軽いゆううつとNHL

あたりの雑木林の風景に、新しくて柔らかい木の芽の明るい緑色が映えるようになった。今のこの時期にしか見られない特別な色だなと毎年思う。日中のまっすぐで白い太陽の光を浴びてはっきりと緑が見えるのももちろんきれいなのだけど、夕暮れ時に淡墨色の影の中であの黄緑色のてんてんが妙にぽわんと浮かびあがって見えることがあって、もしかしたら新芽ってほんのり発光しているんじゃないかなとすら思う。

天気のよい先週末、種だの苗だのをいじっていよいよ夏という感じだったのに、なぜか月曜にはどよんとした気分になり、いつもはいちばん楽しい曜日のはずが、妙に心身ともに重くしんどかった。翌日にはさらに朝がつらく、どうにも職場に行きたくなくてコーヒーを飲み終わってもソファから立ち上がれない。週2回だけの出勤なんだから、ほれほれ、と自分で自分をけしかけるが、もうひとりの自分がもの悲しいけだるさにぐずぐずと浸ってしまって、どうにもさくっと気持ちを切りかえられない。理由はよく分からない。なんなんだこの理不尽なゆううつは、と思いながらどうにかずるずるとシャワーを浴びに行き、ずるずると支度をして車に乗りこむ。

ふだんより15分くらい遅く家を出たら、ものすごく道が混んでいて渋滞につかまる。げーまじか、この時間帯はこうなのか、と思うが、起き抜けからすでに萎えているのにさらにげんなりしたくないので、いや今日は出勤するだけえらいからとりあえず職場にたどり着いたら合格、と思いつつくすぶる自分をなだめる。

動かない車の列を眺めながら、あーでもなんかこの気分は初めてじゃないかも、とも思う。高校とか大学の頃に何度かこんな精神状態になったような気がするけど、今さらそれが戻ってくるのか。ああいう無気力状態は、あまったれた若い時特有のものかと思っていたが、自分はそもそもがそういうかったるい部分を持った人間で、年を重ねようが根本はそのまま変わらないものだったらしい。職場に着いた時には見積もっていた2倍の時間がたっていた。

はっきりした理由も無く沈んでいく自分の気分の、自分自身なのに他人のような分からなさ/つかみどころのなさが嫌だった。しかも他人の機嫌のように無視ができない、なにせ自分自身が支配されてしまう。一日中起きている間はその暗いトーンで過ごさなければならない。せっかくいい季節になったのに。あまり認めたくはないが、毎年5月から6月にかけて、気分がすぐれないことはよくあるような気もする。

しょせん人はナマモノだから、ゆらゆらしてしまうのは自然なことで、質が一定しないのは仕方ないのだろう。天気だって晴れたり曇ったり雨が降ったり、いろいろだからこそ結果的にバランスが取れている。もしくはマーブルケーキのバニラとチョコの、均一でなくむらがある感じとか。いつも同じではないことや、その時々で違う面が引き出されることもあるのを観念して受け入れたほうがいいんだろう。同じだったら楽かなとは思うが、仮に自分が常に一定だとしても周りが変化するのであれば、結局のところそんなには簡単にゆかないような気もする。

こういう気持ちでいる時、どんな音楽を聴くと自分の気分がましになるだろうかとしばし思いを巡らせたが、DeerhunterおよびAtlas SoundつまりBradford Coxがいちばんしっくりきた。ちょっと前のやつ、と思っていたらちょっとどころかもう15年前なのか………

この2枚のアルバムに共通してるのは、明るいのに暗いというか、現実逃避っぽくて繊細で、ひりついてうじうじしたところがあるのに、音はあくまで風通しがよく懐かしい響きがして、誠実にていねいに鳴らされている感じがする。力強く響く時は刹那的で、夢の中でぼんやり聞こえるような時は優しげで、きらきらと光るような彼の美しい楽曲を聴いていると、いじけた情けない自分でも許されているような気持ちになった。人に甘えるのはうまくないが、こういう時ぐらいは音楽にちと頼らせてくれ、と思いながら耳を傾ける。シェルターになってくれる音楽ってある。弱いことと優しいことは必ずしもイコールではないかもしれないけど、似ているところはあるよなと思うし、そこが落ち着く。「Logos」に入っているPanda Bearがボーカル参加した「Walkabout」はこのアルバムでいちばん好きだけど、歌詞を読むとけっこう強いことを言ってるな。振り返らず我が道を行く、みたいな。


To go away and not look back
And think of what the others say
To go ahead and change your life
Without regard to what is said
And everyone must do the same
You find yourself lost again
Forget the things you've left behind
Through looking back you may go blind


ただ、この詞が不思議なのは、何度か繰り返して読むと、初読のポジティブな印象がだんだん怪しくなってくるところ。メロディにのせるためだろうけど、言葉がシンプルかつミニマムにしぼられていて文章の構造があいまいだから、あれ、これは本当にこういう意味なのかなと不安になってくる。文章の道筋や前後の因果関係を決める接続詞が端折ってあって、解釈の拡散というか意味の脱線や逆転すらできてしまうゆるみがあるというか…そういう余白や自由がある言葉は、自分のものの見方がいくらか反映されるんだろうなと思う。

Bradford Cox、インタビュー聞いたことあるけど、割と歯に衣着せぬって感じであっけらかんとしゃべってて、別に音楽から感じるほど繊細というか弱々しくはなかったよな。むしろその二面性に救われる気もする。人の心はマーブルケーキだからか。アーティストの人となりとその作品の関係はいつも不思議だ。似ていないこともわりと多い気がする。

気持ちの面では音楽でなんとか救われようとするのと同時に、体の方も明らかにだるいので、なんかできないだろうかと思っていたら、ものすごく首から肩にかけて痛いくらいにこりまくっているのに気づいた。首を回すのがつらい。マッサージがあまり好きではないのだけど、たまにされるたびにすごく肩が凝っていると言われるのにほとんど自覚症状がない自分が、ここまでコリと痛みがあるとはっきり分かっているのはまあまあ珍しいので、家にある電動のマッサージクッションを首から肩に30分くらい当て続けた。それを二晩繰り返したらましになってきた。ゆううつな気分と肩こりには何らかの相関関係があるのかもしれない。


NHLのアイスホッケーは今でも身を入れて試合の中継を見ている。今は上位チームのみのプレイオフの真っ只中。モントリオール・カナディアンズはプレイオフに進むどころか、ディビジョン(アトランティック地区)最下位でシーズンを終了した。まあでもこのシーズンほぼ全ての試合を見ていて実感したけど、やっぱり数をこなすとゲームの流れがつかめるようになるし、選手のことも分かってきてお気に入りが出てくる。自分の好きな動きをしている人は浮かび上がって見えてくる。コンスタントにインプットをすることで、頭の中にデータベースが出来上がっていく感じだ。

しかしホッケーのベンチ入りメンバーは常に変わる。いろんな選手がケガをして試合に出なくなり、代わりに抜擢された選手、特に下位リーグのジュニアチームからの新人が大胆なプレイでめきめき良くなっていくのも何度も見た。全てのスポーツを同じテンションで見ていないから比較はできないけど、少なくとも野球より遥かに選手の登録と抹消のサイクルがめまぐるしく早い。

こう何人も次々とケガでいなくなっていくのを目の当たりにすると、ホッケーは格闘技より危ないなと思えてくる。格闘技は相手に直接手を下して倒すために戦うわけだけど、ホッケーはそこが目的じゃない。氷上のパックを手に入れるためや相手の得点を阻止するためのもろもろの行為の副産物として、身体的なアタックが二次的に起こってしまう(…まあ例外はごまんとあるし異論も認めざるを得ないが)ので、それはもう意図でなくむしろ事故であり、格闘技の攻撃より偶発的な分だけコントロールされていなくて、まともに喰らった人の体がダメージを受けてしまう。そういう事故が起こる時、選手の動きにはリミッターがかかっていない。全速で全力で、何か別のことを成し遂げようとしている。

ホッケーの面白さを知っていくのと同時にネガティブな所が見えてくるのも事実で、なんて白人優位のテストステロン過剰なスポーツなんだろうと思うことは多々ある。競技人口が多い人気スポーツであるのとエリート主義の根強さ、ホッケー自体の荒々しさのいろいろが混ざってできた悪しき体質があるのが分かる。チーム内の暴行や集団強姦の話も残念ながら耳にした。そういう犯罪行為は必ずしも直接的にホッケーのせいではないにしろ、暴力に常に隣り合わせで、ともすれば侵蝕されやすい面のあるスポーツなのは事実だと思う。自分はそういうものに対して嫌悪感を覚えるのに、なんでホッケーを面白いと思うのか。

それは今の世の中、ある意味で唯一スポーツだけが本当にリアルなものを見せてくると個人的に思っているから。これだけYoutubeだのNetflixだのでいろんなものを見られる今、どれが現実でどれがバーチャルなのかも境目が曖昧で、実際には存在しないものをAIで作ることもできる。でもスポーツは、生身の人間が持っている身体能力のすべてを使って、決まった筋書きもなくその時その場で動いていく。誰も結末を知らない。どうだすごいだろうリアルだろうとこちらをけしかけてくる扇情的な合成のコンテンツが飽和している中で、選手たちが自分のプレイをすることに集中しているスポーツの試合だけがいちばん本当のことに限りなく近くていちばん信頼できるようにさえ思う。

その中でもホッケーにはどこか特に「振り切っている」ところがある。走るよりも速くスケートで滑り、脇目もふらずに手加減なくぶつかっていくのは、普通の感覚ならやらないことで、どこか常軌を逸していて狂っていないとできない。そうさせるのは勝つことへの執念かもしれないし、その瞬間に誰よりも早く動いて自分のベストを出し切ることに取り憑かれているのかもしれない。ホッケーの選手たちは2、3分のスパンで目まぐるしく交代を続けるから、氷上では常にテンションの高い集中した試合の状態がキープされているわけで、そこも他のスポーツとは少し違う。とは言え非常にビジネス化されたスポーツなので、テレビの中継で挿入されるコマーシャルの本数も桁違いに多く、そのたびにゲームは小刻みに分割されてもいるのだけど。

ホッケーは向こう見ずで無鉄砲で極端なスポーツで、制御されない何かがむき出しになっていて、そこがやはり見ている人を熱狂させる魅力ではある。むき出しだからこそ不快な部分もあるんだけど、ゴールを決めた時に飛び上がって喜び仲間を祝福し、勝った試合の後、ひとりひとりが向き合ってヘルメットの頭をこつん、こつん、とやってねぎらい合うのはやっぱりいいねえと思ってしまう。

いよいよ明日からはプレイオフのセミファイナルが始まる。残った4チームには正直思い入れがまるでなくて実はモチベーション下がってるんだけど、ここまできたらまぎれもない真剣勝負だからやっぱり見るだろうな。どうせならセバスチャン・アホのいるキャロライナー・ハリケーンズに優勝してほしい。彼、日本人としては名前だけでもう優勝だけど、チーム1、2位のアタッカーなので実力もある。


と、ここまで書いていたら雪というか霰が降ってきた様子…まじか…ともあれ出勤前に外の鉢植えにビニールシートかぶせてきてよかった…

なによneige rouléeって…

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