く。

 そんな時に、冒頭の大友良英氏のエッセイを読んで、ずっと逡巡している大友氏に勇気づけられたのであった。
我々、中年以上の大人に今問われているのは「引き受けること」だと思う。あの時の津田大介氏のように、この大友良英氏のように。
今読めて良かったと改めて思ったのでした。以上。

※この2019年文藝冬号は他にも磯部涼「移民とラップ」の連載川崎回や、書評で山下壮起「ヒップホップレザレクション」が取り上げられていること、ラップ特集の当時彗星のように現れた(ように感じた)Moment Joon氏やなみちえ氏、高島鈴氏の寄稿、1冊の中にリンクしあうものがひしめきあっているので当時読んだ方も未読の方にもおすすめしたい。

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