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生きるか数えるか③

さて、「折る」側の考察はいったんおいて、折り目がない世界、力とは違うなにかでなりたっている世界について考察をしてみたい。

生きるか数えるか①で、ゼロは数の中で唯一、ひとつも折ってない!力が加わっていない!という話を書いた。

タロットカードの愚者は、0番目のカードとされている。
力の世界の価値、からすると、0は何もないから無価値、とされてしまうだろうが、力の外の世界を視野に入れると、ただ無価値である、というわけではないことがみえてくる。

ぱっと見た時に、空っぽ、であること。
それはがらんどうや虚しさでもあるが、そこに何も詰め込まれていないことで、かえって豊かになっているなにか、がそこに感じられないだろうか?

ゼロは現象界でとらえられない何かで満たされている世界なのだ。
ゼロがきちんと働くことが命の源であり、ひとりひとりが内側で紡いでいる物語と、おおきな宇宙の自然法則との接点となる。
だから、数えない、数えられないというのが、非常にエネルゲイア的だとわたしは感じている。
 
ひふみよ、のかぞえうたは、実はヘブライ語で神を賛美しているのではないかという説があるけれど、その真偽はともかく、もし数えることが神への賛美なのであれば、間違いなくその神は力の神であり、人工神、キネシス世界の神なのだろうとわたしは思う。

自然の一番根源的な法則は、数の増減をあまり重視しておらず、どちらかというとその命が持つ質や物語と、かたちが密接であるという点にあると私は思っている。

自然の世界は非常に数学的であり、ハチの巣の整然とした六角形や、花びらのかたちや、実や種のかたちと、幾何学的な美しさは切っても切れない関係にある。だが、ひとつひとつの生き物に、この美しいかたちが割り当てられているのには、相応の物語と理由がある。

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かたちづくられていくには、相応の理由があってそうなっている。

このことへの敬意がぶっとんだ世界が、かたちを勝手に設定し、それを増やしたり減らしたりして現象世界を弄りまわすことで、自分は万能だと思い上がる黒い魔法の世界である。

シンクロニシティとして、偶然に特定の数字に何度も遭遇したり、333やら777などのぞろ目をみかけることが、ほとんど神の降臨かのようにありがたがられるということにつながるのだろうと思う。

巷の数秘術遊びの危ういところは、そういう数字が持つ形態場の効能があるからと、さきに「かたち」を設定してあやかろう、としはじめることだ。

タロットなどでもそうだが、意味なんかわからなくていい、とにかく設定することが大事だ、という話をよく耳にする。

先に「かたち」を設定することは基本的にすべて黒魔術的な構造となる。数字の意味を知ることは大事だが、それは基本的に、自分の紡いでいる物語、歩んできた人生の延長線上に、自然に引き寄せられた数字の意味、共振によって起こったことを読み解くという範囲で意義があるとわたしは感じている。
たとえば、345という数字にはこういう効果があるから、だから商品の売価を345円にしてみよう、とするような、物語の因果を逆転させることで効果を手に入れる技が、さまざま伝えられている。手相なんかも、その人の生き方や脳の使い方が皴になって深く刻まれる訳だけど「書いちゃえ」ということで、因果を逆転させて、線がある人の生き方や思考構造を自分にプログラミングする技術として結構広まっている。

黒い魔法のこの種の因果を逆転させることで効果を手に入れる、というのは鉄板だ。
だが、何度もいうようにやりすぎると、可逆的ということが不可能である、肉体を持っていることで現世にいられるルール上を生きているわたしたちの土台が危ぶまれる、ということを忘れてはいけない。

そしてそれは究極、自分が生き、毎日紡いでいるわたしの物語への不信を強める行為、そういう風に感じてしまうのだ。

節句など、素数のぞろ目に儀式が行われることが多いけれども、もともと、自然界における素数は、とてもエネルギーの純度が高く強い。
花や葉っぱや、ヒトデや、いろいろな美しい自然界の形を観察するとよくわかる。彼らがそのかたちそのものを生きているということ、そこには、そのかたち=数字に共振した彼らの生き方がある。

この節目に儀式を行うということは、人間が自立して生きたエネルギーに満ちていきることを抑圧することで、社会としての大きな物語に沿えるように調整し、生き易く=社会の恩恵にあやかりやすくする、という効用があるのだろう(儀式に関する話は成人式の話も非常に鍵なので、あとでまた書く)。


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しかし、何度も何度もいうが、あやかることをやりすぎると命が弱まっていく。
そして、個としてエネルギーが強くなりさえすればいいかというとそうは問屋が卸さない。

個としてのパワーが強まりすぎると社会と接点がもてなくなり、社会的に死んでしまって経済生活がたちゆかなくなる、ということでもある。このバランスは、物事を深く知れば知るほど試練としてついてまわる、難しい問題だと感じている。
 
しかし、社会が変われば、この種の人工的な調整技術、というものも一気に無効化されるのかもしれない。今の時代はまさにその渦中だろう。

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