夏休み、釣り、ダブ/リミックス

気がつくともう8月も下旬に差し掛かっている。雑多なことにかまけてぐるぐる回っている間に時間がざあっと過ぎていき、つくづく恐ろしい。noteを書く間隔も開いてしまう。書きグセがなくなるとなかなか戻りにくい。ジム通いも同じだ。どちらもやり終わりの達成感や気持ちの良さを知っているのに、取り掛かって始めるのにすごく腰が重いのはなぜなんだろう。めんどくさがりの自分の気持ちをくみとりすぎず、適当にあしらうというか、無視同然で機械的に作業をスタートしたほうがいいのだ。終われば必ずやってよかったと思う。やんなきゃよかったと思ったこと、今のところほとんどないのだから。…明日は行く。


今年は2週間の夏休みをとったが、あまり大したことはしなかった。なんだかくたくたに疲れていたし、お金も節約したかったので。疲れていたのは、休みに入る前に夏フェスに行ったり、人が入れ替わり立ち替わり泊まりに来たり、娘の部屋の壁をペンキで塗り替えたり、そういうことが積み重なって消耗していたから。疲れというのは精神的だったり肉体的だったりもするし、本質的には必ずしも全てが悪いものだとは思わないけど、今回に関しては体も疲れている上に気持ちの余裕がなくなり、他人から丸投げされた事の後始末に追われて、自分の時間とエネルギーが消耗されているという感覚に強く捉われ、要するに被害者意識に陥ってしまった。自分でもそういう自分は嫌で、どうして他人のために喜んでやってあげられないのかという気持ちにはなるけど、人それぞれの許容範囲や限界もあるし、でもやっぱり自分の心が狭すぎる?なんて考えるうちに自分の中で板挟みになってしまう。

生物学的に言う女性の身体的特性として、月ごとのサイクルからの影響も少なからずあって(本当に本当にめんどくさい、誰の得にもならない)、一時的に心身の操縦が難しい感じになる。こうなるとなんか無性にひとりになりたくなっちゃうんだけど、実際のところそれは難しいので現実との折り合いがうまくつかなくなる。何かをやらなきゃいけない時、自分が本心で納得しているかどうかは、疲れ方に如実に現れる。限界まで関わらないようにしていたけど、結局自分がやらないと終わらないのが明らかになり、納得しないまま自分にムチを打つようにいやいや作業をすると、そのためにまたげんなりと疲弊していく。

良くも悪くも夏休みに入った初日と2日目はグロッキーだったので、心置きなくぐうたらする。それである意味スイッチをいったんオフにできた。娘もバレーボールの合宿で1週間不在だったから、まあおとなしくしてろということだったのだろう。


調子がまずまず回復してから、だんなとふたりでマス釣りに出かけた。自宅からは100kmくらいの深い山の中で、舗装もされていないでこぼこ道を小一時間登り続けたところに湖はあり、朝の10時から夜の7時前までボートに揺られながら釣り糸を垂れた。

こんな感じの山深さ

涼しい一日で、長袖のパーカにレインコートを重ねて着てちょうどよいくらいの気温だった。長さが1.5kmくらいの細長い湖にボートは2台しかなく、時間ごとでなく一日単位の貸し出しなので、つまり2組だけがこのじゅうぶんに大きい湖を朝から晩まで独占できるようになっている。

あたりには送電線もなく、使い古しの表現になるけれど手付かずの自然そのもので、がばりとした野生の環境の中には人工的なものがごくごくわずかしかなく、ある/いるのは、ほこりっぽい砂利道と簡単な標識と、いくつかの簡素な小屋と、釣りをしたい人間と、それを乗せている車や船くらいのものだった。それがどういうことなのかと言えば、ものすごく大きな広がりの中での自分たちの小ささと、圧倒的な「含まれている感じ」をはっきりと覚えるということで、包まれているとか受け入れられるというような甘ったるい感想とはむしろ逆で、本来の自然は分け入っても分け入ってもどこにもたどり着けないほどの途方もない奥行きを持ったもので、そこにただ含まれ、飲み込まれる。自然の中に入り込んで何かをするときは、力を抜いて遠くと近くを同じように眺めて、自分をそれ以上でもそれ以下でもない等身大で認め、必要以上に奪おうとする驕りを持たない、みたいなことだと思った。言語化するとなんだか理屈っぽくなってしまうが、その場にいると数秒で気持ちがふっと落ち着いて、すとんと腑に落ちて分かるようなこと。

湖にはモノトーンの体に赤い目をしたルーン(ハシグロアビ)が何羽かぷかぷか浮かんでいて、時折り長い鳴き声をあげる。その声は決して大げさに張り上げられてはいないのに、控えめでもしっかりと響き、いくつもの山々まで届いてひっそりとしたエコーが大気の中に広がる。

釣りの間、携帯を取り出したのは時間の確認のためだけで、写真もビデオも撮らなかった。我慢したのではなく、単にすっかりその事は意識から抜けていた。あまりに広大な実物を目の当たりにして、それをちっぽけでうすっぺらい記録データにしたところで満足できるとも思えないし。あの時あの場所では、デジタルなものが一切無価値で無意味に感じられた。

釣りそのものは、午後3時くらいまではまるでボウズで、だんなとわたしそれぞれが一度ずつ釣り上げかかったものの、水揚げ直前で逃げられた。鳥の声を聴きながらリラックスできていなかったらイラついていたかもしれない。男性2人が乗っていたもう一艘のボートでは、時折り歓声が上がっていて、釣れてるのね…とうらやましくなった。そのボートがはるか彼方にごく小さく見えるくらい遠くだったにもかかわらず、ふつうに話している声が聞こえてくるほど静かだった(内容まではさすがに分からなかったけど)。風が吹き抜けると水面が波立ち、風が収まれば水が鏡のようにぴたりと凪ぎ、またしばらくすると風が戻ってくるというのをくり返した。ふくろうが音もなく遠くへ滑空していくのも見た。透明でなだらかなスロープを滑っていくようにまっすぐに。

釣りは人間が力に任せて成果を奪い取るというのではなく、ただ魚がかかるのを待つより他にないという受け身の点において、そこがむしろ自然と対等であるような気がした。魚に翻弄されるのは、もどかしいようで不思議とおもしろかった。陽が傾き始めてからようやく、コンコンというあの独特の魚のあたりが竿に感じられる回数が多くなってきて、場所を変えながら何度もちぎっては投げを繰り返した。7時前まで粘ってなんとか釣れたのは5匹。もし続けていたらもう少し釣れたかもしれないが、これから灯りのない山の悪路を走って家に帰らなくてはいけないので、真っ暗になる前に引き上げることにした。

だんな3匹、わたし2匹

帰宅したのは夜遅くだったので、その夜はとりあえずエラから内臓までを取り出して、きれいに洗ってから冷蔵庫にしまっておき、翌日バター焼きにして食べた。淡水魚はたまに泥くさいことがあるけど、水がきれいなところの魚だから、そういうこともなくさっぱりしておいしかった。

しかし、釣りというのは汚れるものですね。釣り餌のミミズとか釣った魚とか、まあヌルヌルしてるし濡れてるし…汚さないように気をつけても無理なので、そこにおののいたりイライラするくらいなら、汚れるのは当然だから後で洗えばいいやと開き直るほうが早い。今回買った釣りのライセンスは来年3月まで有効なので、あと数回釣りをする機会を持てればと思う。ただ、船の釣りは妙に疲れるというのが今回分かったし、一日中船に揺られると、帰宅してからトイレに座ってもベッドに寝てもゆらゆらが続く。だから次回は水上でなく地上から釣りをしたい。


音楽に関しても疲れているとやはり消化・吸収に時間がかかるというか、あまり新譜の情報も追っておらずかなりマイペースな聴き方をしている。最近気に入った3曲。

ダブテクノっていう言葉にぴったりあてはまる、まさしく4つ打ちのダブ。途中でメロディカが入ってくるから、Augustus Pabloですか!となる。なんかもう好きなものしか入っていない弁当のように素晴らしい。Moritz von Oswaldなどに近いものを感じる。旧Twitterでフォローしている人が紹介していたアルバムなのだけど、その人は「もうしばらくこのアルバムしか聴かない」みたいなことを書いてたのに、数時間後には別のアーティストを褒めちぎっていたので、あれ?と思った。毎日3枚とか4枚違うアルバム紹介するし、その全てをまるで本命の彼女のように愛情たっぷりに解説してる。でも、何かを好きなエネルギーは気持ちのよいものだし、音楽の趣味もいいので、ちょっと「あーはいはい」と思いつつもがっつり参考にさせてもらっている。


これもダブ、偶然か必然か(単に好きなだけ)。昨年リリースされたPanda BearとSonic Boomの「Reset」をまるごとダブにしたアルバム。オリジナルアルバムでもこのダブバージョンでも「Whirlpool」が一番好き。Adrian Sherwoodがかけたエフェクトとかカットアップみたいな加工の部分だけじゃなくて、ギターのカッティングとかストリングスとかホーンセクションを新しく加えているのが素晴らしく、曲をさらにみずみずしく美しくしていると思う。Adrian Sherwoodはきっといくらでも手癖でちゃちゃっとかっこいいダブリミックス作れちゃうと思うけど、本当にひとつひとつの曲に入り込んでプロダクションをしていて、Panda BearとSonic Boomもこれはかなり嬉しかったのではなかろうか。彼らが昔のドゥーワップの音源から「Reset」を作ったようなスタンスで「Reset」から「Reset dub」を作ったんじゃないかなと思う。オリジナルへのリスペクトとクリエイティビティを感じるというところが。


Mahoganyというニューヨークのデュオが2006年にリリースしたアルバム「Connectivity!」、ジャンル的にかなりクロスオーバーしている音楽だなと思う。エレクトロニック? ドリームポップ? ポストパンク? シューゲイズ? チェンバーポップ? どれもそうかもしれないし、どれも違うかもしれない。この曲はよく聴くと微妙に変わったところがいろいろあるのに小難しい感じがなく、木漏れ日のような明るさと気持ちよい軽さ、そして何しろ女性ボーカルのBメロがすごく魅力的だ。胸を震わせる特別な何かがメロディの中にあると思う。ところでこの曲はふたつのバージョンがアルバム収録されていて、オリジナルの方が全体の音のレイヤーというかハーモニーの溶け合う具合が好きではあるのだけど、リミックスはあまりリミックスという感じがしなくて、ぱっと聞くと原曲の別テイクくらいの違いしかなく、ボーカルがもっとはっきり聞こえるように作ってあり、どうやらBメロ部分はオリジナルとは別の女の子が歌っていて、それがまたはっとするような透明感のあるガーリーさが際立つのがすごくいいんです。で、そのリミキサーはRobin GuthrieでfeaturingがLucy Belle Guthrieとクレジットされている。

少し調べて分かったのだけど、この2人は親子なんですよね。つまり、Cocteau TwinsのElizabeth Fraserのだんなさん(というか彼もメンバーですが)と娘さんがやったバージョンということでした。この声は、まぎれもなくカエルの子はカエル。娘さんはあまり音楽活動はしていないようなのが残念。

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