Living,Loving,Learning #011
自然が自らの秘密を、だれかに打ち明けはじめる。その人は、自然を最も適切に注釈する芸術への抗しがたい憧れを感じる。
ー散文の箴言 ゲーテ ー
これはわたしだけの感覚なのかどうかよくわからないけど、あんまりととのっていない、味があるなにか、というのがとても好きだ。作り込みや完成度というものが異様に高いものには、白けてしまう。
といいつつ、たどたどしい方が素敵、みたいな小賢しさがちらつくものも、あんまり好きではない(勝手なものです..)
テクノロジーが急速に発展したことで、完成度やつくりこみ、という領域に関しては、あっというまに誰もがお手軽に叶えてしまえるようになったからこそ、その薄っぺらさが気になってしょうがない。
安直な完成度の高さや、手ごたえというものをゴールにしてしまうと、内的に熟成していく深い喜びが、どうしても削がれてしまう。
以前、織り機から自分でつくって織物をやってみよう、というワークショップを、小さな男の子と一緒にやったことがある。わたしの教え方が上手でなかったせいもあり、彼は織物がそれらしくできる前に「むずかしい!つまんない!」と怒って、放り投げてしまった。
こういう場面に立ち会ったとき、アンスクーラー的な意味で、適切なかかわり方というものに「模範解答」なんてないのが普通だと思う。
彼にとって、大人がそこで手を出して、織物を嫌々でも仕上げる方がいいのか、それともここで中断して違うことをした方がよいのか、あるいは、もっと簡単なキットのようなものでやり直して、達成感を味わった方が良いのか?
そういうことを推し量るのに一番の適任者は、なんといっても、外部の人間より、彼のストーリーを日常的に観察している親であり、だから「家庭学習」は最強である、そういう文脈をあらためて大事にしたいと思う。
昨今は、0歳児の頃から子を親からひきはなし、園で育てることがとても良いこと、のように言われがちだ。母親が育児に囚われて過ごすことは時代錯誤だ、などなど。確かにその一面はわからないでもないのだが、アンスクーラー的な視点がはいってきたとき、家庭というものは、家父長制下のドメスティックで鬱屈した空間とは全く違う、開かれてのびのびと可能性にあふれた、小さなコロニーとなりうる。
アメリカやカナダ出身の人に、息子はホームスクーラーで、と話すと、何それ?と言われることはなく「ああ、いいですね」という相槌が(いくらそれがお世辞であったとしても)必ず返ってくる。そういった学びが文化として根付いている。日本では相変わらず、学校教育という世界からの落第生、不適応者、というレッテルが根強い。10年前よりもかなり違ってきたかなあと思うけれども、ホームスクーラーがメジャーになってきたとは言い難い。
このことは、子どもの問題としてよりも、日本社会の閉塞性と大いに絡んでいると私は思う。新卒偏重主義とか、相変わらず女性の雇用だけが不平等とか、そういう話と切っても切れないのが、教育にまつわるあれこれだと思うのだ(こないだは、IKEAのCMが炎上していたけど、、)
そういうこともあって、アンスクーリングの話は、往々にして幼い子どもがいる母子だけがターゲットになりがちだが、もっと広いテーマだと思っている。
大体、子どもの行動が「問題」とされるときはたいてい、子どもが問題なのではなく、どちらかというとそう見做してしまわざるを得ない大人や、社会の側が問題なのだ。究極、大人が自分に刷り込んできた観念によって、子どもがそれにあてはまらないといって苦しんでいるだけのこと、、
だからこそ、大人のアンスクーリング、という在り方こそが、世界でいちばん大事なテーマなのじゃないか、と思っている。アンスクーラー的な世界のとらえ方ができる人が増えれば、その日々がたくさん蓄積され深まれば深まるほど、「問題」ではなく「宝」であることに気づいていける。
それは、大人であるわたしたち自身の内に、宝を見出していくことと同義だ。
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