種まきハイ

ぜんぜん筆が(キーが)進まない1週間があって、書き始めた時と状況が変わったり進んだりしたりところがあるなと思う。なんだか他の誰かの日記を読んでるようにすら感じるところもある。


4月下旬。仕事からの家路、車を運転していたら空にVの字になって飛ぶ渡り鳥の群れを見つけた。

こういう渡り鳥の中に飛びながらぽへぇ、ぽへぇ、と鳴くのが2、3羽くらい必ずいる。飛びながら鳴くのって疲れそうだけど、野生の鳥がわざわざやるのだから理由があるんだろう。視覚よりも仲間の声を手がかりについていくとかなのか。鳥は体内磁石で自然とゆくべき方角が分かるのだとは思うが、それでも群れからはぐれたりばらばらにならずに、みんな共に旅を続けているのだし。

やっと春が来たなと思う。渡り鳥は寒さが終わるとやって来て、冷え込み始めると南に急ぐ。そのたびに鳴きながら空にV字を描いて飛んでいく。


春がきたらやることといったら種まきだ。いつも5月に入ってすぐの頃にまく。2週間ほどで芽が出てきた。これまで例年は冷え込む夜間に室内へ取り込んでいたのだが、今は猫がいるのでそれをやめて、基本的には夜も外に出したままだったから、芽が出るまで少し時間がかかりとても待ち遠しかった。

双葉は本葉と違って、その植物の特徴の部分がなくて匿名的で素朴な造形をしている。

トマト
スイートピー…って言われてたアソートの種で一番小さかったやつ、どう見てもカラスノエンドウだろこれ
きゅうり、ズッキーニ

この他にもいろんな種をまき球根を植え、それに昨年の宿根草・多年草も掘り返して鉢上げしたので、庭に大小30個以上のプランターが並んだ。冬がえぐい高緯度の亜寒帯に暮らしている人間にとって春の太陽はドラッグなので、それを浴びながら種まきハイになる。このプリミティブなドライブ感、天気がよくてあたたかいというだけで。体が自動的に作業する感じでさくさくというかオラオラ進めたものの、日が暮れてきたらすごく疲れた。毎日鉢を眺めるのが楽しい。あとは朝顔、ひまわり、いんげん、スナップえんどうなんかもまく予定。

でも、今年はふと「うちに春の訪れを告げる花がないのはさびしい」と思ってしまった。種まきや鉢上げは春が来てからとりかかるので、それだと花が咲くのはどうしても夏になるまで待たなければならない。そうじゃなくて「これが咲いたら春」という「うちの花」がほしい。温室で咲かせたやつを買ってくるんじゃなくて、たんぽぽとかすみれとかそういう野生のやつでもなくて(かわいいけど)、自分で選んで庭に植えたもので、春になると必ずおのずと咲く花。できるだけ早春に咲くやつがいい。それを見て「ああ、春だね」と思いたい。

そうすると今のような鉢/プランター原理主義を軟化させて、レイズドベッドという上げ床の花壇を庭の一角にしつらえて、早春に花をつけるようなもの、例えばクロッカスやチューリップのような秋植えの球根か、レンギョウやツツジの類の低木を地植えにするのがいいんだろうなと思う。日本の実家の庭にあったゆきやなぎもいい。小さい頃から好きな花だったし、この土地でも見かけるから植えられるだろう。なので、今年の種まきがやっと芽を出したところなのに、ここ数日は来年の春先の花のことばかり考えている。それも楽しくてしょうがない。

(楽しすぎてレンギョウとゆきやなぎは花壇を作ってもいないのに買ってきてしまった。もうあとは本当にやるしかないです)


猫とうさぎの同居は、たまに近づきながらも基本的には付かず離れずという感じで半年が経った。

ちょいっ

たまに猫の遊び欲が強いと、見ていてひやりとするようなうさぎへの接触があるのだが、やられた当のうさぎは幸いにあまりこたえていないようで、猫を避けることもなく自分から寄っていく時もあるから、あまり神経質に猫ばかりを叱らないようにしている。うちのうさぎが大らかな性格で助かっているけど、基本的にうさぎは分かりにくい動物なので、サインを見逃さないようにできるだけ様子はちゃんと見なくてはならない。

わたしが起きると猫は毎朝ちゃんとあいさつにくる。トイレに座っているとトトトトとやって来て(ドア閉めろ)、しっぽを上げてミューンと鳴きながらすりよってくる。こういうところは礼儀正しいやつだなと思う。急にイキりだして目がヤバい感じになり、高い戸棚の上にあがったりしてよく分からないこともあるけれど。

コーヒーを淹れてからうさぎのケージのドアを開けてやると、ほぼ毎回ちゃぶ台の周りをくるっと回ってからわたしの隣にスチャッとやって来て、わたしもうさぎも固定のポジションに収まる感じだ。かわいい。ただ、うさぎの場合はあいさつなのか「なでろよ」の要求なのかちょっとあやしい。どちらにしてもかわいいのは変わらない。

うさぎとわたしの定位置の前には猫用のトンネルがあって、猫が中にいる時に足で外からつっつくと大興奮でわちゃついている。おもしろいので猫がトンネルに入るたびに遊んでやるが、時には左手にコーヒーを持ち、右手でうさぎをなで、左足で猫をじゃらしていて、その忙しさには充実感というか「必要とされている感」がある。まあでも結局のところ、自分は2匹にとって召し使いみたいな立場なんだろうなとはうすうす分かっているけど。

それでも動物がこちらに寄ってきてくれるのはうれしい。頼りというかあてにされているんだなと感じるし、それは時間や手間をかけてきたからだと自負もしている。うさぎも猫もほんとうにきれいな目でまっすぐこちらを見てくる。

わたしが動物に対して持っている愛情はシンプルだ。ちょっと変な声を出してばかみたいになりがちだけど、こんなにまっすぐに恥ずかしげもなく表現できる愛情もあまりないなと思う。子供が赤ん坊だった時は似たような感じだったかもしれない。育って大きくなった今となっては違う。人間に対する愛情は複雑だ。素直にそのまんま表すことは難しい。どこかでその愛情の正しさを測り、我慢して言わなかったり、反対に言わなきゃいいことを言ったりする。だがその正しさを測るときに取り出している「ものさし」はいったい何なのだろう。

わたしは人を正しく愛せているだろうか。そもそも正しい愛とはなんだろう。それが切実で率直でまぎれもない真実のものだとしても、正しくない愛というのは実際にあるだろうなと思う。家族を含め他の人に対して自分の中で愛情を抱くことと、そこから派生する相手へのはたらきかけが正しく誠実であることのふたつの間で、バランスを保ちながら細い平均台を歩いているような気持ちになる。ある意味、気をつけるだけ気をつけたら、後はもう祈るような気持ちで天任せにしてあきらめているが。

追記 : これ、書いてアップした後もなんとなくもやもやしていて、家族以外の人に対して持つのは愛情っていうより好意っていう方が合ってたかなと思う。愛情よりもっとはかなくてひとりよがりの危険性が高い好意は、我ながらどこまでちゃんと把握できているのか、慎重に取り扱わなくてはな、と感じる。でも誰かを好きだなと思うことは素晴らしい気分にさせてくれる。年齢を重ねたら、すべての好意を恋愛や性愛の方に持っていく必要もないなと思い、肩の力を抜いて好きになれるようになった。それでも自分の好意って相手にはどういうものなんだろうと不安になる。おぞましいものじゃないといいのだが、誰かを好きでいる状態の気持ちよさに自分が盲目になっていないかちょっと怖い。


前回の月報からそれなりにいろんな音源にはあたってみた気はするが、Cindy Leeの余韻がけっこう長く、ちゃんとひっかかって聴いたと思えるのはこの2枚くらいか。

2月リリースのアルバムだからちょっと遅れて聴いた。聴いてみた理由はAnimal CollectiveのPanda Bearがすすめてたから。最初はふうん?という印象だったけど、何度か聴き直すうちにだんだん深みにはまっていった。時折Stevie Wonderみたいなポップネスとファンクネスの素敵な融合や、いかにも80年代という感じの青臭いんだか大人っぽいんだか分からないあの独特の響きを感じるのだけど、それよりも「なんでこの音が」というものが過剰に強調された、うっすら狂気を感じるミックスが一番特徴的かもしれない。全体のバランスのとれたクリアな録音がひとつもなくて、どこかがくぐもっていたり、どこかが振切れて音がガビガビに割れていたりする。そのいびつさに本人の強いこだわりのフィルターがかけられているなと思う。あとはわたしにはアルバムを通して音がすごくうるっとして聴こえる。特に「Breakthespell」のギターがとてもゼリー感があり、水中で奏でられているみたいだ。

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石橋英子の曲をざっと調べていて、このDumbo Tracksという人とやった「The Corpse of a Frozen Flower」を聴き、えっ、いいじゃん!となり、たどっていったらこの2年前のアルバムを知った。打ち込みのダブにいろんなボーカリストを呼んだ歌もののトラックというとRhythm & Soundのアルバムを思い出すけど、確かにその感じはありつつもう少しとっつきやすく、まろやかで口当たりがよい。それぞれの曲に合わせられた歌詞も、シンプルだけど少し不思議で奥行きがある。打ち込みのダブには、こういう物悲しい雰囲気の言葉がうまく重くなりすぎずに乗っかって調和するんだなと思った。Dumbo Tracksはちかぢか新譜が出るようだけど、先行リリースの楽曲を聴いた限りはあまりダブ味は強くないようだ。


音楽を聴いていると自分の内側に波がせり上がってあふれだすように感じることがあり、それはわたしにとっては音楽でしか得られない種類の感覚で、そのために聴いていると言ってもいいのだけど、あれはなんなんだろうなとよく考える。あれは感情なのだろうか。喜怒哀楽に分類できる感情ではない気がする。あの感覚に全身全霊がなみなみとした洪水を起こしている時、おそらく自分は壁のように無表情だ。死んだような面に見えるかもしれない。むしろある意味ではあれほど生きている実感もないくらいのものなんだけど。

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