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セルフケアのためのキッチン錬金術 1巻


はじめに

もしあなた方がこの努力をするならば、プレローマとその特質について何も知る必要はなく、あなた方自身が「ただ存在すること」によって正しいゴールに到達することができるだろう。しかし、思考は私たちを「ただ存在すること」から遠ざけるから、私は、思考を飼い慣らすための知識を教えなければならない。

The Seven Sermons to the Dead Carl Gustav Jung with attribution to Basilides, translated by Helton Godwin Baynes より 訳はアワポンによる

占星術含めたオカルトに関心がありつつ、自然のメカニズムにも地続きで関心があるという人は少ないように思う。性格占いや毎日の運勢ランキングなどを楽しんだとしても、それが野菜の生育や人間の心身にどう有機的に関連してくるか、を考えることは、どちらかというとタブーなのかもしれない。そもそもオカルトとされている理論たちは、一般人がカジュアルに用いるものではなく、一部の特殊な立場の方たちが、国家のために命をかけて算出したり、製鉄に代表される工業社会においての実用的な技術として活用されてきた。そういうこともあってか、華やかに活躍する界隈のみなさまは、どうやら有機的、ホリスティックな発想でオカルトを用いることを否定する発言をせねば、表に出られないようだ。

 当初は占星術の12サインや天体、ハウスなどについて説明をすすめていこうと章立てていたのだが、どうにもこうにも、何かと何かの「あわい」のエピソードが多すぎて頭を抱えている。そういうことなので、1巻では、占星術の管轄している力のシステムとその限界についてのエピソードを、総論に位置づけて書いていきたい。ミネラルとサインの関係を示した表は、2巻以降の各論で詳しく解説できればと思う。

 そういうことなので、ある種とても不親切な内容になっていると思うのだが、末尾の索引を活用していただいて、ふと思い当たったときに開く辞書のように活用していただくと良いかもしれない。レメディを選定する時、タロットやオラクル、日常や夢にででてくるシンボルの意味を読み解こうとする時、周辺に連なってくる生きた物語をひろいあげるツールとして役立つようにまとめている。紐解いたみなさまが、それぞれの内側で化学反応がおこり、腑に落ちるなにかが閃くきっかけになれば本望だ。

 また、本来ならば引用元文献をきちんと示さねばならないのだろうが、もはや元を忘れてしまっているモノもたくさんある。手元に手がかりがある主要なものは記載するよう心がけた。また、英語以外の表記を、近い音のアルファベットで無理矢理代替して記載している部分も多いのでご了承いただきたい。私の拙い言語表現により、誤解を生じる記載も多々あると思われる。何かあれば末尾のメールやtwitter(X)などでいつでもお知らせ下さい。可能な限りお答えします。


参照資料:星化学分析/ケルヴランの生体内元素転換理論/ GEORGE W.CAREY Relation of the Mineral Salts of the body to the signs of the zodiac


同上

病と力とらりるれろ

世界の仕組みって、どうなっているんだろう?この問いを丁寧に解いていこうとしたとき、必ず行き着くのが、人工的な世界観と、それを包含した自然法則、この2つの混線について、だ。
 世界に何も秩序法則はなく、人間が適当に設定したルールに基づいて生きている、と考える人もいるだろうが、多くの人は、とくに日本人に多いスタンスとしては、具体的な神や仏を信じなくても、なにかしら見えない法則のようなものは存在していると推測し、それに沿いたいと思うのではないだろうか。
アカデミックな世界では、科学とオカルトは混ぜるな危険とされている。しかし、科学や心理学の根っこや起源をたどれば、どうしてもオカルティックなあれこれに端を発することに気づくはずだ。

人間は、目に見えないメカニズムを理解することをあまり得意としていない。けれど、見えないからといって、存在しない訳ではない。だから、理解できない人も、そのメカニズムにあやかって安全に生きられるように、ということで、宗教や、わかりやすい占いのルールが作られたのではないかとわたしは思っている。しかし、わかりやすくするということは、常に誤解を伴う。偶像崇拝がよろしくない、と言われる理由のひとつは、ある性質をもった存在の、一部分だけをありがたがり、他の面は受け入れないという姿勢を強めるからではないか。あるいは、形骸化したかたちだけを大事にすると、中身ががらんどうになった屍になっても、腐っても鯛の感覚でありがたがる、ということも起きるだろう。この「かたちだけを異様にありがたがる」ことの極みが、力(磁気)信仰だ。偶像崇拝を否定する人々は、一神教の人だとされているが、一神教と一言でいったところで、神の定義を浅く捉えている場合、確か動物やら人のかたちの像はあがめていないかもしれないが、手っ取り早くかたち全般とその有効性をあがめている点で、実質的に何も変わりはない場合も多い。こういった一連の「宗教」が台頭した魚座の時代は終焉を迎えた。だからといって、これらの人智を超えた崇高ななにか、が無効化されたわけではない。水瓶座時代のわたしたちに必要なスタンスは、本質的な意味でのこのメカニズムを理解することではないだろうか?その想いで、わたしはこれを書いている。
 キネシスからエネルゲイアへ、という、かなり実験的で誤解を招きやすい作品を以前書いた際に、一神教といいながら、神は実は2人いるのではないか、二重人格ではないか?といった問題提起をした。この発想はおそらく東洋的な発想からすると、目新しくも何もないが、西洋の宗教観に地続きでこの発想を持ち込む、ということは、以外と盲点ではないかと思っている。端的にいうならば、社会は、現世利益に貢献する力の神(義の神と不義の神の二重人格)と、その圏外すべてを管轄する真の神、のエピソードが混線した状態なのだ。わたしたちが今しなければならないことは、力の神と真の神の峻別だ。力の神のルールに沿うことも、現世と接点をもって生きていくわたしたちにはとても重要なことだ。けれど、あまりに力の神に忖度しすぎると、彼らの権限には限界があり、お手上げ状態になる。そうなる前に、真の神の世界観も踏まえておく必要がある。この話は、イスラム教のヤアジュージュとマアジュージュ(キリスト教のゴグとマゴグ)のエピソードに詳しいので、興味がある方は調べてみることをおすすめする。

 この視点から、占星術など、占いの理論をみつめてみると、また違った見え方になってくる。一般的な占い師に求められる素養は、力の神への忖度である。力がうまく得られるタイミングや技術を読み解き伝える係であって、なぜこのようにすると力にあやかれるのか、の理論は、知らなくてもかまわない。そのルール、儀式的側面をしっかり、かたちだけなぞれば、あやかれる。黒い魔法も白い魔法も大差なく、力にあやかっていい思いをしよう、という技術ということになるわけだ。

 しかし、健康、というテーマが介入してきたとき、話はそうはいかなくなってくる。力にあやかり放題、にしていると、しわ寄せがくるのが健康なのである。力とは何か、病とは何かということを丁寧に紐解けばこのことがよくわかる。社会とは、集団で力を生み出してともにあやかる、相互依存の世界だ。力と同じことは、本来愛によってもなされるが、愛を学ぶためにわたしたちは肉体をもって生まれてきた故、愛の理論がまだわからないまま、日常を送らねばならない。愛について未熟な人々が、それなりに安全で楽しく生きられるように組まれているのが、力による社会だと考えると自然だ。力ベースの社会は、愛を知らない人に手厚いし、優しいし、甘やかしてくれる。しかし、愛を生きる人たちにとって、その手厚さや優しさは、偽善でしかない。偽善だらけの世界に相互依存して生きているとき、わたしたちは、愛に気づけ、と心身からお知らせをもらうことになる。だから、病は力の副作用なのだ。

わたしがセルフケアを重視しているのは、外からの介入によるヒーリングや治癒は、力を利用して健康を取り戻そうとするからだ。そしてその結果、必ず力の世界へ奉仕させられ、力の使いっ走りの人生になってしまう。ほんとうに癒えるとは、力の圏外に軸足を置くことなのだ。
占星術において、健康をあらわすのは6ハウスだ。ウィリアム・リリーの定義によると、このハウスは奴隷や雇用をあらわすのだが、その管轄対象はなんと、虐げられる家畜や奴隷側だけでなく、もれなく雇い主側、家畜を飼う側も含まれるということも、この話を裏付ける。家畜として飼われる側、飼う側双方は、これによって力にあやかると同時に、健康を引き換えにするということなのだ。

力とは何かという話は、りんごを解けば、で書いたので詳しくは割愛するけれど、力の世界はすべて、するかされるか、支配か被支配か、つまり、LかRか、に分け、必ずどちらかの立場に軸足を置け、と強いてくる。たとえばリリーによると、4ハウスは質問者の父をあらわす、といいつつも、4ハウスは母のハウスとのたまう。これだけだと意味不明なルールなのだが、チャートは、するかされるか、支配か被支配か、に分裂してどちらから読むか、という問題になると考えると辻褄が合う。照らす側と照らされる側、といえばわかりやすいかもしれない。そのどちらから質問してますか、という話からスタートする。たとえばテラスという音は、能動側からみると天照大神のテラス、照らす側だし、受動側からみると光がふりそそいでいる縁側のような場所もまたテラスとなり、能動と受動は、必ずセットで現世に存在する。
 この、力ベースの社会の仕組みをメタファとして示しているわかりやすい例が、干支だ。12種類の動物にあてはめて力の移り変わりを説いているが、もともとは動物ではなく、植物の成長サイクルを示していた。なぜ植物で説くのをやめたのかはおそらく、動物という、人間のエゴを部分的に体現した存在で表現した方が、人工的な力の世界に相互依存させるのに便利だからだと思う。動物は、植物と違って自らの意思で歩き回れる存在である。この点で、人間に近い。しかし、人間の魂の部分的な要素を、それぞれの動物が体現している。動物の肉を食べて力になるとはそういうことなのだ。
 肉食は力になる、精がつくなどと言われる理由はおそらく、消化の際にサボれるからではないかとわたしは思っている。レゴで例えると、誰かがつくったお城があったときに、そのお城をもらって、自分の建物をつくろうとしたとき、ひとつひとつのブロックにまで壊して、またくみ上げるのはかなり面倒だ。しかし、お城を構成している壁や、バルコニーなどを壊さずに、自分の建物にそのまま使えば楽ができるし、工期が短縮できる。高タンパク食の人がショートスリーパーなのはそういうからくりなのだ。本来、自分の体内で蛋白質や脂肪を生成することは、時間がかかる。その時間はただ無駄な時間というよりも、自身が生きているという物語を、しっかりと紡いでいる大切な時間なのでは無いか。

効率重視の高タンパクの世界の延長線上に、憑依現象がある。力信仰の世界では憑依をありがたがる。外在する力にてっとりばやくあやかろうという技術なのだが、そのうち、自分が乗っ取られてたたき出されるということが紙一重である点で、未熟な技術なのだ。しかし、即効性と実利性があるわけで、力ベースの社会では重宝される。ホメオパシーの世界でも、植物と鉱物、動物由来のレメディが存在しているが、動物系のレメディはほとんど憑依対策であり、悪魔祓い的な技術である。その根本対策は動物にあやからないということに行き着くため、そう発想してしまうとおそらく商売あがったりだろう。社会は、あやかりたいけど副作用も嫌というわがままに、表面的であっても応えていくことで果実のわけまえがもらえるようになっている。
 そういうことなので、世界を植物と鉱物ベースで読み解くことは、手っ取り早くもないし即効性もないので、多くの人はここで「なーんだ、つまらない」とどこかへ行ってしまうだろう。そういう要素を求めている人は、これ以上読み進めない方が良いと思う。

 病と力、という観点から、ホメオパシーのレメディについて考えてみたい。
 レメディ像というのは、健康な人にそのレメディを投与したとき、いったい何が起こるか、というところから探求された、現場での蓄積ベースでつかみ取られてきている。その実例をもとに、それを裏返すように、その症状が出ている人に投与すると、健康を取り戻す、という運用がなされているわけだ。いわゆる、物質による作用としての治癒(薬効成分が入ったチンクチャーやら、ハーブティーやら、漢方など)による働きかけと、レメディによる働きかけは、基本的に対応する症状が逆になるのが常である。場合によっては、通底している場合もあるけれど、それは結構稀だ。なので、その人が、ある元型イメージに関し、欠乏していることで悩まされているのか、それとも、それが今、ほとんど取り憑かれているかのように過剰になっていることで悩まされているのか、ということの見極めが必要になってくる。
 ホメオパシーの理論を築いたとされるハーネマンは、たまたま馬車で運んだレメディの効果が高まっていたことから閃き、積極的に、このたたきつけて反復継続させる、ということを取り入れるようになったと言われている。

ホメオパシー初心者向けの説明において、レメディは神聖な聖書にたたきつけ、祈りをこめながら製造しているので効き目があってありがたいんですよ、みたいな解説がされているが、たたきつけるものが聖書であるかどうかは実は関係が無く、祈りをこめて製造しなくてもレメディは作動する。レメディの重要な製造工程である反復継続した叩きつけは、人が日々義務感いっぱいに、自分に鞭を打って、やりたくないことに人生のほとんどの時間を使い、その力の果実、で、外在する熟れた物語を購入する、という力の物語の疑似的シミュレーションといえるだろう。これはまさに、日常における月の要素、筋反射による反復継続、な状態の疑似的な模倣だ(月は模倣の天体なので、模倣の模倣、みたいなことになってますが)。

そういうことなので、「日々の暮らしに祈りがこもっていない状態になっている=病」に対して、同じように「がらんどうだが、そこに力が充満しているかたち=レメディ情報」を同じようにぶつけて、気づきを引き起こすという仕組みは、黒魔術のポジティブな使用といってもいいかもしれない。鼠小僧みたいなものだ。
レメディの原液に転写された、それこそ顕微鏡でみるくらい小さな領域に数え切れないくらい大量に、同じ形で複製された情報は、砂糖玉へしみこまされる。その砂糖玉を摂取することで、鏡をのぞきこませて、自分がどんな顔をしているのかを認識するような現象が起こる。鏡に映る自身をみつめて「あ、これわたしじゃない、自分を見失っていた」「と気づきが起こり、わたしたちの本来さが戻ってくる。ところが、「本人でない何か」がその人の中になぜ存在するようになったのかというのはまさに、本人が自ら望んで、日々積み重ねた結果というところが皮肉な話なのだ。

病という漢字をよく観察してもわかる。病の中には「丙」が入っており、これは甲乙丙、1,2,3 と数える時の3番目の漢字である。この漢字は、法律関係の文書に頻繁に登場し、たとえば契約当事者のことを「甲は、、、乙は、、丙は、、」といって記述するといえば思い出してもらえるだろうか。そして、3という数字は、力の世界での象徴的な数字だ。力のセオリーを神格化した、三位一体トリニティのトリは、まさに3である。鳥居も、birdという漢字があてはめられているが、本来は3という数学的な世界観を崇拝するための当て字ではないかとわたしは思っている。こうなってくると、キリスト教も神道もほぼ同じ何かを愛でているということになってくるわけだ。3辺で成り立つ三角形のかたちも、建築などの世界からとらえると、非常に力として安定している基本的な形態である。つまり、この3の法則=力の世界 にあやかりすぎたときの副作用、が病なのである。みんな、力はいいものだと思っている。だから望み、苦労して手に入れようとする。病は嫌だというのはみんなそうだと思うのだが、力にあやかることもまた、みんな望んでいる。だから、安直に癒えるというのはなかなか身勝手な話で、確かに症状は消せるかもしれないが、それをするとまた、その行為の副作用が生じる、ということが延々と続いてしまうわけだ。

ホメオパシーの通常運用は、確かに現場においてとても実用的である反面、とても矛盾を抱えた療法ではないかと私は感じている。その理由は、現場での実用性を重視した結果、症状を通して、わたしたちが普段無意識化におしこめて触れることができない、形而上の世界からのメッセージを、場合によってはぶったぎり、メッセージを破棄しリセットすることと引き換えに症状を消していることがあるのではないか、と思うからだ。これは代替療法全般が抱える矛盾といえるだろう。西洋医学を批判しておきながら、構造としては同じ方法に陥っているというわけだ。ほんとうは、症状を消すのはもちろん大事なのだが、それと連動し、訴えているメッセージを受け取り、心身が回復した後、生き方にそれを取り入れていく模索がセットになってくる。もっといえば、そのメッセージを受け取ることさえできれば、症状はおのずと消えていくのである(そうなるとプロは商売あがったりなのだ)。

このことをつきつめて考えれば、外から必ず補わねばならない、と信じている栄養素やミネラルなども、得意不得意があるにせよ、基本的に、人は自分の体内で、錬金術のように製造することができるという力を取り戻す、それが真に健康になる、ということだと私は思っている。

この点、食べるとなんとなく元気になって動き回れる、という意味でありがたがられる、高タンパクベースの食生活は、自分で製造する力を基本的に鈍化させていく。常に、外から奪って体内に入れないと欠乏する、という方に心身を固定化してしまう。対して、基本的に菜食ベース、炭素ベースのシンプルな食事をしていると、炭素はほんとうに、何にでも転換が可能なので、すべて、自分仕様のとても自分にあったミネラルを、自分で賄えるということになる。ベジ歴が長い人の体内であたりまえのように行われているこの営みは、おそらく普通食の人とまったく違うメカニズムなのだろう、と私は推測している。そして、その原動力となっているのが、わたしたちの感情を伴った、日々味わっている物語であって、これを取り戻すことがそのまま、体内のクリエイティブさを取り戻すことと、同じことなのだ。

そういうことなので、なんでもかんでも症状が消えればいい、ではなく、まずは症状やマヤズムがたちあがっていることへの敬意と、その理由というものに耳を傾ける、ということに、私は関心がある。マヤズムやウイルスを過剰に敵対視し、とにかく鎮めたり排除したり、というアプローチをとらざるを得ないことばかりなのは重々承知なのだが、それはほんとうは、常用する方法論ではない、と私は思うのだ。

そのために必要なことは、力と愛の混線解除、なのだ。この混線解除のためにとくに重要なのが、「自然派」の定義を明らかにすることだ。多くの人は、「安全な飼料で育てられた安心できる豚肉」「添加物が使用されていないソーセージ」「無農薬・化学肥料不使用のお野菜」に代表されるように、食事からケミカルさをなるべく排除した、いわゆる「オーガニック(有機的)」な食品を摂取することがナチュラルでやさしい自然派だ、と思っているのではないだろうか。あるいは、アーミッシュに象徴されるような、デジタルな文明から離れて暮らすことが自然派だ、とも思っているだろう。

わたしは、そのような表面的な意味での「自然派」というものにとても懐疑的だ。自然はやさしい、みたいな安直なイメージも、好きではない。自然がやさしい、とのたまうことができるのは、気候が温暖な地域に住まう一部の恵まれた人だけだ。自然は本来、過酷である。雪国に住まう人はよくご存じだろう。多くの自然派が嫌う、ケミカルさやデジタルさにあふれた工業社会の発端は、厳しすぎる自然環境から、わたしたちを守り快適な空間をつくりあげるためになされた面もあるからだ。四季があり、わりと温暖で暮らしやすい東洋と異なり、西洋の人々は厳しい自然の中でどうやって生き延びるか、という発想で自然とかかわってきた。だから、ある種やりすぎなくらい、自然を「支配」しようとする。そのことを批判するのは簡単だが、ただ環境に恵まれて、のほほんと自然から搾取しまくれる立場にいるだけなのに、彼らを批判することははたしてできるのだろうか、と私はいつも思うのだ。それでは、同じ穴の狢ではないかと?

昨今社会においてハラスメントに厳しい風潮が強まったが、表面的に取り締まったところで、暴力は連鎖するものであり、その根っこを絶たねばもぐらたたきが繰り返されるだけだ。本質的な解決に必要なのは、「力」と、力の源となる「果実」について理解することだ。もっと別の言い方をするならば、暴力が基本仕様に組み込まれた社会の根っこは、電化製品を使い始めた時ではなく、家畜を利用しはじめた時から、ということだ。この話はユヴァル・ノア・ハラリが触れたので有名だろう。

家畜的なカルチャーにあやかるか、あやからないのか、という違いは、力に寄生し支配被支配に甘んじるのか、自立して生きるのか、の大きな分水嶺となる。多くの人は、自立という言葉を、経済的な意味でとらえがちだ。しかしそれはこの貨幣制度が暴走した時代においては、その人の勤勉さや真の意味の自立の証明とはならず、力に寄生するのがうまい、という意味にしかならないことも多く注意が必要だ。たとえば、心を静めてリラックスさせる、と言われているカモミールティーも、飲みすぎれば逆にどんどんイライラして神経が高ぶってきたりする。救急車のサイレンも、じっと耳を澄ませているとある瞬間から、聞こえ方がピーポーがポーピーに変わる。こういった、物事を固定的に決めつけてしまわず、プロセスとしてみたときにどうなのか、ということをニュートラルに感じ続けることは、とても重要だと思っている。

そして、この本に興味を持ってくださる数少ない人々をさらに切り捨てるような発言が続くけれども、わたしは一般的な意味でのスピリチュアル産業が嫌いだ。その理由は、物事の片側しかみないように逃げ続けることを、「ポジティブ」だと豪語する風潮が強いからだ。物事がうまくいっていないときに、ニュートラルにその原因や、滞っている箇所をみつめて、改善しようとする行為に対して「あの人は悪口を言っている。ネガティブだから縁起が悪い」というような具合である。これのどこが霊的生活の実践なのだろうか?

この点、日本語というのはとても特殊な言語である。複雑なようでいてシンプルな言語である。ほんとうに不思議だ。その不思議さとすごさが端的にあらわれているのが、らりるれろ、だ。らりるれろ、をよその国の言語におきかえると、大抵はLかR系統の単語に分離させられることになる。そして、このLとRどちらを使用しているのか、で単語の意味はほとんど対極になっている。しかし、日本語はそのようにはできていない。よく日本人が、LとRの発音の使い分けができないことで揶揄されるが、これらを分けない言語文化である(あった)ということが一体何を意味するのか、ということなのだ。よくやり玉にあげられる、米(rice)とシラミや寄生虫(lice)だが、物事の陰陽という両極からみつめた場合、果実に満ちた豊かな世界と、物的豊かさに欠けた世界の対比となる。浅いポジティブ思考な人々は、果実が多いことを常に望むため、減らす意味合いである寄生虫を忌み嫌うわけだ。だから、米とシラミをいっしょにしないでくれ、と怒り始める。LとRの発音が違うだけで一大事だよ、と。だが、物事は循環しているという発想でとらえることができるならば、過剰になったものや、時期が過ぎたものが朽ちたり、虫や微生物によって分解されていくことは、次の豊かさのひとつまえの段階として重要なプロセスのひとつ、という発想になる。大体、必要以上に過剰に果実を生産しようというゲスな試みがなければ、虫は異常発生しない。LとRの区別をとくに気にしない、ということは、もとから欲張らないということなのだ。ら行のものすごさはここにある。物事のプロセスすべてを引き受けることがあたりまえ、ということなのだ。「果実が熟れた瞬間にだけ立ち会えれば効率良くていいなあ」ということをラッキーだと定義しない世界観ということなのだ。

わたしはたまたま、語源を追ううちにこの法則に気づいたのだが、ある日読んでいた、保江邦夫氏の書籍に、レムリアの文化は、まさにLRの区別がなかった旨の内容が書かれており、わたしは鳥肌がたった。ほんとうの自然派は、表面的な自然愛好ではなく、みえないメカニズムを含めた循環に沿う=LRを区別しない言語感覚で日々生きる、ということではないだろうか。
 ほとんど墓石でできているような無機質なビルの森に象徴される、人工的な経済社会にかかわらずにわたしたちは生きることができない(蛇足だが、ビルの外壁の素材はほんとうに墓石と同じだったりする。とくに銀行とか)。けれど、そのときにどのようにかかわるか、ということは自分で決められる。今すぐ田舎に引っ越して畑をはじめれば自然派といえるのだろうか?置かれた場所で咲きなさい、という言葉が流行ったが、誤解されがちな、力に迎合して、力に従順になって群れに順応しなさいという意味ではないと思う。ほんとうの意味は、今いる場所の循環に自分も加わり、物事の陰陽両面を引き受ける、ということではないか。

その第一歩が、言葉が持つ両義性に敏感になり、音の響きが包含している本来の豊かなイメージを理解し、音に出すということだとわたしは思う。言霊を大事にするというのは、現世利益のために偏った陽性ワード(ポジティブワード)を無意味に唱えることではないし、自然派というのは、ただ畑をやったり、キャンプをすることを指すのではなく、本質的には、物事のプロセスすべてが凝縮された言葉の響きすべてを引き受ける、ということのはずなのだ。

フルーツだけでない「果実」

キリスト教を他人事扱いする多くの人とかかわっていつももどかしく思うのは、そのカルチャーの産物にあやかり、日々ありがたく便利な暮らしができているのに、まったくその土台について知ろうともしないところだ。キリスト教的なカルチャーの影の側面に困らされることがあるとすれば、それは必ず、無自覚に、あやかってきた面があるということだ。よく、宗教全般がよろしくないであるとか、ある宗派が問題だ、といった論争を目にするが、どの宗派であっても、教義を本質的に理解しつきつめていけば、必ず普遍的な哲学法則に行き着く。仏教やそのほかの宗教を信じていたり、自分は無宗教だと思っていても、貨幣経済にあやかって生きている以上、構造としては、キリスト教の物語にでてくる「果実」と同じテーマはあまねくわたしたちにつきつけられている。 

果実はええもんに決まっとるやないかい、とツッコミが入りそうだ。果実が悪いという意味ではなく、その取り扱いである。果実が実るに至るまでの、前後のプロセスを省略し、果実の部分だけを偏愛する行為が、そのまま生け贄社会そのものなのではないか、という話なのだ。丁寧に追っていこう。 

りんごは、旧約聖書でお馴染みの、アダムとイブのあの禁断の果実である。ほとんど国民の全員が持っていそうな、スマホのメーカーであるアップル社も、おそらくこの元型イメージと切っても切れないだろう。りんごは、ただの美味しい果物のうちの一つ、と思ってしまいがちだが、シンボルとしてのりんごは、どちらかというと果物全般を指し、もっといえば、果物という有機的で食べることができるという意味の価値だけでなく、社会的に、貨幣価値がある法定果実、という意味も兼ね備えている。果実は英語でfruitsだが、りんごが指し示しているのもほとんどエリア的に重なっていて、同義であるととらえた方がむしろ、シンボル解釈的に本質的だとわたしは思っている。世界を解くカギになる、基本的な元型イメージはこの、fruitsである。つまり、りんごとは、果実とは何か?という問いである。
そして、語源を紐解くと愕然とする。

ヘブライ語のリンゴは、תַּפּוּחַ (tapúakh) だ。素直に読むと「タプアク」となり、たんぱくという音と違和感がない。つまり、たんぱく質の「たんぱく」が、りんごと同義であり、それは、生贄の「贄」を意味するということではないか。禁断の果実とは、美味しい高たんぱく食=贄を頂く喜びを知ってしまった、ともいえるだろう。実際、肉というのは、その動物が生きてきたプロセスの結晶であり、果実そのものだろう。これは、果実とは、物語の起承転結の結であることを考えれば、まったく無理のない話である。 肉をいただくことは、手っ取り早く力が手に入るので、満足度も高く、とくに肉体面の(一時的な)充足度は高くなる。長生きする人は、肉好きな人がとても多い。若い頃のように活動ができるままでいたい、という意味では、肉をいただく食生活の方が向いているだろう。だが、本来は自身が体内で製造すべきであった「脂肪」を、肉から外在的に摂取し、製造をサボることができてしまう、ということなのだ。

シュタイナーは、動物の肉は人間の諸特性を部分的に有しており、食べることでそれを得られるため、自身のアストラル体がこころもとない人は、それによって助けられる。しかし、引き換えに自由と無垢さを失い、重力にとりつかれる、といったことを言っている。また、脂肪に関して次のように言っている。

肉食によって)脂肪形成という仕事を取り除こうとする人は、その取り除かれた仕事がアストラル体に一種の壁を作るのに気づくことでしょう。透視者でなくても、ある人が自分で脂肪を作り出しているかいないかは、その目を見れば分かります。アストラル体が自分で脂肪を形成しているなら、それをまなざしのなかに読み取ることができます。

人間の四つの気質――日常生活のなかの精神科学 肉食と菜食(P118~)ルドルフ シュタイナー (著), 西川 隆範 (翻訳) 風濤社

筋金入りの肉食民族の文化の象徴が、海賊に由来を持つ白人社会だろう。グレイズ・アナトミーというアメリカの連続医療ドラマを、コロナ禍の間に3シーズンくらい一気に視聴して、色々考えさせられた。自身で脂肪を作らない生き方の最終形態がどこへ向かうのか、の実例が満載だった。東洋人は、土地が豊かである故、そこまで肉の摂取だけに偏らなくても他に食べるものがある環境で暮らしてきたが、昨今、西洋人並に肉食をする人たちも増えている。今後どのようになっていくのだろうか、と時々考えてしまう。人口がとても多いインドでも、急速に肉食文化が広がっている。あの国の人たちにベジタリアンが多いのは、ただ代々慣習としてそうしてきただけで、信仰に厚いから肉を食べないというわけでもない。その証拠に、海外に出てきた彼らが、インドの神はここまできたら見ていないといって嬉しそうにこってりしたラーメンや焼き肉を食べている姿をよく目にしているからだ。そういう意味で、肉食というものを骨の髄まで理解した西洋の人々が、自身の意思によって菜食を選択する流れも、今後は同時にどんどん大きくなっていくことで、バランスが取れていくのだと思う。

土星信仰は、違う言葉でいうならいわゆるサタニズムであり、陰謀論などで一方的に悪の権化といって忌み嫌われているが、わたしたちは日常的に同じ構造に加担しており、そちらが批判されることはほとんど無いのが謎で仕方が無い。世界の多くの人は依然として肉を食べる生き方であり、それを踏まえた社会の延長にサタニズムがあると考えたとき、簡単に否定すれば、困るのは誰かというわけなのだ。露骨な書き方をするならば、人を殺したり人の肉を食べることは、なんとなくみんなあまり良くないという風に思うが、豚や牛を殺して食べることに、同じような感覚は抱かないだろう。外国人の話ではなく、日本でも皆が崇拝している孔子も人の肉を食べていたし、九州の武士たちのひえもん文化もあった。西郷隆盛が身体に大きなこぶができて、家来に支えてもらって歩いている絵が残っていたが、まさに共食いの害である。

体内の生理作用として、この四つ足を食らうことと、人を食らうことに明確な境界はない。ただ、自分に近い、自分と同じような存在の肉を食えば食うほど、弊害が強いと同時に、強烈な力を得る快楽が生じるのは確かだ(だから、四つ足は食わないという文化がある)。にもかかわらず、(表向きには人肉は食べていないことになっており)食っていい肉と食ってはいけない肉を、神がいいといっているからという何の根拠もない理由で線引きをするキリスト教(サタニズム)や現代仏教(肉食妻帯がデフォルト)が示す戒律は、群れ社会の一員として生きていくわたしたち、という点を重視して機能している。だが、これが暴走すると、自他の境界が消失し、最終的には共食いになる。食う側でいることをやめないならば、自分が次に食われる側になることを許容すればいいだけのことなのだが、誰がそんなことを受け入れたいだろうか。

この「自分は一方的に食う側でいる」という無茶な設定のもと構築されている社会。金太郎飴のように、社会が棒状になっていて、最後まで来たら終了、であればいいが、残念ながら終わりははじまりであり、次のサイクルに円環のように連結している。しかし、この「わたしは食う側」を固定したまま、そのまま円環になった場合、最後の円のつなぎ目がいったいどうなるのかということだ。だから、人工的な世界には生贄という必要悪がデフォルトで組み込まれている。自分は殺されたくないのに、贄にされてしまう、という、強制的なアポトーシスである。力に毒されていない循環であれば、不要になったもの、多すぎるものは適宜断捨離されて、入れ替わっていく。体内ではこれをアポトーシスというが、人工的な世界では、構造の中にアポトーシスの機能はデフォルトでは組み込まれていない。だから、望まない外からの介在というかたちで、強制的にアポトーシスが生じることで循環が生じるようになっている。生贄儀式というと、一部の非人間的な極悪な人々の専売特許だと思われがちだがそうではない。善良でまっとうな、多くの普通の人々こそが、この構造を率先して支えている。 多くの人のいうやさしさとは、この食うか食われるか、の構造が遠く霞んでぼやけ、あまり意識せずにいられるあたりで、おいしく果実を貪れるポジションを分かち合えるよう協力し合うという定義になるだろう。そしてそれは必ず、そのために犠牲になる存在がセットになっているが、そのことは往々にして透明化される。取り返しがつかなくなる犠牲が生じる前に、適宜断捨離をし、共に分かち合い循環をすることでアポトーシスをすれば、生贄は不要になる。しかし、繰り返し言うが、社会はそのようには組まれていない。常に食う側でいたいし、食うもの(果実)は増えれば増えるほどいい、というゲーム設定になっているわけだ。そして、そのルールに従順でいればいるほど、影は強まる。定期的に、日頃みないふりをして透明化し、潜在意識領域に閉め出していた影に、わたしたちは反撃されることになる。学校や会社でいじめやハラスメントが絶対になくならないのは、構造として生贄前提でまわるように組まれているのである種当然の現象と言える。

ほんとうは、誰もが、力にラリることに飽きている。欲しいものは愛。だけど、力の手に入れ方しか教わらない。力を利用して他者の気を引くことが、愛の一環だとすら思い込まされている。わたしたちは愛の実践について知らなさすぎる。愛は果実とよく似ているが、ほんとうは違う。このことが腑に落ちるなら、それはほとんど悟りの境地と同義なのだ。

ヨウ素とタイムラプス

力を得ることは副作用として病を引き起こすという話を、もう少し掘り下げていきたい。力とは、物語からプロセスをノイズとして切り捨て、果実だけを効率よく手にする努力、といってもいいかもしれない。病を理解することは、果実を手にすることで、わたしたちは何を失っているのか、を知ることでもある。

そもそも、物事のプロセスを省略することがなぜ問題なのか?この問いは、愛とは何かという問いとも同義だろう。愛は、誤解を招きやすいキーワードなため、あまり持ち出したくない。だが、とても慎重に取り扱うことができれば、愛も、怪しい感情論ではなく、科学的な構造論として取り扱えるはずだ、と私は思っている。アドラーや、エーリッヒ・フロム的な世界観は、そのひとつの態様だろう。

フロムの話の中でとくに私が重要視しているのは、チームワークは愛じゃない、という話である。このことにぴんとくる人は、力の神と、根源的な自然の神の峻別が理解できる人だろう。チームワークは、力を手に入れる助けになるが、それは愛とは違うのである。愛は起点から終点まですべてを責任をもって取り扱うこと。だから、チームワークの観点からは互いに助け合うことは必須な行為である故に、愛の世界からは、時に手出しをしない、ということも必要になってくる。ストーリーを味わうことを部分的に取り上げられ、遮断されてしまうと、人は物語全体を味わうことが不可能になるからだ。

そういう意味で、高タンパクなもの、とくに動物がつくりだしたタンパクを食べること=彼等が自分の生き方に適した状態に身体を整えたものを、人間であるわたしたちが勝手に横取りすることは、彼らの物語を部分的に、わたしたちの物語に接ぎ木するようなものなのだ。つまり、わたしたちは人間なのに、牛らしく、鶏らしく、豚らしく、マグロらしく、鮭らしく、なってしまうということ。千と千尋の神隠しで、お父さんとお母さんがいつのまにか豚になっているシーンがあったが、あれはデフォルメされているとはいえ、霊的な観点からとらえると、決してフィクションではないのだ。わたしたちは、そうやって憑依されるリスクを冒しながらも、手にするメリットが大きい故に、文化として広く肉食を実践している。そのメリットはまさに、時間の短縮である。

しかし、そのデメリットとして老化が速いというのは、うすうす気づいているポイントだと思う。もう完成している物語を手に入れ流用することは、すでにしっかり酸化が進んでいるものを取り入れることであり、通常より酸化が加速するのは当然のことなのだ。人間というものは勝手なもので、物語の熟成=熟れた果実 を望むくせに、酸化し、老化する、ということは嫌悪するわけだ。肉食文化の強い西洋カルチャーは、東洋人よりも、若さを失う事への恐怖が文化的に強い。アメリカのドラマなどをみていると、このあたりのテーマが良く描かれている。この、時間が相応にかかったものに価値を感じるということと、若い未熟であること、新鮮であることに価値を感じるということの矛盾について、引き続き考察していきたい。

ヨウ素は、食品では昆布に多く含まれており、北海道の羅臼昆布は有名である。羅臼、ラウス、あれ?lapse の音に近くないか?? と私は気づいてしまった。タイムラプスの、lapseである。本来であれば何時間、あるいは何年もかかるような四季の移り変わりを、たかだか15分くらいに早回しでみることができる動画をタイムラプスと呼ぶが、この「lapse」という単語の意味はなんと「過失、神の恩寵を失う、信用をなくす、集中力の低下」である。ここで呆れている神は、力の神ではなく、根源的な神の方だろうと推測がつく。なぜなら、lapseによって効率性を上げて手に入るものは、力だからだ。早回ししてみました、ということが、「神の恩寵を失う」、、そこまで言わなくてもいいのに手厳しい。

lapse の音から濁音、半濁音を抜いて考察すると(語源おっかけの鉄則として、濁音や半濁音は些末な違いとしてとらえ、あってもなくても同じと捉えると本質的に通底しやすい)、ラオスとかラウスの音と通じてくる。アイヌ語によるラウス(羅牛、良牛)の意味は「ラウシ(獣の骨のある所の意)」「動物(鹿・熊等)の死骸があった所の意味」であって、まさに「lapse」される現場、屠殺場的な元型イメージがゆらめく。実際に、羅臼という地域は結構いわくつきな場所で、人肉を食ってしまったというひかりごけ事件(ひかりごけは羅臼に生息する)があった場所とされている。人が、常軌を逸してホラー映画のように狂った行いをしてしまうとき、それはほとんど憑依によるものだ。たまたまその個人に問題があったというよりも、土地によって、憑依がおこりやすい場所があり、それは、その土地で活性化している静的・動的なミネラルについて捉えると、それは致し方ないな、、という結論に至ることが多く、羅臼もちょっと強烈なエネルギーがよくもわるくも渦巻くエリアなのではないかと推測ができる。

常軌を逸した行動をとっているその人は、自分がそうなっているときの記憶がたいていぶっとんでいて覚えていないのである。つまり、自分をその瞬間失っている。タイムラプス、というのは、ホラー映画のように、誰かが殺されてはいないが、物語が殺されている、と考えるとわかりやすい。あの早回しによって、プロセスが殺されて、最後の物語の帰結にたどりつきやすくなっているというわけだ。

ヨウ素は、光合成と消化についての元型イメージだ。形のない領域から、形あるものへ転換する光合成(光エネルギーによって、植物はでんぷんを製造している)、形のあるものを燃やし、形ない領域のエネルギーへ転換するのが消化(でんぷん質の食べ物を消化し、エネルギーに変える)。子どもの頃の理科の実験で、生のじゃがいもの薄切りに、ヨウ素を垂らすと染まる、というのをやった記憶がある人は多いかもしれない。私もそのシーンは覚えているが、それが何を理解するためだったのかはすっかり忘れていた。

元素転換を提唱したケルブランによると、ラミナリアなどの藻類は、花崗岩の中の錫からヨウ素を製造しているという。彼によると、錫+水素がヨウ素だ。錫というミネラルも、ヨウ素像と通底しているところがたくさんあり、体内で液体と固体、硬いものと柔らかいものの調節をしている。だから肝臓に関係するとされ、これは実際、いて座のシンボルの金属が錫であり、木星は肝臓と関連する臓器である、という話にもつながってくる。必要なものと不要なものを区別する機能は、毒と薬を自ら定義し峻別するともいえるわけだ。

ちなみに、錫のレメディの精神像としてはかなり鬱々した感じで、断捨離をやってすっきりする一歩手前が錫、断捨離中、断捨離したくてたまらん!というのがヨウ素的、と捉えても乱暴だがあっているかもしれない。というか、その、「断捨離する」領域がちょっとずれると阿鼻叫喚、というのが、ヨウ素的なのである。毒と薬は紙一重、という基本原理にのっとり、この風景を感じた時、生贄物語や、人肉を食べてしまうひかりごけ事件、というのは、過剰に消費しすぎモード、と考えるとわかりやすいかもしれない。あるいは、物語の時間軸が前後していて、本来であれば、果実が熟れ、熟れたあと飽和し、腐敗し、かたちを失っていく、という自然の順序があるのだが、先に生贄を捧げるあるいは、唐突に外から奪われてしまう、という体験があった場合、その経験者は物語の後半で、外から過剰に奪い返してしまうのだ。この、「過剰に奪い返した」瞬間だけを切り取ると、それは加害行為である。瞬間だけを考えると、加害者が悪となるわけだが、その加害者も、ほとんど99%の確率で、彼の物語が理不尽に奪われ、殺されたという理由が必ず、ある。

ヨウ素は、牡羊座と牡牛座が不足しがちで、獅子座と乙女座と魚座が貯め込みやすいミネラルとなっているが、錫は木星の金属であるため、魚座やその対岸である乙女座に関係が深いのはここからも推測ができる。牡羊座と牡牛座は、初期星座であり、かたちづくる役割が強い時系列に位置しているし、獅子座はその性質上、強く欲望を燃やすところに本質がある故、その燃えかすが大量に溜まりやすいと考えると辻褄があうかもしれない(このあたりの考察は2巻以降で詳しくやりたい。)

ユブラジ・シャルマによると、ヨウ素は光泥棒だという。確かに、そのあまりにも貪欲な代謝能力は、光を貪っているとも言えるだろう。そして、光にも2種類ある。虹やタマムシ、月のように、反射することで輝くタイプ。あるいは、実際に燃焼によって光っている場合。この、燃焼によって光っているというのは、ほとんど生き物全てがこれであり、人間も全員、光っている。オーラが見える人にはそれが見えているが、目に見えていなくても、みえない光(一般的な人の目には認識されない帯域の光)として、わたしたちは放出している。仏像の後ろの光背は、オーラをわざわざ、アニメのようにわかりやすくデフォルメしたものだ。あるいは、仏陀やそのほか神聖なひとたちが生きていた頃、一般人でも目でとらえられるくらい、オーラの光が強かったのかも、しれない。自ら光っているけれど、燃焼とは違う仕組みで光っているものがある。イカや、キノコや、発光バクテリアの仲間たち。これらは、総てではないが「ルシフェラーゼ」が関連していると言われ、その名前の通り、神秘学におけるルシファーが彷彿とさせられる。
白熱球と原理が同じであるハロゲンランプにも、微量のヨウ素(ヨウ素はハロゲン元素のひとつ)が封入されていることで、フィラメントの劣化を防いでいる。光に関しては、構造色に関して大事なテーマがあるので章を別にして後述する。

シャルマはまた、ヨウ素はユダヤ人的だ、とも言う。ユダヤ人、というキーワードは陰謀論でおなじみだが、いろいろ物議を醸すセンシティブな単語である。いろいろな定義があるが、ユダヤ教やキリスト教に絡んでくるユダヤという定義は、どこかの民族、どこかの血を引いている人、というよりも、むしろそういった土着的な要素から、糸の切れた凧のように切り離された人々の総称ではないかと私は思っている。そしてそれは、否応なしに流浪の民と化した、ということもあるだろうし、自ら望んでそうなった、という場合もあると思っている。ユダヤ人とは、ユダヤ教を信じ教えを実践する人総て、という定義があるが、それに近いだろう。とくに、金融ユダヤ、スファラディユダヤ的な世界観は、自然や土着的なものを一切排し、人工的な力だけを大事にする世界観そのものであるため、世界中から忌み嫌われて叩き出され続けるし、一方で、彼らにすべて悪役を押し付けつつ、彼らの利に聡い能力にあやかって、美味しい思いをし、利用するだけ利用する、ということを多くの人々がやっているのが現実なのだろうと思う。つまり、経済の持つ功罪の象徴が、ユダヤ的な世界観であり、エンデではないけれど、街中に礼拝堂の代わりに銀行が陣取っている世界において、誰もがある種、lapse な生き方をさせられているということへの気づきは、とても大切なことだと思っている。

ある時を境に、SNSを中心としたネット上のコミュニケーションが、数の暴力に満ち満ちた空間になり、おもしろくなくなった。それではオールドメディアと何も違いが無い。そういった、力が暴走する風景は、ヨウ素の風景なのだ。グノーシス派による一神教批判はとても鋭く、ほとんど現在世界的に起こっている多国籍企業の台頭とあらゆるデジタル化、その支配による風景にそのまま重なるのだが、その中で惑わす星(占星術で用いる天体)に力を与えた神の名、ヤルダバオート(Jaldabaoth)は、語源の解析次第で「馬鹿なヨウ素」という意味にも取れる。そのくらい、ヨウ素というミネラルが象徴する物語は力の暴走そのものだということだろう。巻頭に、ケルブランの元素転換の構造に、12サインが関連するミネラルを記載した表を載せた。詳しい話は次巻以降にしていきたいのだけれど、ヨウ素を消費しやすいサイン、貯めやすいサインを比べてみると興味深い。消費しやすい星座は牡羊座と牡牛座で、このサインに天体が多く入っていたり、アセンダントがある人はヨウ素の害が出にくいかもしれない。対して、貯めやすい人々は獅子座、乙女座、魚座である。この人達はおそらく体内で自分でヨウ素を作るのだと思う。ホメオパシーにおいて、あるレメディ像が該当するとき、その人はその像にある種憑依されているのと同じことだと私は考えているのだが、貯まりやすい元素は、憑依を引き起こしやすいと思う。消費し足りなくなりがちなミネラルが含まれる食品を意識して摂取したり、貯まりやすい元素が含まれる食品を減らすというのは対処として大切だが、一番鍵になるのは、ヨウ素の場合でいうなら「自分自身のニーズに気づく」かもしれない。他者の分まで頑張りすぎる故、足りない足りない、もっと、という渇望感にとりつかれて暴走が止まらなくなっている。現代はとにかく実用的で効率的で反応が良い人をほめそやし、そうでない人を否定する風潮が強く、ヨウ素が暴走している人が重宝されがちだからこそ、気をつける必要があると思う。自分が心の底から望んでいることに関することに行動する、ということを意識すれば、憑依は止まるかもしれない。

サルナシ

古来からつたわる昔話や神話は、まるで寝ているときに見る夢のように、不可解なシンボルがたくさん登場し、謎が多い。けれど、そのシンボルを丁寧に紐解くと、まさにLとRを融合した愛の世界に気づくヒントがみえてくる。たくさん例にあげたいシンボルがあるのだけれど、まずは「猿」について紐解いてみたい。猿は、干支で表記すると申で、神という漢字の右側には猿がいる。これはいったいどういうことだろうか。
干支は植物の生長サイクルをあらわしている、という視点から「猿」を読み解くと、この申があてはまる時期はちょうど、果実が実っていい感じになる季節である。つまり、猿は果実であり力の神ということだ。インドの猿神ハヌマーンは、果物と間違えて太陽を持ってこようとして天へ上ったが転落死したが、その後さらにパワーアップして復活したというエピソードがあり、力の神というイメージそのものだ。このことは、音で考察しても同じになる。サルはsarとsal、LRで2タイプに表記できる。サルコイドーシス(sarcoidosis)は、本来ならばそこにできてはいけない肉の果実(肉芽種)が体内に発生してしまう病だが、このRの方のサルは「肉」を意味する。そして、Lの方のサルは、朝鮮語で「米」を意味する(語源探求 日本語語源研究会編 明治書院 稲作古層語の探求 中本正智 より)。

Balasaheb Pant Pratinidhi, Bala Saheb, Bala Sahib, Balasaheeb, Balasahib, Bhavan Rao Śrinivas Panta (author dead before 1952 (April 13, 1951) - see, Public domain, via Wikimedia Commons

そしてsalはsaltに通じ、塩をも意味する。サルとは、炭素ベースのエネルギーとと蛋白質ベースのエネルギーの対比の風景だ。外在的な意味でサルを考察すると、力のエネルギーだ。サルナシというキウィの野生種のような、太い蔓が特徴的な植物がある。この蔓は、有名な徳島の祖谷のかずら橋の材料として用いられている。あのエリアはおもしろいことに、猿にまつわる伝承があり、猿回しの起源は徳島であり、彼らが旅芸人として口伝で物語を解いて回っていたというところにいろいろ鍵があるらしい。神社でよくみるシンボルである三猿(見ざる言わざる聞かざる)も猿だ。サルナシという植物考察に戻るが、蔓は葛の仲間で、とにかく凄い勢いではびこる。締め殺しの性質を持っていて、周辺の植物や木を殺す勢いがある。私が以前住んでいた家で、金木犀に野生の蔓がとりついて花が咲かなくなっていたところを、切断して救出したことがあるが、そのときに、蔓の恨みといわんばかりのものすごいエネルギー、あるいは、急に流れがよくなった金木犀の喜びのエネルギーなのかはわからないが、その後急に熱いエネルギーが体内を駆け巡ったのは忘れられない。この蔓は、ほとんど土星のような、骨組み構造しかない、乾いた骸骨のようなエネルギーなのだ。イルミナティカードにも、大きな葛に気をつけろ、というカードがあった。だから、この名前が「サルナシ=肉が無い」というのはわかりやすいと思う。実際、猿は「ましら」と呼ばれることがあるが、サルナシの別名は「猿口蔓(しらくちづる)」だ。もうひとつ、サルナシの実からもわかることがある。キウィの実は酸っぱく、酵素が強い。とくに野生のものは、とってすぐ食べられるものではなく、しばらく寝かしておかないと酸っぱすぎて食べられない。この酵素は、体内において蛋白質を溶かす手伝いをしてくれる。まさに、「肉を溶かす=サルがなくなる」というわけだ。サルナシの果実に着目すれば、蛋白質や炭水化物(サル)がどろどろに溶けておかゆ状になった風景だが、その樹木の性質に着目すれば、かずら橋につかわれたり、切ると中から水が吹き出てきて水分補給にも使われたと言われるくらい、その管や骨的なしっかりとした構造の象徴ということになる。蟹座と山羊座、月と土星の対比(fruidと骨)ともいえるかもしれない。

この、サルナシが象徴するプロセスを理解すると、力学システムと、体内の消化プロセスが綺麗に反比例して、ぴったりと一致することがわかってくる。そのためにもうひとつ鍵になるシンボルがある。それが、石臼だ。なんと石臼はkiviと発音する。つまり、石臼はキウィフルーツ(酵素のように、すりつぶし溶かす象徴)なのだ。猿と石臼がでてくる物語と言えば、さるかに合戦だ。蟹は消化に関連するサインであり、まさにこのあたりの風景である。石臼がでてくる物語をもうひとつあげるとするならば、ネズの木だろう。若い頃のビョークが出演した映画があるらしく、いつか見てみたいと思っているのだが、まだ見ることができていない。ビョークの世界観は、アイスランドの大自然と、伝承されてきたフォークロアに加え、現代的な世界観が絶妙にミックスされていて、いつも圧倒されてしまう。ネズの木は、彼女が出演する作品だけあって、確かに謎めいており、深い意味をはらんだ物語だ。青空文庫で無料公開されているものもあるので、ぜひ読んでみて欲しい。
ざっとあらすじを述べると、誤って死んでしまった兄を、母が煮込んで父が知らずに食べちゃったというとんでもないストーリーなのだが、最後に鳥が、石臼をこのわるい母親の上に落として、めでたしめでたしとなる。このときの鳥のさえずりが、「Kiwitt」で、これまたキウィなのだ!さるかに合戦にしてもネズの木にしても、とにかく不可解な物語なのだが、力の世界というものは、片側の役だけやりつづけたいと思ったところで、必ず途中で反転して裏側の係もやることになりますよ、という力の法則の当然の帰結を教訓を暗に示していると考えると辻褄が合う。決して、裁いて咎めているわけではないのだ。ただ、望んだ通り法則が発動し、そのプロセスが最後まで行くとどうなるかという話なのだ。

また、サルナシは、「机」とも表記する。(大漢和辞典 巻6 諸橋 轍次/著 大修館書店 1989.9 修訂第2版)机という漢字は、現代中国語で「機」と同義とされ、重機のクレーンを意味したりもする。机というシンボルは、重力に逆らって存立する象徴だ。力は、90度に折れ曲がったかたち(占星術で言うスクエア)に象徴されるが、まさにクレーン(鶴)のくちばしは、身体に対して90度についていて、かなり異様な形態である。だから、力の世界で鶴と亀はセットで吉祥とされるのだろう。辞書でも、机の意味は、生物の作用活動、はたらき、と定義されている。土星は脊椎動物における骨を象徴するが、蟹など甲殻類におけるカルシウム作用と明確に異なる点として、リンを取り入れて重力に逆らって自立できる立体的な骨組みを構築するところにある。crane(鶴)は、机という意味に加え、ジェラートとかジェル、発酵してできているチーズ(grus)に語源がつながり、このあたりもキウィの石臼と酵素の対比と相似形だ。このあたりで、机、鶴、サルナシといったイメージが解けていく。鶴は土星で山羊座、亀は獅子座や蟹座で太陽や月。どちらも力の世界の重要シンボルだ。横浜には小机城があり、近くには鶴見川と、亀にまつわる地名があるエリアがあるが、おそらくこの小机も、もとは鶴に関連する名称だったのではないかと推察できる。エリアとしても工業的に栄えており、力が隆盛する風水配置なのだろう、イケアもあり、高速のインターも存在する。

また、鶴のcraneの音は、水道用語のカランに通じ、水路や通路、堰堤といった風景につながっていく。統治において治水は重要だ。お水取りではお手製の椿がたくさん飾られ荘厳な風景となるが、昔東大寺はかなり北の方から、地下水路を通じて水銀を運び大仏を作っていたという話を聞いたことがある。椿を大事にするのは、水路を大事にする暗喩ではないかと思う。入学式などスーツの飾りで用いられるカメリアも椿だが、これも人工的な力学社会を礼賛するという意味だろう。そして、カランの音の本質はカラであり、烏に通じてくる。あがめられる八咫烏も、水路関連の神聖な象徴ではないか。カメリアの音はカミラやカマラ、カメルからキャメルに変化していくが、キャメルといえばラクダである。ラクダも神聖な動物とされるが、乾燥した地域において、こぶに水分をためられるところに強い意味合いをこめていると思う。

外在する水路としての鶴、そして、その水を貯める瓶としての亀。人工的な水のシステムは確かに大切だ。おかげで、作物をたくさん実らせ、人々が本来住めない地にも住めるようになる。しかしこれがエスカレートするとどうなるか。収量をあげて過剰に利益を出し、戦力を強めるという政治的な動きになったとき、それにかかわる人体はどうなるか。人工的プロセスに依存しすぎた生命は、反比例として健康を損なう。外在の力で、本来自分でやったら手に入らないレベルの果実を手にした場合、体内のアポトーシス機能が損傷する。それが、果実としての金星の裏面である、排泄機能としての金星(腎臓)だ。金星は牡牛座では喉や首を管轄し、嚥下という、空気と水分や食物の分岐を司る。対して、天秤座においては、腎臓や膀胱といった、体内に戻す血液と、体外に排泄する尿に分岐する臓器を司る。天秤座は、結婚や契約に関係するサインだが、まさにengageであり、嚥下と同じ音が指し示している。喉の調子が悪い風邪などを引いたとき、たいていは腎臓が弱っており、腎臓に関するお手当てをすると喉は治る。

東洋医学では、腎は霊的な意味で生命力を貯蔵しているといわれる。物的な意味で貯蔵する方に加担すると、本来の在り方と陰陽が逆転してしまうということだろう。腎臓はリンと関連しているが、日本人が豊かな生活だと幻影に溺れたきっかけになった風景は、リンが多い豪華な食事ではなかったか?クリームたっぷりなお菓子、こってりしたおかずが何品も食卓に並んだ様子。どんなに貧しい暮らしをしていても、添加物をいとわなければ、このリンが多く豪華な食卓は誰でも毎日食べられる。そして、それと引き換えに失ったのが霊的なリン(霊性)だろう。リンはまさに、腎臓において、何が自分にとって有益で、何が不要なのか、の取捨選択の機能を落とす。不相応に外部の豊かさを手に入れる生き方をすると、体内の機能として排出せねばならないものが排出できなくなる。これは、貧しい暮らしをしていても、同じ構造にあやかっていれば同じことなのだ。

黒尾誠の腎臓が寿命を決める(幻冬舎新書)によれば、とくに加工食品に含まれる無機リンをなるべく避けることと、運動をすることで荷重負荷を身体にかけ、骨にリンを貯蔵させることが老化防止に大切と説いている。リンをきちんと排泄できないと、血中でリン酸カルシウムのコロイド粒子が生じ、できてはいけない箇所で石灰化や炎症を引き起こし、果実が実るエリアがバグってしまう。甲殻類の殻に含まれるカルシウムと、脊椎動物の骨におけるカルシウムの決定的な違いは、リンが含まれているかどうかなのだ。そしてそれは、水路というありがたいシステムの延長に広がる、デジタルで便利な人工統治システムに不必要にあやかることでしか生きられない現代において、重力を感じて運動し、自分で自分の骨をつくること。金星と土星の共同を自分で調整すること=自身で身体を統治することは、とても大切だなあと思う。とくに、日本人の身体は、畳や和式便所でしゃがんだり立ち上がったりという上下の運動が多いところに特徴があった。日本人の気のパワーの源は、自身で重力(荷重)と対峙するところにあったのかもしれない。バスケットボールの選手に高身長が多いのは、ジャンプして床に着地する運動がたくさんあるからでは、という説がある。実際、太極拳の動きにも、つま先立ちをして息を長く止めてから、どすんと床に落とす型があったりするが、これらはすべて、重力を感じ骨に刺激を与える、脊椎動物ならではの骨の育成なのだなと気づく。甲殻類もカルシウムを用いるが、彼らは骨ではなく、殻を形成する。彼らは、重力に逆らって垂直に立ち上がるという身体の使い方がない。そこがリンというエネルギーをきちんと扱う人間らしさとつながっているのではないだろうか。

また、金星は常に火星とセットになって機能するが、本来能動的であることで手に入れる喜びを失い、代わりに物的な豊かさで代替する、ということが社会に従順に生きていると多いように思う。長時間労働をしている人々は、能動的で自由な時間の使い方が許されない代わりに、甘いお菓子や酒、豪華な肉といった食事での憂さ晴らし、衝動買いなどで、失った時間を取り戻そうとしがちだ。ほんとうの意味で自他に優しくするとはどういうことか?愛ある日常とはどういうことか?そういったことを考える余裕もない生活を送っていると、ただ渇望感は食や消費でごまかす、というやり方になりがちだ。しかし、それでは本質的に何も解決できない。金星に関連する部位に不調が出るときに気をつけたいことは、ほんとうの望み(往々にして、能動的に火星を使うなにか)をあきらめ、ごまかしていないか、ということなのだ。水は感情の象徴だ。内在する水=感情と向き合うことは、自立していくために大切なことだと思う。ただやみくもに、快い気持ちになればいいという話ではなく、大きな循環の一部に自分が加われているのか、という意味での快さ、深いところの安心感というものを忘れないでいたい。

力と発酵~鉄と韮

先日、静岡県の伊豆長岡を訪れた際、世界遺産である大砲製造施設、る韮山反射炉の存在を知った。鉄製の大砲を製造していた施設が現存していて見学ができる。この反射炉は、オランダ陸軍少将のヒュゲニンが著した『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』をもとに建設されたそうなのだが、この「ロイク(Lujk)」は、語源を追うと偶然なのか、rikiやlukの音へつながり、水路やネギ科(luk)の音へつながっていく。この地の名前も「韮」で、ネギ関係なのだ。ネギやニンニクの仲間はウィリアム・リリーやカルペパーによると火星管轄になる。大砲ももちろん火星である。偶然かもしれないが不思議だ。ニラの音は、nilusと表記すると、豊かな水であふれるナイル川に行き当たり、そこから水路や高架式水道橋といった意味に連なっていく。大砲を製造する過程で冷やす重要工程があることからか、反射炉の脇には、石垣が綺麗に組まれた、しっかりした水路があった。ここにはかつて水車も据え付けてあったらしい。韮の音は、少しゆれるとニレになるが、楡という樹木は水星管轄になり、非対称なかたちの豊かに茂った葉と、生き生きした若木に水星らしさを感じることができる。広がった樹木の枝は、人体の肺と相似形だ。(星々と木々 ゲーテ・シュタイナー科学への道 丹羽敏雄 涼風書林 参照)。水星は双子座管轄で、肺を司る。同じ水の流れというものに着目しても、無秩序に分岐して平面的に広がっていく方が水星的で、整然と分岐し、その流れがなにかしらの意思によって統御されている印象があるのが火星かもしれない。

韮山反射炉の外観

また、nirの音はアラビア語のnilから、nalaの音へ変化するとペルシャ語でライラック(lilac)になる。ライラックは天秤座のテーマに絡み、牧神パンが吹き鳴らしていた笛がライラックでできていたという話だ。スターバックスでおなじみのあのシンボルマークも、ライラックの別名セイレーンである。セイレーンはそのまま、製錬(鉱石から金属を取り出して精製・加工すること)に音が通じる。パンが吹き鳴らす笛も、形状から水路を彷彿とさせる。人体でいうならば、体液が流れる機関(金星=ライラック)で、体液=血液が火星、これらはセットといってもよいかもしれない。リンは霊性という話を書いたけれど、ライラックの霊的側面は、音楽の女神であるリラ(シュタイナー教育でおなじみのライアーという竪琴)になって、これらはセットとなる。天秤座はくびき(york)を象徴する星座で、力学システムを表す占星術チャートにおける位置づけは、契約という力による縛りによって、無理矢理結びつけられる段階なのだ。余談だがニューヨークは、新しいくびき、という意味でなかなかぞっとする。よく金星は愛の星だと言われるが、どこをどうひっくりかえしても愛であるとは思えない。力の果実という意味での豊かさの瞬間にかかわる天体ではあるが、それは愛とは関係がないとわたしは思う。

韮やタマネギ、ニンニクなどはごくんと総称され、一部のベジタリアンの人々は、刺激が強く、より欲望がかきたてられるという理由で食べない。実際、硫黄(木星管轄とされる)がとても多い。硫黄は物的領域・霊的領域双方の母と言われ、蛋白質を媒介として霊的な構築力や成形力を発揮する。木星は、物的領域にはたらきかけると増殖や構築力を発揮し、霊的領域にはたらきかけると、善性として機能する。ドラキュラはまさにごくんを嫌うわけだが、彼らは血の構築力を氷雪して力を手に入れようとしているのに、ごくんの作用が入ると阻害されるため嫌うということだろう。また、韮は古事記では加美良とか久々美良と言われ、音としてミラの音になり、鏡(mirror)や石臼(mill)につながってくる。サルナシの話と同じ構造になるが、何かを細かく粉砕し、消化しやすくする風景が浮かんでくる。火星は破壊の天体である。神社の神官のことを禰宜と呼ぶのも、この経済世界における構築増殖力の象徴だとわたしは思っている。神社やキリスト教(とくにカトリック)は、力学システムの象徴であり、彼らの神聖さというのはほとんど、力学崇拝と同義なのだ。そういう意味で、神社はgingerであり、生姜である。実際に生姜がお祭りしてある神社が存在する。

偽装されたインドの神々ーヴェーダに隠された謎 佐藤 任 出帆新社 によると、生姜は鉄の神様だ、という話がでてくるのだが、生姜はタミル語で இஞ்சிவேர்(iñcivēr)と表記し、音を素直に読むと「市場」である。生命ストーリー側の生姜は、ほんとうに万能薬で、梅賞番茶や、香辛料、その他漢方などで広く使われている重要な存在だ。これを力学システムにあてはめたときに「市場」という、人々が多く行き交い、経済の中心の場となる、というのは、とてもうまくできているのではないか、と思った。ミントというやたら繁殖力と香りが強いハーブがあるが、あれも経済世界では鋳造や造幣局といった意味になるのと同じ構造を感じる。
 鉄は力の象徴的な存在だが、その理由は磁気に反応するからだ。力や鉄の対になるものは発酵である。発酵というのはすさまじい生命原理で、日々涼しい顔をして常温で元素転換を行っている。微生物たちは、化学式ではありえないとされている元素転換を平気でやってのけているのだ。この生命の化学工場の持つすごさは、人工的な、磁気一辺倒である力の世界に敵対するといっても過言ではない。実際、イエズス会の本部は「麹町」という、かつてほんとうにそこで麹が生産されていた地域に置かれている。彼らが発酵を重要視していることがここでもわかる。微生物や黴、真菌の働きには、少しずれるだけで人体にとってあまり良くないものもあるが、たとえばカンジタは、鉄を消費する。鉄分や精白した栄養素が体内にたくさんあると、普段は常在菌として静かにしているカンジタは突如猛威を振るう。

発酵はleavenと綴るが、LRをひっくりかえすとravenになり、烏や鉄、水道管、むさぼり食う、といった意味合いになる。鉄はstealとも表記するが、ほとんど同じ音で盗むという意味のstealになるのは意味深だ。それからferrumと表記した場合、ferryにつながり、血管内で運ばれていく赤血球が船(フェリー)に見えてくる。人間の体内においても鉄はとても重要な存在だ。しかし、鉄の錠剤や、レバーなど、外在する鉄分をむやみに摂取することは身体にあまりよくないと言われている。火星や鉄は、メディカルアストロロジーにおいて、病を見極めるメルクマールでもある。鉄はその人が紡ぐ「生きた物語の果実」といっても過言ではない。肉食、とくに血がしたたる生肉をいただく食習慣は、そのストーリーを自ら紡ぐということを放棄し、積極的に磁気に憑依されて虎の威を借ることを望んでいるともいえるかもしれない。ユダヤ教では、種なしパンを食べる過越の祭というものがあり、発酵を避ける文化がある。これも、磁気にしっかりあやかろうという力信仰の表れではないだろうか。

この「力」と「生きた物語」は、ほとんど毒と薬のようなきわどさをはらんでいる。英語で表記すると、タロットカードでもおなじみ、ストレングス(strength)である。これは、語源を追っていくとstringに繋がり、これはまた、物語(story)とも連なり、混線していく。このあたりのイメージのからまった感じ、というものの何が重要かというと、外から縛るものとしての糸や縄といったイメージ、それとも、樹木の中ですごい勢いで樹液が流れ、気が満ちているあの様子、のダブルミーニングになってくるわけだ。
 魔術の世界は、基本的に「かたち」重視である。ところが問題は、同じかたちであっても、それが物理次元、あるいは霊的次元のどちらにあらわれるかで、作用が裏返しになってしまう。内側からわきおこる時には、その人を生き生きとさせるが、同じエネルギーが外から押し付けられた時、それは縛りと抑圧になる。守護というものが、行き過ぎると管理監視になり、自由さは、行き過ぎると放埓と無秩序になる、というのとまあ、同じことであって、だから、薬と毒はとても近いからこそ、その機能性がある。ちょっとずれるだけで命取りになる微調整。ひとりひとり、その適量は異なるはずなのだが、群れ社会は、一律全員に同じ量を押しつけることで効率化をはかり、力を生む。そのことで個人の生命力は脅かされてしまう。力にあやかることの副作用といってもいいだろう。

国家の中枢に近い都心で仕事をしていて、地方にいたときと違う強迫観念を感じることがある。どうして都会の人はこんなにも、かたちにこだわり、戦々恐々としているのか、ということが謎だったのだが、この、魔法のからくり、力のからくりを知るとあっさりと解けてしまう。かたち重視、かたちだけととのっていれば作動する、というのが黒い魔法なのだが、それは裏をかえせば、ほんの少しでもかたちにほころびがあれば、一気にその嘘が露呈してしまうわけだ。だから、1mmも露呈しないように、神経をピリピリさせてかたちを整えねばならない。これが、外在神信仰的、偶像崇拝的、strength的なふるまいだ。

これに対し、物語(story)を生きるひとたちは、もっと自由でゆるやかで、でも、力強い。ちゃんとそこに生きたエネルギーが通っている故、多少かたちがほころんでも、一気に体制を崩してしまう事はないわけだ。わたしたちは社会から、storyを棄てろ、strengthを手に入れろと教育され、自分の内側に生きたエネルギーが循環する生き方を棄てることが、大人になることだと育てられ、疑いもせず生きてきたのかもしれない。社会が力に満ちている間は、それでなんとかやりすごせるかもしれないが、金属疲労のように、力に限界がきたとき、このstrength側の所作を一所懸命やったところで、あやかれるものはなにもなくなってしまう。今の社会情勢として、貨幣の操作によって、生きていることがおびやかされるようなことが起こっているけれど、これはただ、strengthにまつわる、虚構の、ふくれあがった、余分な力、がそぎ落とされているだけなのかなあ、と思ったりしている。これらがひととおりそぎ落とされてはじめて、わたしたちは、生きたstoryを取り戻し、真の意味での力強さ、に立ち返ることができる。その過渡期に生きている気がしてならない。

また、葱の仲間であるリーキは別名stazoであり、見た目としても中空構造のストローに形状が似ている。この語は「STR(L)」に音の基礎を持つものが全部まるっと絡んできて、とても本質的な世界をみせてくれるのだが、言葉で書くとわかりにくかったりするのだが、物語(Story)、力(Strength)、だけでなく、鉄(Steel)、それから、盗む(Steal)、首に巻くストール(Stall)、通り(Street)、糸、弦楽器全般(Strings)….そして日本語では、悟り(STRの音だよね)、もみんな、このSTRの仲間。この、一見ただ羅列されたかのようにみえる言葉には、一貫したシンボルイメージがある。それは、物語の奪い合い、主導権争いである。力と物語もそうだし、糸、首に巻くストールなどは、物理的な長細い連なり、のかたちを示してくれる。これが、動きとなった状態が、ストリート(人や車が往来している)、それから、血液中を力の源としてめぐっている鉄(steel)もそうだ。これらの「流れる」イメージは、オーケストラの演奏を聴いていると強く感じることがある。とても質の良い演奏に出会うと、みえない領域にきれいな形がととのい、解毒されるような感覚がある。実際、指揮者の動きを追っていると、ほんとうに綺麗な軌跡を宙に描いている。

では、なぜ、ここに「盗む」という意味が入ってくるのか?ある流れがあったときに、力が主導権を握れば、物語は排斥される。物語がきちんと紡がれて機能している時、そこには外的力の介入は不可能、という関係性はもちろんそうなのだが、力を得るという行為は、本質的に、盗む行為であり盗まれる行為である、ということ。力を得る象徴がまさに、他の生き物が紡いだ鉄がたっぷり含まれた血、たんぱく質を横取りし、いただく行為である。人はそのことによって、自分が優位に立ち、自分は得る側なだけだと錯覚する。だが、生命的な実体としては、そのことによって、自身の物語が盗まれている。鉄に要注意、なのはこのことと絡むわけだ。実際、鉄の取りすぎによる体調不良は、免疫低下と絡んでいるはずだ。免疫は、その人が自身の物語を明け渡すと低下する。自身を明け渡す、といえば、認知症やアルツハイマーなども同じ構造にあるが、アルツハイマー病の患者の被殻、脊柱視床、赤核、海馬および側頭皮質、前頭皮質に鉄の蓄積が通常より多い、という研究もあるようだ。(https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/26721301/ https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23942230/ )てんかんも、鉄過剰と関連があるようで、てんかんの症状は一種の憑依みたいなものなので納得しかない。

アブラカダブラと太陽の悪魔

ユングが自身の名を秘して書いたThe Seven Sermons to the Dead という文章がある。この中に太陽の悪魔に関する一節がある。

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