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クハラさんの訃報をうけて、命について思い出すこと。(自分語り)(どまつり)

2019年11月24日、クハラさんが亡くなった。こんなにつらい気持ちになるなんて自分でも予想してなかった。自シを選ぶ人の気持ちを想像すると、あまりにつらい。

久しぶりに

2013年、自分が中心となってどまつり作品をつくる機会をもらったときのことを思い出した。

❶〜❶❶




❶そのころ高校からずっと大尊敬してる友人が、何度か生きるのをやめようとしてるのを耳にしていた。

自分がそれについて何かをどまつりで表現しようとも、ましてや、それにチームメイトを巻き込もうとも思わなかった。が、なんやかんや、いろいろ遠回りして、結局、「」「生きる」「生きている」「人間らしさ」「生命らしさ」と向き合うところに行き着いた。

思えば小学5年のころ、自シについての自分の考えを書いたメモ書きを、クラスメイトにみられてヤバいやつ認定されたことをはっきり覚えている。私にとって小さいころから、生/シってのが「どうでもよくない」なにかだった。

❷「生きている」ってのが、これまたクセモノで。なかなかに難しかった。いや、正直、当時の僕にはvery hardだった。

(以下、永遠と、「生きている」をYOSAKOI作品に落とし込むのが難しかった、という話が続きます🌞)

何が難しいって、「キモチ」(「キモチ」はYOSAKOIと相性がいい)を見つけたいのだけど、どんな「きもち」を思っていようが生きてるは生きてるわけだから、「生きている」と「きもち」は関係ないのかなって。

❸でも、自シを選ぶ人は、なんらかのきもちを経て、「生きていない」状態になる(はず)。「生きている」と「きもち」はやっぱり関連はあるんじゃないか。あきらめるのはまだ早い。

何人かの、ギリッギリから抜けた経験がある人と話すなかで、「生きるキモチ」0%付近の人のきもちがなんとなくわかってきた。人はどん底にぶちあたると、「わたしって最初っからこんなもんだったよねって思うか、こんなもんじゃない!って思うか」の2択を迫られる

❹そのヒアリング結果から、「(私の〇〇、)こんなもんじゃない!」を踊りにこめようとした。〇〇に入るのは、可能性とか命とかになるんだろうけど、バシッとこれだ!というコトバがみつからなかった。今考えたら「命」でよかったんだけど、そのころは「命ってナニ?」という問いへの答えをもっていなかったから、ためらった。

「可能性/ポテンシャル」だと、実体/実感/肉感/肉迫があまり感じられなくて、40点ぐらいだと思った。

〇〇については、そのときの脳みそでは、それ以上理解を深められなかった。

❺じゃあ「生きる/生きている」の方から、アプローチしてみるか。「生きている」は、「生きていない」を想定している人にとってのコトバ。だから、シと隣り合わせじゃない大多数の人にとって「生きている」って、なにでもない。はあ〜very hard。

イキイキ生きているか」って考えたらアリか?→大多数の人にも「このままじゃまだ足りない」って気持ちを掻き立てるから、ナシじゃない。いい線いってる。いい線いってるけど、軽いなあ。「イキイキ生きないと!」って思わせるナニカが、この言葉自体に入ってない。

(「イキイキ生きないと!って思わせるナニカってなんだ?」って課題は仮に今スルーしても、いつかはぶちあたる問い。)

❻もうどまつりも終えてからのこと。「生きる」というのと「命を生きる」というのでは、全然印象がちがうとおもった。「命を」をつけると、急に意味を帯びる気がした。すぐに、命ってなんだ?って問いにぶつかるにきまってるんだけど、「命を生きる」という語感には、(YOSAKOIと相性のいい)「キモチ」の香りがプンプンした。

❼「〝を〟生きる」というコピーライティングは、世間では「今を生きる」というのが一番目にする気がする。

このように「命を生きる」「今を生きる」という言い方をしたときは、それまで実体のなかった「生きる」が、「①を最大限活かす、②を最大限味わう、③と向き合いながら上手くいかないながらも一つずつ」のような意味にみえてくる。

❽「命を生きる」の「を生きる」は、「最大限活かす」にも「最大限味わう」にもとれる。どちらの意味も含んでいそうだ。

そうすると、「〇〇を生きる」の〇〇の部分は、特別なもの/宝物/有難いもの/あたりまえじゃないもの、のようにとれる。

「命」ってのは、母親から産み落とされた時点で、存在を許された時点で、最大限活かし/味わっていいんだよ、という願い/肯定/魔法がかかってるのかもしれない。

❾注意しないといけないのは、YOSAKOIで【スピリチュアル】をやっちゃいけない。うさんくさい。【パッショナブル】をやらないと

【(このもらった命)、目一杯でっかく生きたい。】ってのでどうかな。

誰がなんと言おうと、命ってのは(この世に存在を許された時点で)、大きな力(可能性)をもってる。(と俺は信じてる/信じたい/願ってる)

今の実力を信じたら人間は努力をやめるからだめだけど、今の実力は疑いながら可能性はとことん信じる。だから努力する。

そういうことなんじゃないかな。


➓結局、どまつりではあまりにも考えが未熟すぎて、突き抜けるものにできなかった。俺自身の踊りなんて人前にでていいレベルではなかったし、チームメイトが尊重してほしいだろうものも、たくさんないがしろにした。


「命」について。「生きる」について。どんな演出をしたら、どんなコミニケーションをしたら、100人中100人が感動して、救われるべき人が救われる演舞になるのか。

それに決着をつけることでしか、それはウソだと思った。

ナイツ塙が、「m1に出場できなくなってからも、m1でどうしたらウケるかを考え続けてる。それは、僕にとって生きることに等しい」と語っていたのに近い。

そのおかげで、どまつり(YOSAKOI)における「感動」を意地でも言語化しきる気になったし(少なくとも所属してたチームにおいて、過去10年〜15年くらいの中で、こんなことしてる人いないと思う。)、そのおかげで、演出/コンセプト/チームにおけるコミニケーションについて相談にのれるまでになった。

副産物として「自シを考えてる人をこれで救えるか?」を考えるために、自分が自シを考える人の気持ちになろうとして、そこからしばらく帰ってこれなくなったこともあったけど

そういう気持ちとのケリの付け方も身につけてきた。


❶❶ 2019年は、「命」って表現について、改めて考える年だった。それは次のnoteで書くとして。

クハラさんの訃報を聞いて、ひどくつらいきもちになった。自シなんかこの世からまじでなくなれよって思った。

と同時に、悲しいきもちになれた自分に少し安心もした。そこの針がふれるってことは、生きてる意味を見失わずに済むなって。別に、そこの針がふれなくなっても、別の針がふれるのを探す心準備もできてるし、もし仮に、なにも針がふれなくなることがあったとしても、『虹の岬の喫茶店』からどうするか学んだから、あわてない。あわてないのだ。

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さいごに。クハラさんが選んだ、そちらのせかいが、かろやかでありますように。

僕の友人方は、にもつをかかえてるものどうし、これまでどおり一緒にヒーヒーいっていこうね。

次回のnoteは、世界に一つだけの花、フラワー(ポルノグラフィティ)、復興の花(竹原ピストル)、何者(朝井リョウ)、等にまつわる記事です。









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