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日記

11/24(土)
昼から中之島歌会。「なにわの海の時空館」を詠み込んだ歌を提出したのだけど、漢字を間違えていて「時空間」になってしまった。誤字なんだけど、その方が歌の解釈に幅が生まれていい感じになるようにおもう。このままで行こうかなとおもいつつ、連作とかにまとめるときにほんとにそれでいいんだろうかという悩みもある。
対面での歌会は久しぶりだけど、やはり会話のリズム感がZoomでやるよりも良くていいなとおもう。感染の爆発的な拡大は他国に比べて起きてなさそうに見えるけれど、実際はどうなんだろう。安心してイベントが行える状況にはやくなってほしい。
角川短歌の11月号を電子書籍で読んだ。今年は田中翠香さんと道券はなさんのダブル受賞。戦場ジャーナリストの視点で戦地を微細な目線で描く田中さんと、人形というモチーフを軸に内的な世界を言葉で彫り上げていく道券さん。けっこう対照的な2篇が受賞となった。おめでとうございます。

夕暮れの難民キャンプを抜け出した少年と見る光射す海/田中翠香「光射す海」
生い立ちは昏いほそ道ふりむけばどうと銀杏の葉が散っている/道券はな「嵌めてください」

角川短歌賞は過去に喉から手が出るほど欲しかった賞だ。いまでも受賞作や選評を読むと燃えたぎる気持ちになる。特に、道券さんの受賞作「嵌めてください」は一首一首しっかり作られていて上手い。嫉妬するような、でも歌会などで交流のあるひとだから嬉しくなるような、そういう気持ちになった。
田中さんの受賞作については、すでに他の方のnoteの記事やツイートでも話題になっている。作者曰く、映画「娘は戦場で生まれた」を観て、インスパイアされて、「想像と虚構を中心としつつ、ニュースや映画から得たものを織り交ぜながら受賞作を構成していった」とのことだ。(括弧内は受賞コメントの引用)
また短歌と虚構の話を、「私性」の議論を繰り返すことになるのだろうか。それはちょっといやだなとおもう。
基本的に、短歌には虚構も嘘も好きにいれればいいとおもう。内容のレベルでも、視点人物のレベルでも。
気になるのは、田中さんがわざわざ受賞コメントで虚構であることを言ったということ。言いたかったのか、あるいは、言う必要があると感じたのか。どういう心情なのだろう。
読者としては、受賞作を読んで、受賞コメントを読んでへえ虚構なんだ、と思ったあとに、審査員が素材のおもしろさや現場でしか見えない景色に言及するのを読むのはひりっとした気持ちになりつらかった。「作れるよねという感じがした」という藪内さんのコメントに救われるような気持ちにもなった。
無記名の新人賞という場では、とうぜん作者情報が伏せられたまま審査員は作品を読む。リアリズム文体の作品に対して、「事実ベースっぽい」「虚構ベースっぽい」という判断は審査員にも都度可能だろう(というか実際、注意深くその辺りを探りながらやっているのは選考を読んでいるとわかる)けど、「虚構でつくられた作品」だと確定して読むことは審査員には不可能で、誌面で読む読者にのみ可能なことだ。審査員が審査した時と同じ気持ちでこの作品を享受することはできない。それは残念なことだとおもう。
リアリズムの文体で虚構をやる例は平井弘の亡兄の創造だったり、久木田真紀のように男性が女子学生になり変わったり(こちらは経歴詐称で干されることになったのだが)、いろいろある。少し前の新人賞で馬の調教師が主体の連作の作者の職業が全く異なるというのもあった気がする。昔、短歌のピーナツというブログに岡井隆と小瀬洋喜の虚構論争について書いたことがあるので興味のある方は読んでみてください。URLはこちら
僕の感覚としては
①短歌連作に虚構を持ち込む:言わずもがな○
②リアリズムの連作に虚構の主体をつくる:好きではないけど方法としてはわかるので○
③②をやった作者が作品を虚構だと作品外で言う:読者の読み方にバイアスがかかるので承服できない。
という感じだろうか。結局、作品の真偽について作者が言及することは、作品外の文脈を作品に盛り込むことになるのだけれど、それは多くの歌人が嫌がる「作者プロフィールと作品を結びつけて作品を読むこと」にかなり近接した行為なんじゃないかとおもう。結びついていない、という告白が、「結びついていないんだなあ」という結びつきを読者に発生させる。
文体は粗いけど微細なアイテムの出し方など一首一首を見ていくといい歌があるし、連作構成にも意識が及んでいるなあと思うんだけど、上記の理由でやはり許容できなかった。受賞後第一作はどんな作品になるのだろう。

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