確かめたいの

3月になって、ずいぶん日が長くなったなと思う。今週に入ってからは気温も日中は1桁にまで上がるようになった。透明で大きなつららがいくつも軒先に下がっていたが、それもなくなってきた。今夜にはまた-10℃まで下がるようだが。

その今夜、サマータイムも始まる。土曜と日曜の境目あたりでひっそりと失われる1時間がある。覚え方としてSpring ahead, fall back というのがあって、季節と動詞のダブルミーニングがうまくはまっていてこれは忘れない。春は時計を1時間早く進める。だから今夜はいつもより早く寝るか、明日の朝1時間遅く起きるかのどちらかになる。

サマータイムというのも名前だけで、サマーって感じはまったくしない。この冬のこれまでの積雪が270cmを超えたらしく、この雪が解けてなくなるまでにはまだまだ時間がかかる。家の玄関にたどり着くアプローチの左右にも雪の壁がそびえていて、先日、遠方からうちをたずねてきた人に「イグルー(かまくら的なもの)みたいだね」と言われた。

とはいえ、やっと、やっと3月になったので、ある朝にArt Garfunkelの「Waters of March」をかけてもらった。

オリジナルの「Aguas de Marco」はけっこうテンポが早くてウキウキ感があるけど、このArt Garfunkelのカバーは少しゆっくりめで心地よい気だるさがある。いろんな事柄があまり脈絡もなくただそのまま視界や意識を通りすぎていくように淡々と歌われていて、Art Garfunkelのなんとなくタラタラした歌い方も曲の力の抜けた感じに合う。朝からこれを聴いて、その日はなんとなく気持ちだけはおだやかに過ごした。


かれこれ4ヶ月になるが、大学での本職のかたわら、副業というかパートの仕事をしている。別に一念発起で起業したとかでなく、パートというのが我ながら小者だなとは思うが、市内にアナログレコードのプレス工場があって、どうしても気になって仕方がなかったので、求人もしていなかったのに仕事くれーと飛び込みで履歴書を持ってドアを叩いたのだった。それが去年の11月の半ば。

この会社のことを知ったのは2年ほど前になる。しばらくして働いてみたいという気持ちがうすぼんやりと湧いてから、実際に今回の行動に移すまでには実際のところ1年近くもかかった。

以前のnoteにも書いたけれど、今の音楽業界でアーティストが正当な報酬を手に入れるためにどうしたらいいか、自分ができることは何なのかを、昨年の秋にもんもんと考え問い続けた結果、わたしは貧乏なのでいち消費者としては弱すぎて貢献できることがほとんどないから、音楽の経済活動がうまく回る手伝いをする方が得策なのではなかろうか、しかしメディア業界に入る気にはまったくないしどうしよう… 待てよ、そういやあのレコードの工場だったらなんかできるんじゃね?と思い付いたのだった。

わたし自身は学生の頃以来レコードを買うことも無くなってしまったけど、今の世の中でアナログレコードという商品がどういう風に作られて世の中に出回っているのかを見てみたい。それまでのぼんやりとした興味にいきなりピントが合って、行動に移す正当な理由が与えられたような気がした。

しかし家計を支えるためにも、本職の大学事務の仕事を辞めるとか時間を減らすという選択肢はなかったので、週35時間の勤務時間はキープしつつ、日数をつめて1日あたりの就業時間を長くするというHoraire compresséというのを使い、毎週月曜を休みにしたいと上司に申請した。この制度を使っている同僚がいて、2週間おきの金曜日に1日休むというのを長いこと隣で見てきたが、わたしはそれまでまったく興味がなくて本当に他人事として傍観していた。それが、思い付いてから数日のうちに自分が正式にその手続きをしているのが不思議だった。自分もそれをやる日がくるとは思わなかった。期間外の申請にも関わらず、それはすんなりと許可された。

それでも工場に持っていくための履歴書の手直しをしているうちに、なんだか妙に恥ずかしいような怖気付いたような気持ちにもなり、まじ?まじでやんの自分?とも思ったのだけど、なんで恥ずかしいのかなと考えると、求人もしてないのに自分から押しかけていくのだから、ウチは間に合ってますと言われちゃう可能性も当然ある。もし断られたら、やっぱりそのことで多少は気持ちがへこむだろうなという予想ができた。仕事探しは何度やっても慣れないし、自分の市場価値を測られるような気がする。それがやっぱり気持ちが揺らぐ理由なのだろう。

でも、振り返ってみると今この行動を起こすためにいくつかの要素がタイミングを測ったように整ってきていた。自分の中に目覚めてきた思いがあって、毎週月曜は本職を休みにできた。それに加えて、そのプレス工場の正体がつかめてきたというのがあった。会社のWEBサイトはずいぶん長いことcoming soon… とだけ記されていて、soonっていつだよ、とずっと思っていたのが、去年の夏あたりからfacebookとinstagramのアカウントがHPに同期されて、どういうものを作っているのかが分かるようになってきたし、Google mapに寄せられていたユーザーのコメントもおおむね好意的なものだった。ローカルのテレビ局やメディアにも何度か取り上げられていて、地元の音楽産業をバックアップするためにケベックのアーティストのオーダーは優先したいというような意向も述べており、いい志を持った会社なんじゃないかなという印象を受けた。少し前までは、本当に正体がよく分からなかったので。

こんなふうに状況が自分の気持ちを後押しするように動いてきたのだから、今回はこの直感みたいなものを信じてあげてもいいんじゃないかなと思った。わたしは仕事は縁がものを言うと個人的に考えていて(縁故という意味ではなく)、必ずしも自分の実力だけで決まるものではないように思う。そもそもどんな仕事をできるのかも分からないで押しかけるのだから、断られたことを自分の実力不足だと捉える必要もない。最悪断られたとしても、月曜が休みになって自分の時間が増えるのだからそれはいいじゃん、と軽く考えることにして、ある日の夕方、Neko Caseの力強い声を聴きながら背中を押してもらっている気分になりつつ、工場まで車を走らせた。

超緊張しながら工場のドアを開けると、すごい騒音の中でひとり働いている男の人がいた。アポなしで行ったので少し驚かせてしまったようだったが感じよく出迎えてくれた。その人は従業員で、オーナーはすでに帰宅してしまったと言われたが、印刷した履歴書を受け取ってくれて、必ず渡すからねと言ってくれた。それから1週間くらい経ってからオーナーから電話で連絡があり、後日カジュアルな顔合わせと工場内の見学(小さいので5分くらいで終わったが)をして、じゃあ来週から来てくださいということになり、12月から働き始めた。

オーナーは2人いて、彼らは兄弟でわたしより少し年下だった。4年前に起業したのは兄の方で、その後ある程度工場が軌道に乗ってから、当時は市の職員だった弟も一緒に働き始めたらしい。履歴書を受け取ってくれた人はもともと2人の友人で、フルタイムで勤務してレコードのプレスを担当している。わたしはパートなのでレコードの梱包(スリーブやジャケットに入れ、シュリンクラップという熱で収縮する透明なフィルムで包んだ後に箱づめ)を担当することになった。

働き始めた初日はオーナーのご両親がいて、主にお父さんの方にいろいろと教えてもらった。2人はもう定年退職していて、自分らの息子たちの起業時から最低賃金で工場を手伝っているのだと言っていた。こちらの年配の人たちがよくやることなのだけど、年が明けたらフロリダに何ヶ月か行く予定だから、直前にわたしが入ってきたのはちょうど好都合だったらしい。

こんな家族経営の工場で作られているレコードもあるのだ、というどこか新鮮な発見があった。わたしの頭の中には、音楽業界の人たちに対してなんとなくおっかない印象を持ってしまう傾向というか、スノッブな人だったらどうしようというステレオタイプがあったのだけど、実際のところ、お父さんとお母さんとお兄ちゃんと弟が、和気あいあいと仲良くレコードをプレスし、包装して出荷している。どの人も気さくでさっぱりとしていて、上から目線なところもなくすこぶる感じがよい。他にもう2人わたしのようなパートの従業員がいて、全部で8人というこぢんまりしたチームではある。

職場ではロットごとの音質チェックのためにその時プレスをしているレコードがターンテーブルに乗せられる。だいたい1分もしないうちにチェックが終わるのですぐ止められてしまうが。仕事を始めた頃にプレスしていたのは、とあるジャズのボックスセットの中の一枚で、この曲のイントロを1日に何十回と聞いた。フルートのトリルが小鳥のさえずりのようですごく陽気な曲だ。

週に1度出勤するたびに作っているレコードは変わる。ジャズはこの4ヶ月で一番多く聞いたジャンルかもしれないが、ヒップホップもブルースロックもネオクラシカルもインディロックもあった。だから本当にその都度ばらばらだ。普通の黒いレコードもカラーヴァイナルもある。透明なやつはまだ当たったことないから、ぜひいつか手に取ってみたい。

オーダーの規模もいろいろで、アメリカからくるボックスセットの企画のような大口の契約もあれば、地元のアーティストの小規模ロットのプレスもある。レコードを作るのにいくらかかるものなのかと聞いたら、一番少ないプレス数(200枚)でデフォルトのパッケージの場合は1枚あたり12$らしい。売価が25$前後のものが多いだろうから、原価率50%というところか。できるだけたくさんの枚数で発注かけた方が当然かかるコストは下がるから、売る側としてはプレオーダーでなるべくまとめて、なおかつ在庫が余りすぎない量をプレスしたいという意向はあるだろうなと思う。

でも教えてもらった業界のデータによれば、アナログで売れるのは新譜よりもカタログ(旧譜)の方がダントツに多いらしい。まあそれはなんか分かる。なぜわざわざアナログレコードを買うのかと言ったら、「配信なしヴァイナルのみ」というリリースでもなければ、やっぱり聞き込んだ思い入れのあるアルバムをフィジカルでほしいからという理由が多いだろうし。でもそれってインディのアーティストが新譜をアナログで出してもあまり儲けにはならないということなのか。いろいろ考えさせられる。

わたしは実際にその現場に入って、確かめたかったのだと思う。まだ4ヶ月しか経っていないし、一部しか見えない所にいるので知らないことばかりだけれど、週1回の梱包だけでも関心を持ってやり、オーナー2人に質問したりしているうちに、アナログレコードを取り巻く状況について以前より理解できるようになってきた。それに、実際に盤やジャケットに何百枚と触れているうちに、アナログレコードの良さは理屈でなく分かってきた。音楽が実在的な形と重さを持って存在している感じがする。サブスクはとても便利だけどどこか軽薄なのだ。今ではその存在感と手ごたえに魅了されてしまい、プレーヤーも持っていないのにとうとういくつかのアルバムのアナログ盤を買ってしまった… まあこれで消費者としても少し貢献したことになるだろうか。


そろそろ眠ることにしよう。目が覚めたらあったはずの1時間がなかったことになっている。いや、なかったはずの1時間があったことになっているのか?眠気の回った頭で考えてもちょっと分からないな。とにかく、明日の朝にはもう夏時間が始まっている。

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