ねじれたとある一日

先週末、久々に家族3人だけでモントリオールまで泊まりがけで外出した。我が家はだんなの仕事が週末に入ることが多いので、全員が揃うことは実はめずらしい。娘も友だちがみんな微妙に遠くに住んでいて、さくっと半日だけ遊んで帰ってくるということがなく、土日に泊まりがけで誰かの家に行くことが増えた。もしくはうちに誰かが泊まりに来る。だから週末は2人だったり4人だったりする。1人足りないか1人多い。3人だけで、親戚の集まりとかでなく純粋なお出かけをするなんていつ以来だろう。

だんなの仕事がモントリオールの近くだったので、一緒に車で向かう。昼前に現地に着き、仕事が終わる夕方まで時間がたくさんあるから暇つぶしに映画館に行こうと娘を誘ったが、特に目ぼしいものがなく、娘はいろんなお店を見て回りたいと言ったのでそうすることにした。そうして入った古着屋で青のエアジョーダンが4000円くらいで売っているのを見つけ、娘がほしそうにしていたので買ってあげた。目的もなくぶらぶらとして、しらみつぶしにいろんな店をひやかし、疲れたらよさげなカフェに入り、気まずい沈黙もなくふたりでしゃべった。時間がゆっくりたらたらと過ぎていき、でも心配したほど間が持たないということもなくて、娘とこんな風に過ごすのは初めてのような気がした。こういう時間のつぶし方ができるくらい、彼女も大きくなったということなのかなと思った。

夜はチャイナタウンの近くのホテルに泊まる。夜は当然中華料理で、いろいろ頼んで食べ過ぎた。3人で冷たい風の吹く夜の街を散策する。けっこう歩いた。ホテルに戻って、ベッドに寝転がりながらホッケーの中継を見る。娘とひとつのベッドに寝るのも相当久しぶりだ。

しかしまあ見事に3人ともよく眠れなかったのだった。わたしは出先での睡眠にそれほど苦労しない方なのだけど、この夜はこれまでの人生でいちばん難儀したかもしれない。風邪をこじらせているだんなのいびきと、娘とのかけぶとんの争奪戦と、隣室から聞こえる話し声のせいで、眠りが常に浅かった。ぐったり疲れて起床し、シャワーを浴びる。

それでも気を取り直して日曜朝のDim sumをやっているレストランに行く。11時ごろに並ばずに入れたがかなり賑わっていて、わたしたちより後に来た人はかなり待たされていた。働いているのはみんな中国系の人で、おばちゃんたちがワゴンを押してやってきて、それぞれが運んでいるものを見せてくる。意思の疎通は難しく、そういうものだと思って楽しむしかない。がやがやとした雰囲気の中、落ち着かないながらもおいしい点心や一品料理をたらふく食べる。最後に蒸したてのマーラーカオを頼むが、15分かかると言われ、楽しみに待つ。やっと出来上がってきたほかほかふわふわの蒸しパンをせいろから取り出して切り分け、3人でむさぼる。お腹いっぱいになった。

その後せっかくモントリオールにいるんだから、ということで、ノートルダム大聖堂へ行く。ここは娘が産まれる前に、日本から遊びに来てくれた友だちと行った以来なので15年ぶりくらいになる。セリーヌ・ディオンが結婚式を挙げたのはここ。

15年前もこんなふうに青かった
この細かさ…狂ってる

荘厳としか言いようがない。当時の技術と贅の限りを尽くした装飾は偏執的なまでに細かく、狂気を感じる。天井の木枠もよく見るといろんなモチーフの連なりで構成されているし、聖堂の左右に束ねられた細い柱にはただ塗料をベタに塗りたくったようなものは一本もなく、全部色違いかつ統一された細かい模様がびっしりと描き込まれているし、当然すべて手作業なわけだ。そして全体的につんつんとげとげしている。気の遠くなるような時間とエネルギーがかけられていて、もうほとんど執念や怨念に近いものを感じる。400年ほど前の当時のカトリック教会が人々に持っていた支配力はものすごかった反面、苦しい生活の中の揺るぎない拠り所でもあったわけで、ここまで綿密に確固とした物語(聖書)に基づいた世界観が提示されていると、娯楽も選択肢も少なかった当時ではかなりの影響力があったのも無理はない。教会の支配下で暮らしの様々な事柄を決定されて、同時にそれに救われてもいて、いろんな儀式におけるカタルシスやある種のトランスもあったんだろう。

ここまではよかったのだが、教会を出てから次第に3人の間に流れる空気が険悪になってきて、とうとうだんなが「もう家に帰ろう」と唐突に言い出して滞在がぶっつりと終了する後味の悪い結末になった。今になって客観的に見ると分かるが、寝不足という土台に、3人の間のこまごまとしたやりとりの中に隠れていた些細なトゲが朝起きてからずっと積もり積もった上に、教会から出た時の予想以上の寒さのパンチをくらい、全員がいっそうグロッキーになってしまったように思う。だんなは3人の中で一番アッパーな人種なので、彼がこういう言い方で何かを終わらせるのは相当憤っている証拠ではある。その後、車内でも彼は不満の丈をぶちまかした。家族といるより友だちといるほうがよっぽど機嫌よく楽しくいられる。でもそんなのはおかしい。久しぶりの家族水入らずの遠出でこんな事になるなんて俺は悲しい。

わたしはひどい人間なので、だんなの気持ちは分かるけど、今この状態で議論しても状況がよくなることなんかないしむしろこじらせるだけ、取り繕うだけ無駄だと思ってあまり口を聞かずにいた。そしたらいつの間にか眠ってしまった。おそらく45分くらいしか寝なかったけれども、目が覚めたら心身ともにとてもすっきりしていた。運転していただんなは3時間のドライブの間ずっと眠気をこらえていて、家につくなり一言も発さずにベッドに倒れ込んで気を失っていた。

家の冷蔵庫に牛乳がなかったので、明日の朝のために買いに行かなきゃと思った。さっきの居眠りですっきりどころか元気すら出てきていたので、どうせならスーパーに行くついでにジムに行ってやる、と思い立った。この2日間、豚のように食べていたから少しでも摂取したカロリーを燃やそう。あんな一件の後で気分は決してよくはなかったけど、妙に気がたっていて家にじっとしていたくなかった。車の中でSurgeonの新譜を音量を上げてがんがんかける。

Surgeonは自分の音楽が午前2時のダンスフロアだけじゃなくて、家族げんかの後いきりたってスーパーに買い物にいく主婦の車の中で爆音で聴かれているのを知っているだろうか。許せ、君の音楽にはそんな効用もあるのだよ。

スーパーで牛乳やら何やらを買い込み、トランクに詰め込んで隣のジムに行く。気温が0℃前後の時は気楽に生鮮食品を車に置いたままでいられるのがいい。ジムでマシンを漕いでいる時はライブの映像が見たくなるので、KEXPのTR/STのスタジオライブを見る。

このスタジオライブの時、ボーカルの人がエキセントリックで、どこか無防備でぽやんとしていてかわいい。そこに加わるタイトなドラムと安定感のあるキーボードが2人ともかっこいい。とてもシンプルな編成だけどディープで、3人とも楽しそうだ。願わくばこの曲も見たかった。

この曲を聴くたびにぐっと引きこまれる。重くて陰鬱で、甘美で官能的だ。すごくソリッドで太いのに、なんともいえない繊細さというか剥き出しのあやうさがある。このボーカルの人が、いわゆる歌のうまい人でなく美声でもないところがそう思わせるのかな。Depeche Modeなんかは、あの艶のある完璧なボーカルが隙のないばっちりとしたトラックのかっこよさに、寸分の狂いもなくはまっている。TR/STは音の世界観としては近い気がするけれど、ボーカルの音楽的な不器用さや不完全さというか、整えられていない表現だから余計に脈の打つような赤裸々な何かを伝えてくるような気がする。わたしはそういう技巧的な所から外れて訴えかけてくるものにてきめんに弱い。

とりあえずすっきりとして家に帰る。だんなは起きていたがまだ疲れていたようで、リビングのソファに腰掛けてぼんやりとしていた。ふたりでテレビを見ながら今日の一件についてぽつぽつと話す。話していくうちに、お互いが相手の一番の弱点というか急所を突くような言動をしていたことが分かった。それもどちらも無意識のうちにだ。それは家族であるから知っている種類のことで、家族というのはこうして的確に相手を傷つけ沈めてしまうことができるのだなと感じた。友だちだとやはり他人であることが大きいからどこかでストッパーがかかるだろう。生活の空間を共有する相手に対する親密さや身体的な距離感の近さは、こういう侵害を許してしまう原因になりうる。時にはそれが功を奏する場合もあるけど、暴力になることもやはりある。

でも、終わり方が気まずかったからって、それまで楽しく過ごせた時間までなかったことにするような全否定はしなくてもいいんじゃないの、と言った。やっぱり寝不足で疲れていたのはでかいのだから。眠い寒い腹減った、そういう時に人間の本性が出る、というのは個人的に好きな考え方ではない。さっきは眠いのと寒いのは当たってるけど腹は一杯だったが。多かれ少なかれ人間はもれなくいびつな存在で、それでも調和を求めて、知恵や思いやりを使いながら他人と関わっていく。それをうまくできない状態の時に起こった事故に対して「それがそいつの本性だから」というのは単に意地がよくない。ひとりひとりがそのいびつさを認めて、傷つけた相手に謝ることでしか、人間関係をうまく続けていくことはできないような気がする。謝ることと許すこと。他人より家族相手の時の方がいっそう難しいような気もする。

どんなに家の外によい友だちを見つけようと、そしてそういう友だちが一番の理解者になっていこうと、わたしたちが家族であることは変えようがない。理解し合えなくても家族なのだ。それを受け入れて、ある意味開き直って、3人で目指せるベストの形に近づいていこうと努力するしかない。ひとりしかいない父、ひとりしかいない母、ひとりしかいない子。それぞれいびつな3人はあきらめて、やれやれとおやすみのハグをする。面倒くさいが、それである程度は大丈夫な気持ちになるのも事実だ。そう大丈夫、牛乳はちゃんと買ってある。明日の朝は大丈夫。奇妙にねじれた一日をこうして終わりにする。

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