冬、うさぎ、ホッケー

こないだ出勤して車から降りて歩いていたら、なにげにダイヤモンドダストだった。

晴れてるんで雪じゃないんです

ダイヤモンドダストはよく高原とか山みたいな自然の中で撮影された映像を見るけど、街中でもたまに起こる現象で、この日の朝は寒かった。-20℃だったかな。顔が寒さにかじられるように痛くて、風がなくて晴れていた。空気中に銀の粉が舞ってるみたいな感じできれい。
こういう自然現象の、ただ単に条件が揃いましたので登場いたしました的な、無感情で数学的なところがいいなと思う。コンクリの裂け目に咲く花とか、咲いてる方は根性とか関係なく、咲けたから咲いてるだけ。見てる人間の側はいろいろ感じたり、意味づけしたりしてるけど。

自然は人間のことを構わない。自然現象の美しさも恐ろしさも、どちらもそのきっぱりとした慮らなさ、余計な優しさのなさから来ている気がして、畏れ多いと同時に、なぜかむしろ包みこまれるように感じるのはなぜなんだろう。

これはまた別の日。ふわふわの新雪、めっちゃ天気いい

冬と言えばこの曲だろうか。なんだかこのMVを見ていると吸い込まれていくようだ。



わが家には今年で6歳になるうさぎがいる。

目ぢからの強い子

人間にすると、たぶんわたしと同世代かちょっと上くらいになるのではと思うけど、人間と暮らしている動物というのはずっとどこか子供みたいなままでいる印象がある。

当時1歳半くらい。若いというか幼いな

うさぎは原則として鳴かないので静かだ。だから感情表現が控えめで一見分かりにくい。決して簡単な動物ではないと思う。それでも小さい時からずっと6年間いっしょに過ごしてきたので、どんな気分でいるのかだいたいは分かる。うれしい時にはうっきうきに飛び回るし、おやつを待っている時には目がらんらんとしているし、いたずらが見つかるとやっべえ…という顔をしているし、人間の分からない何かにいきなり怒り出して後ろ足をダンっと打ち鳴らしたり、泊まりがけで留守番させるとてきめんにふてくされている。人にすりよってくる日もあれば、背を向けてこちらのことなど眼中にない日もある。

しっぽは意外と丸くない

この子がなんの屈託もない様子でわたしのところへぴょこっとやってきて、こちらの目をまっすぐ覗き込みながら「なでるでしょ?」という感じの顔をしている時、自分よりはるかに巨大なわたしに対して一点の恐怖も疑いも持たず、わたしの手をよいものだと信じて近づいてくることにふいにじんとすることがある。こんなに小さく、やわらかくあたたかい生きものが自分を無防備にわたしに委ねてくることを、本当にありがたいと思う。安心しきった様子で背中をわたしにくっつけて寝転がる瞬間は、いつも必ず胸がきゅうっとなる。この状態でうたたねされると、その接触が愛おしくてもう動けない。

こういう時は腸がうねうね蠕動運動してるのが見えます

夜、他の2人が寝てしまってリビングにひとりになると、この子が待っていたように近くにやってきて、ソファのいつものポジションに座ってひたすらじーっとしている。うとうとしていることもある。何をするという目的もなく近くに来て、ただそこにいる。わたしはうさぎのことをどれだけ理解できているだろうか。うさぎはわたしのことをどう思っているのだろうか。それはよく分からない。けど、理解どうこうを超えて、ただ口も聞かずにそばにい続けるというのって、地味な毎日の積み重ねを長年続けてきて、お互いの存在をそのまま受け入れているということだ。わたしがこの子からしてもらえることでこれ以上望むことはないなと思う。

今年はこの子の生きている間では一度きりのうさぎの年だ。だからといって特別なことはしないけれど、健康なまま静かにともに暮らす日々がずっと続いてほしいと思う。

うさぎっぽい曲といったらこれかな。ノリノリなときの。




そんな風に夜ひとりきりでリビングにいて、うさぎと一緒にテレビでアイスホッケー(以下ホッケー)の試合を見たりする。静かなうさぎをまったりなでているこちら側と、ものすごいスピードで試合が展開していく向こう側のアンバランスさが妙だけど、他に見る人(うさぎでなく)がいなくても自発的にひとりで試合を見るというのは、わりと本当にホッケーを好きになった証拠じゃないかなと思う。

カナダに来た当時はホッケーは好きになれなかった。狭いリンクの中を常にあちこちに動くパックがとても小さい上に、スピードが速すぎて目で追えなかった。わたしは小学生の頃から野球が好きで、中学ではソフトボールをやっていたので、ゲームの進行するスピードをBPMに例えると、身についているテンポはBPM100もないくらいの感じ。ただ、緩急はある。それに対してホッケーはコンスタントにBPM160くらいの体感で、小休止はやたら頻繁に3分おきぐらいに入るものの、とにかく流れについていけず、何が起きているのか訳が分からんと思っていた。
荒っぽくて暴力的なところも嫌いだった。なんせ乱闘OKのスポーツですからね…(注 : あくまでNHLメジャーないしマイナーのプロリーグだけのルールです。他のカテゴリや他国では厳しく反則扱いのはず)一対一であれば、ボコボコ殴りあってるのとか、審判もしばらく止めないで見てるし。ぶつかり合いとか押し合いつかみ合いもリンクのあちこちでいつも同時多発している。今でもそういう部分が嫌いなのは変わらないけど、ホッケーの面白さはそこと裏表になっているのは事実なので仕方ないと飲み込めるようにはなった。

そもそもホッケーが身近になり始めたきっかけは、だんなの甥っ子が小学校に上がってしばらくしてからジュニアチームに入ったことだった。5、6歳の子供らが小さくても一丁前にユニフォームと防具一式を身につけて、わらわらと氷上でパックを追う様を見ていたら、ほだされてくるものもある。その甥っ子はかなりホッケーが上手く、常にチームの中でエース的な存在だったので、応援する方も気持ちが入るものだった。

もうひとつは、市内で年に1度開催されるユースホッケーのPee-Wee国際大会というトーナメントがあって、世界中から11、12歳のプレーヤーで組まれたチームがやってくる。そこに日本代表チームも2015年あたりから毎年、極寒の2月にケベックにやってきているのを応援しに行っていて、さらにホッケーに対する心理的な距離が縮まってきたというのがある。Pee-Weeについては来月に大会があるので、またきっと見に行くと思うけれど、スポーツにおいての帰属意識をはっきりと自覚させられる。遠い自分の国から来た彼らを見て、どうしても声を出さずにいられないし、勝ち負けという結果の前に、彼らがここで過ごす1秒1秒がかけがえのないものであるように、その場に居合わせた日本人というだけなのに、おせっかいな親戚のおばちゃんのような気持ちになってしまう。

地元のホッケーチーム、モントリオールのNHLプロホッケーチームのカナディアンズが2021年にプレーオフに出場したのがきっかけで、テレビでもホッケーをよく見るようになった。これももうひとつの帰属意識にあたるのかなと思う。2021年のプレーオフはコロナの影響で通常のディビジョン(地区分け)とは違う区分になった「くじ運」のよさも手伝ってカナディアンズはファイナルまで進んだ。でも翌年の2022年はプレーオフどころかなんとディビジョン最下位。そして今のところ今年も…ああ。
しかし、調子が悪い時こそ試合の1回1回が大事だと思うのだ。特に今のカナディアンズは若い選手が多いので、まだ伸びしろがあって試合ごとの達成によって変わっていく部分は大きいと思う。
カナディアンズのキャプテンは23歳のニック・スズキで、チーム歴代最年少+初のアジア系キャプテン(日系5世らしいです)。現時点でチームのポイント数(シュート+アシスト)1位。さっすが。

もうひとり天才的なゴールセンスのコール・コーフィールド、22歳になったばかりで身長170cmと小柄でもシュート数ではチーム1位。キャプテンのスズキと必ずコンビでリンクに上がる。今年はここまでペナルティ0、プレイがクリーンなのもとてもよい。

なにしろこの2人がどんなプレイをするのか楽しみで毎回試合を見ている。

ただ、ホッケーは音楽がいまいちなんだよな。会場でかかるやつにしても、NHLの公式プレイリストとか公認ビデオゲームのプレイリストを見てみても、なんかうーん…という感じ。パンクロック、ハードコアとか下品なEDMみたいな。FIFAのやつはすごいまともな曲たくさん入ってるのになんでだろう。そこが残念。

これなんか割とホッケーに合うと思うんだけどなー。



昔のことを書いたものが続いたので、現在進行形なものを書こうとした結果、どれだけ自分の日常がばらばらな物事の寄せ集めで組み上げられているかが分かるような、まとまりのない、ある意味ではかなりリアルな記事になってしまった。でも、ひとつを極めるのもいいけれど、複数のことが楽しいのはいいことだと思う。世界は広いのだし。

追記 : ホッケーの乱闘について、誤解を招きかねない表記でしたので注を加えました。多くの人に読まれてもいないですし、誰からもつっこまれていませんが、やっぱりね。すみません。

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