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道か器か(2)

悪は劣化した善である、といったのはシモーヌ・ヴェイユだったか。忘れてしまったけれども、悪というものは基本的に、自然の霊的側面をすべて無視し、かたちだけをそっくりなぞったもの、と定義してもだいたいあっている。
なので、スピリチュアル界隈で、美しいかたち、をやたら誉めそやして、波動が高い云々、と騒ぐのは、いろいろやばいと思っている。

かたちをふりまわす、これが黒い魔法の基本なのだ。

このことは、ホメオパシーのレメディのポーテンシーが高いからといって、なんや霊格が高いとか、スピ的に良い意味がある、ということと勘違いしている人がいる問題とも同根である。このことは、詳しくはまた別で書く。

そう、このシリーズのタイトル通り、人は「器」として一生を終える人がほとんどなのだ。しかし、一部のひとたちは、生きながらにして悟りの境地、のようなタオイスト、として生きる。そのことを「道」と呼ぶわけなのだけど、じゃあ、道ってなんやねん、器ってなんやねん、という話になってくる。

パラケルススの錬金術の文献を読んでいて気づいたのだが、タロットカード用語でもある「アルカナ」という言葉は、「器」を意味する。

つまり、タロットが当たる、ということは、「器」として生きていることが大前提、だったりするわけなのだ。器のなかでくりひろげられる物語=力学ストーリー について予測するものが、タロットであって、力学を超えてしまったひとたちには、タロットはもう何も示さない。

というか、「こんな風に取り憑かれていますよ」「今つかまっている物語はこんな風に展開しています」ということを教えてくれる故、その読み方次第で、「道」を生きたい人の道しるべに使うこともできるツール、それがタロットであり、形而上学なのだとわたしは思っている。

Photo by Chloe Bolton on Unsplash

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