歌集を読む・その2
7月3日。今日は五島諭の『緑の祠』。2013年、書肆侃侃房刊行。
五島さんは1981年生まれ……ということは酉年ですね。永井祐さんも1981年生まれ。でも学年は永井さんの方がひとつ上だと聞いたことがあります。(定かではないけど)
ちなみに私も1993年生まれで酉年です。同じく酉年の1969年生まれには吉川宏志さんとかがいます。
年齢の話はおいといて、歌の話にいきましょう。
『緑の祠』については、「早稲田短歌」44号の永井亘さんによる「超虚構短歌への冒険」であったり、「羽根と根」4号の佐々木朔さんによる「定型における交換可能/不可能性について」であったりと、それを取り上げたすぐれた評論がいくつか存在しています。ぜひ読んでみてください。(「羽根と根」には私の歌ものっています。)
物干し竿長い長いと振りながら笑う すべてはいっときの恋
もう、この歌は完璧ですね。なにか言えば野暮になってしまうぐらい。
物干し竿が長いなあ、みたいな感慨を持ちながら振って遊んでいると。そういうときに「すべてはいっときの恋」という天啓のようなものが降りてくるわけですね。物干し竿を振りながら笑ってるその瞬間を含んだ「すべて」なんだろうなあ。
もっとわかりやすく読もうとおもうと、たとえば「あなた」みたいな存在が目の前で「物干し竿なが~い」って振りながら笑っている、と。こういう状況が、いわゆる「尊い」ってやつですよね。尊みがある。そんな一瞬の尊い出来事に「すべてはいっときの恋」ですね。ハマっている。
やっぱりこの歌がキマっているのは、物干し竿を振る、という行為がまったくもってなんの意味もなさないからでしょうね。
買ったけど渡せなかった安産のお守りどこにしまおうかなあ
「かなあ」という締め方は、〈私〉の意識がピンボケしてる、みたいな感じですかね。なんといいますか、近年では若者の歌の〈私〉は希薄なんじゃないかみたいな話がありますけれども、五島さんの歌では〈私〉の存在自体は間違いなくあるんだけど、それが非常に遠いところにいる感じがしますね。遠いところからこっちを見ながらバイバイって手を振っている感じ。
女の子か男の子かわかりませんが、友だち夫婦が子を授かって、その友だちに次あったときにお守り渡そうと買っておいたけど、渡せなかった。普通なら、渡す相手のディテールを描いて歌を立体的にしたり、渡せなかった後悔みたいなのを描いたり、なぜ渡せなかったのか、みたいな自分の違和感を描いたりとかする気がするんだけれど、ここでは「しまおうかなあ」と躱されるわけですね。この感じが「〈私〉が遠い」んじゃないか、みたいなことを思わされます。
その遠目の視線ってのは「すべてはいっときの恋」の視線にも通じるんじゃないかなあ。
Nothing's gonna change your world.うるさいといわれてしょげている女の子
これも好きな歌ですね。「しょげている女の子」萌えみたいなのはもちろんあるんだけれど、なにもあなたの世界を変えないだろう、という呼びかけ(歌詞っぽくもある)の冷たさ・距離感みたいなものですね。これも女の子を観測している〈私〉はやはり遠い。独特の「緩み」があらわれているときの五島さんの歌では、いいものもわるいものも、等距離に描かれているような感触がある。
アルジェリアのオレンジは品質に定評がある
アルジェリアのオレンジを剝くオレンジの中にはふるさとがアルジェリア
ナイジェリアにオレンジはあるだろうか
ナイジェリアのオレンジを剝くオレンジの中にはかなしみはナイジェリア
ギャグもシリアスもないまぜにする(あるいはギャグからもシリアスからも距離をとっている?)ことで立ちあらわれるこの雰囲気はなんだろう。「かなしみはナイジェリア」というギャグ的断言は、「かなしみはない」とか「かなしみはないだろう」とかいう表現よりももっとつよい祈りのきらめきがこもっているんじゃないでしょうか。
風景に不意に感情が降りてきて時計見て、また歩かなくては
ぼくの旅は他人のものではない旅で帰ろう光る唾吐きながら
さっきまでさんざん「〈私〉が遠い」とか言っていましたがもちろんこういうウェットな〈私〉の感情、みたいなものに焦点を当てる歌もあります。しかもどっちもべらぼうにいい歌ですね。五島さんの歌はひとつの定理だけで解き明かすことが難しいから語りづらいのかもしれないですね。
ではまぁ、今日はこんな感じで。何度でも読み直したい歌集ですね。
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