夏も秋もいってしまう
朝が暗い。7時なのに夜明け前のようで、間違って真夜中に起きてしまった時のような困惑した気分になる。8時になるまで暗すぎる。毎年この時期が好きではない。一日を始めるのに朝が明るいというのは大事だ。天気がどうであれ、日が昇っていればその最低限の明るさはある。今それがなくて、夏時間が終わるまであと一週間はこれが続くと思うとちょっとゆううつだ。
忙しい日々の中で、意識があっちこっちに飛びまくりつつも、ぐっとくる瞬間はそれなりにあり、そういう断片的でまとまらない思考を、雑なままスケッチする場所としてnoteを使いたいと思っているので、ざざざっとでも走り書きたい。そうでもしないと日本語で書くということをしないまま10月がいってしまう。季節を見送ってばかりいる。
うーん、「忙しい日々」ってあまり考えずにつるっと書いたけど、ほんとに忙しいのかな自分。要領がよくなくて捌けないというのがあるだろうな。あとは人生における登場人物(生物)が自分のキャパに対して多いような気もする。若干持て余し気味というか…でもたぶんそのお陰で引きこもらず、わたしの社交性はなんとか保たれているのかもしれない。引きこもりたくなる時、たまにあるんだけど。寒くなると余計に。
10月の頭がとても暖かくて夏をやり直ししているようだったが、まあふつうに秋、ちゃんと来た。
そろそろカーポートも組み立てないとな。寒いと手がしびれるから、天気のいい日にやりたい。庭の枯れた鉢植えもいいかげん整理しなくては。車のタイヤ交換はあさって。ブーツやコートも出さないと。冬支度を少しずつきりきりと締めていく。この土地の冬は、えぐくて美しくて呆れるほど長い。
秋ということで、毎年恒例のいくらを作った。鮭はこちらでももちろん取れるけど、筋子が出回ることがないので、日本から来た急速冷凍の筋子を使う。解凍した筋子でもおいしくできるものです。色はくすむが醤油漬けがうまい。ひと腹2、3千円くらいする筋子でだいたい1合のいくらができる。
娘がいくらを好きだから作るようになったけど、日本では作ったことがなかった。むかし父がたまに作ってた記憶があるけど、あれはもしかしたら父本人とわたしのためでもあったのかもしれない。まだ小さかった頃、いくらはわたしの大好物だった。
今年で中学3年生になる娘の学校の新年度が9月から始まった。最初の2ヶ月はいつもばたばたするが、今回は特に部活に関していろいろあった。
小学2年生ごろから、娘のやるスポーツはサッカーだった。娘に限らずこちらの女子のサッカー人口はかなり多くて、夏に外でやるスポーツとしてかなり馴染んでいる。ずいぶん長いことサッカーを毎夏やっていたのだけど、わたしは彼女の性格がサッカーに向いているとはどうしても思えたことがなかった。だから毎年春先になって「今年もサッカーやる」という彼女の意向を知るたびに、へえっ、まだやんの、と少なからず驚いていたのだった。そもそも彼女のサッカーへのモチベーションは、スポーツそのものというよりも慣れ親しんだチームメイトと一緒にやることに重きが置かれていたのは知っていた。ただ、スポーツとして娘に向いているのは本当はバレーボールなんじゃないかとわたしは何年も前から思っていて、実際に一度か二度は彼女にしれっと言ったことがあるような気がする。でも本人からの反応はあまりなかったし、親の自分から押し付けたり変に影響を与えたりはしたくなかったので、それ以降は黙っていた。
しかしある程度の年齢になってから、娘はバレーボールに興味を持ったようで、自分の方からやりたいと言い始めた。それが去年の今頃で、通っている学校のバレーボール部に入ろうとしたのだけど、定員に対して希望者が多く、未経験だった娘は選考を通らなかった。それで市内にひとつだけあったクラブチームのトライアルを受けて、そこになんとか選ばれてようやく定期的にバレーボールをやる環境を手に入れることができた。
やや内気なところのある娘は、すでに何年か経っている出来上がったチームに溶け込むのに少し時間がかかった。ふたりいたコーチはどちらも熱心な指導者だったので、娘は基礎から学んでいくことができたのだけど、そのうちのひとりからはあまりよく思われていないのを折に触れて感じさせられることがしばしばあった。試合の途中で理由がよく分からないまま交代させられることが何度もあり、それに対してどうしてなのかと質問したのをよく思われなかったのかもしれない。後味の悪いまま、春の終わりに最後の大会が終わった。
そんなことがありつつも、今年もまたそのクラブチームで続けたいという気持ちが本人にあった。もう一度選ばれるためにもっとうまくなりたいということで、夏休みの間はビーチバレーを週2でやり、1週間泊まりがけのバレーボールの夏合宿にも参加して、身内のひいき目を差し引いても娘はずいぶん上達していたと思う。はたから動きを見ていても、体にしっかりと基本が染み込んでいるのと、自信がつき余裕がでてきたのが分かる。まったくの初心者だった去年の比ではない。
それにも関わらず、トライアルが始まって1時間あまりで娘は選考に落とされてしまった。今年は例年になく競争率が高いというのはわざわざ前もって告知されていたが、2日間を予定しているトライアルの初日たった1時間で切られてしまうというのはまったく予想していなかった。娘に落選を告げたのは例のコーチだった。
明らかに動揺した娘の電話を停めていた車の中で取り、わたしもどうしたものかとしばし戸惑ってしまった。しばらくすると娘は車に乗り込んできて、全っ然わけ分かんない、自分よりレシーブが取れない子がキープされてるのにどうして自分が先に落されるんだ、夏じゅうずっと練習してきたのに、という言葉を繰り返し気持ちを高ぶらせ、次第に感情が涙になってあふれはじめた。
願いが叶わず傷ついて悲しむというよりも、不可解な事実に対する怒りがまずそこにあって、娘は憤り、嘆き、激しく叫んでいた。彼女がこんな状態になっているのは今まで見たことがなかった。その取り乱した圧倒的なエネルギーが炸裂するのを隣に感じながら、車のハンドルをにぎり続けた。
ただ、はっきりしていたのは、彼女はこのことによって損なわれてはいないということで、もし娘が今回のことで押しつぶされ、打ちのめされてしまったとしたら、こういう感情の爆発にはならずにもっと弱々しく力のない泣き方になるだろうと思った。この嵐のような感情が過ぎた後に娘はどうなるんだろうと思いつつも、こんだけのパワーがあれば意外と大丈夫なんじゃね?と思わせる底力のようなものを感じた。が、いやいやこのタイプの挫折は娘の人生で初めてだろうからやっぱりわからん、のらりくらりやってきた彼女がけっこう本気でがんばっても報われなかった打撃はでかいだろう、などとわたしの中でもいろんな思いがぐるぐると回る。ひとまずこんこんと湧き出す娘の激情は湧き出すに任せておき、しばらくの間は聞き役に徹した。娘は怒り泣きわめきながらも、汚い言葉をあまり使っていないのに内心驚き、感心もした。いくらでも知っていて乱暴に吐き捨てることはできるとは思うが。
すでに帰り道の車内からだんなとは電話で会話をしながら戻ってきたので、親にぶちまけることはあらかた尽きたらしく、娘は家に着くなり今度は友だち3人とビデオのグループ通話を始めた。その友だちのひとりは失恋したばかりだったようで、そこに娘が加わり3人はずいぶん熱心におしゃべりをしていた。夜おそくまでそれが続き、時折アハハハという笑い声が娘の部屋から聞こえてきた。
で、まあ見事に娘の精神は復活した。どうなるかと思ったけど、翌日にはもう落ち着き始めて2日後にはほぼ平常運転だった。車の中ですごかったからちょっと心配したよ、と言うと「ああいう時は我慢しないで気持ちを表に出すようにしてる。そうしないとずっと自分の中に残ってよくないって分かってるから」と娘は答えた。ふむ、14歳なりに自分のやり方というのをすでに見つけていたらしい。感情に振り回されているように見えたけど、こじらせないためにあえて解放していたということのようだ。実際に回復は早い。へえ、やるじゃん。
どんなにそれを欲しいと願って、自分のできる最大限の努力を誠心誠意やったとしても、手に入れられないことは起こりうる。わたしの場合は大学受験がそうだった。その話をしたら「それはバレーボールよりもっと深刻だよね」と娘は言ったが、実際はどうだろう。18だったわたしは第一志望から第三志望までをその大学にしても不合格になり、当然いたく落ちこんだが、いわゆる有名どころに受かるには力不足だったというのを最終的には自分のこととして引き受けて理解できた。娘の場合はひとりの大人との不和によるところが大きく、相手の主観や権限によってひとつの可能性が絶たれるという理不尽を14歳で経験するというのはやはりきついだろう。親としてはこういうことをこの年齢で引き受けさせるというのは、避けられれば避けたかった。例のコーチにはこちらから落選の理由を丁重にたずねてみたが、雲をつかむようなはっきりしない回答しか得られなかった。真正面から娘に足りないものをちゃんと伝えてほしかったが、ごまかされて逃げられたというような印象しか残念ながら持てない。
結局、娘はその後学校のバレーボール部に入部できたので、むしろよかったような気はする。それも去年のクラブでの経験があってのことだし、12人限定と言われていた枠に13人目として特別に、しかも唯一の新入りとして選んでもらえたので、彼女の自尊心も多少は満たされたであろう。降りかかる出来事はひたすら受け止めていくしかないけれど、表面的な良い/悪いよりも少し深い所にある小さな結晶のようなものをつかみ取っていくことはできる。娘にはそれを大切にしていってほしいし、彼女はそのやり方を自分で見つけようとしている。
音楽のこと。ちょこちょこいろいろと聴いてるんだけど、ちょっと上すべり気味かもしれない。特に残ったものだけ。
2018年、仕事の休憩中にコーヒーを飲みながらラジオを聴いていたらKurt Vileの「Bassackwards」がかかって、意識が音の中へ吸い込まれて全身がものすごいリラックス状態になり、10分近い曲があっという間に終わって本当に驚いたことがある。運転中に聴かないほうがいいくらい。同じくやばい弛緩系のAphex Twin「Selected Ambient Works Vol. II」は川を渡って向こう側に行きそうになるのに対して、Kurt Vileはいつまでも海を眺めている感じだった。現世といえばまるっきり現世ではある。で、彼の新曲。ぜんぜん新しい感じがしない。ほめています。おろしたてなのにすでに古着のようなくったりとした安心感。彼はいつも彼。わたしの中には彼だけのための椅子がある。
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Burialの音はメタリックでモノトーンで、冷たい霧雨が降る深夜の街を、パーカのフードを深くかぶって足早に歩く感じがする。女性シンガーの歌声を織りこんで曲が作られていることが多いけど、そのエモーショナルな歌声も「素材」感が強い。この人の音像はシリアスな中にもリリカルでロマンチックなものが忍ばせてありながら、安っぽい共感を拒絶するような、どこか人を寄せつけない距離感を常に感じていた。
でもこのEPはちょっと違うように聴こえる。もう10年近く前のリリースで、ついこの間まで聴いたことがなかったのだけど、自分がBurialに持っていたその「人を寄せつけない」イメージを覆された。特にラストの「Come Down to Us」の前半部のメロディはセンチメンタリズムだだもれで、シタールのリフと重ねられてはいるが、こんなに甘美な旋律がディストピアなBurialの曲から、敢えて言えば「恥ずかしげもなく」聞こえてくるというのがどこか信じられなかった。ここ数年で聴いたあらゆる音楽のメロディの中でも、一番と言えるくらい訴えかけてくるものがあり、何度も繰り返し聴いた。優しく手を差し伸べてくるような慈悲にあふれている感じがどうしても気になり、ネットで調べたらPitchforkの記事で2013年リリース時のBurial本人からのコメントを見つけた。
取材をあまり受けないBurialがわざわざこうしたコメントを発表したのにはおそらく意味があって、このEPのリリースはクリスマス前でもあり、あの清らかな響きはまさに苦しんでいる誰かを救いたいというBurialの真摯な思いに裏付けされていたのかもしれないなと思う。なぜかというと、欧米では年末年始ほど明暗が分かれ断絶が深まることがあるから。人々が身内で集うにぎやかなクリスマスや大晦日は、誰にも言えない悩みや問題を抱えている人たちにとっては逆に孤独がいっそう募るつらい時期でもある。
このEPは目を閉じて映画を聴いているような気分になる。作った本人の頭の中にはどんなイメージがあったのだろうと思うが、レコードをかけている時のようなざらついたノイズが被せられ(Burialはいつもそうですが)、音楽はしばしば途切れ、がたん、がしゃん、という硬い雑音や沈黙が独特なタイミングで挿入されていて、単にビートをノンストップで垂れ流すことを拒み、聴く人の意識をつかむような展開をする。ふいに言葉の断片が投げ込まれ、聴き手は立ち止まって耳を澄ませ、考える。聞き流すということができない。
「Come Down to Us」のラストにはとあるスピーチが引用されていて、Factの記事にあるリンクから飛んでYoutubeで見ることができた。
語り始めはシャイで軽めのジョークを連発しながらも、スピーチはだんだんとシリアスになっていき、最後には胸を打たれた。この人も著名でありながら自身のプライベートを語るのは避けてきたが、苦しかった10代の過去を振り返り、もし当時の自分のように傷ついている誰かを救うことができるのであれば、と公の場に自分の言葉を差し出すことを選んだ。
Burialが彼女の言葉をEPのしめくくりに使ったのも、大きなインスピレーションを受けたからだというのが伝わる。どちらも、自分以外の他人をいたわり、思いやること、そのために自分の柔らかくデリケートな領域を開いて、惜しみなく捧げている。それは一部の隙もなくクールでいることよりもずっと難しいはず。クリエイターがそれぞれひとりの人間としてメッセージを送るということの意味を考えさせられた。
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