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力の美、生命の美①

冒頭から不穏なキーワードで一気に読む気をなくさせるかもしれないが、まあ呆れずに最後まで読んでほしい。

ブスという単語は、考えてみれば、その根拠が非常に曖昧なのに、相手に対する破壊力が強い単語のひとつだと思うのだけど、ふと、そもそもこの言葉はどこから来たのか気になった。

わたしは家にテレビがないから芸能には疎いのだけど、ブスと美人、という切り口から話をすすめるときに、ぱっと浮かぶ女優さんがいる。
それは引退した堀北真希さんだ。
彼女がたくさんメディアにでていた時の、ちょっと異常なくらい多くの男性からもてはやされていたことが、ずっとひっかかっている。
美しい女優さんは無数にいらっしゃるが、とりわけ彼女の取り扱われ方が強く印象に残っている。
彼女に対する美しさの演出手法が、どうしても人間らしさを抑圧した、形式・様式美、生気のない無機質な美しさ、に思えてならなかったからだ。

そう、なんで「ブス」という不穏なテーマからスタートしたのか。
それは「病」という定義そのものにかかわる根源的な言葉の魔力の問題だからだ。
 
ブスは漢字で書くと「附子」だ。
ある家の主が、使用人である太郎冠者と次郎冠者に、毒だといって貴重な砂糖を隠しておいたが、それがばれてすったもんだになる、というあのストーリーだ。
そして、あの毒が附子であり、トリカブト(アコナイト)なのである。
ブスという言葉の由来は、このトリカブトの毒によって顔の神経が麻痺してこわばった様子を指すところからきている、という説をおっかけてみよう。

日本語におけるトリカブトにも「兜」という仮面を想起させるイメージが入っているし、アコナイトで語源を追うと、「ダストのない状態」「もがき苦しむことのない世界(without struggle)」といった意味合い、それから「般若」がでてくる。
「ダストがない」、という状態に反射的に喜んでいる場合ではない。
均質で美しい、ということは、生きている揺らぎがなく死んでいる故のっぺりとしている、ともとれるきわきわの元型イメージだ。
「般若」も「お多福」も、ある表情で固まって静止したまま動かない「能面」であることに変わりはない。

ColBase: 国立博物館所蔵品統合検索システム (Integrated Collections Database of the National Museums, Japan), Public domain, via Wikimedia Commons


Sharaku, Public domain, via Wikimedia Commons

つまり、美人でないということをさししめす正しい元型イメージは、生気に乏しく、否、生気が伝わらないようわざと覆い、その人が自分らしく感情表現をしていないというイメージから来ていたはずなのだ。

ところが現代はこの「ある表情で静止している」ことが「美しい」ともてはやされる。
インスタ映えという言葉が流行ったけれど、美しい写真を取るために、用意周到に準備している光景はかなり滑稽である。
芸能人が取材を受けている風景の映像をみたことがある人ならぴんとくるだろうが、カメラのフラッシュが延々と焚き続けられている間、その1枚1枚全てに「完璧に美しく」映り込む必要性があるため、口角をあげた状態で、嬉しくもないのにその表情をキープし続けなければならない。

この記事を書いてから数年の間に時代はさらに進化し、精巧なゴムマスクやアプリによって、あっというまに整った美しさを手に入れることが可能となった。3Dプリンタもそうだが、ここまでかたちのととのいがお手軽になった時代、それでもまだ、整っていることに美を感じるだろうか?
どちらかというと、昨今は美を感じるというよりも、整っているのがあたりまえで、整っていないと怖い、という感覚になっていそうで不気味だ、とわたしは感じている。

そして、有名な四谷怪談のお岩さんも、このトリカブトを飲まされて死んだという説がある。
植物としてのトリカブト(別名アコナイト)の考察もとてもおもしろいので、これは後程各論でやりたい。

伊右衛門はお岩さんの表情豊かな動的な美しさ、生き生きした人間らしさという意味において、彼女に魅了され、愛さずにはいられなかったはずだ。そういう時期がなかったわけではなかろう。
だからこそ、その後に、偽の輝きに目を奪われ、お岩さんを葬ってしまったところに、世の根源的なキネシスとエネルゲイアの混線と、偽の魅力に惑わされる人の愚かさの元型イメージをみてしまう。
新しい女性は、見た目の美しさだけでなく、財力という意味でのキネシス的な魅惑も兼ね備えており、その両方にもっていかれてしまった愚かな男が伊右衛門なのだろう。
 
少し脱線するが、「おしゃれ」ともてはやされる「チルアウト」という概念も語源からおっかけると不気味である。一般的なイメージとしては、上質な音楽や空間でまったりくつろぐ、ついでにいうなら、そのムーディーさを利用して異性を手篭めにしてやれ、まで書くと言い過ぎかもしれないが、そういう「快い」ニュアンスに満ちている。
だが、もともとの語源は「教会の敷地=墓場」である。

ブスの音の元型イメージは結局、
麻痺に象徴されるように、静的な停滞、滞留、硬直の総称である。
しかも、あまり良い意味での塊ではない。
しかし、果実を愛でるキネシス的な人々は、なんでも固まっていればありがたい、と思う傾向にあるのかもしれない。固まっていれば果実として取り扱いが可能だからだ。


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