歌集を読む・その9
こんばんは。今日扱うのは森岡貞香『百乳文』です。1991年、砂子屋書房刊行。第六歌集。今回は現代短歌文庫の『森岡貞香歌集』(2016年、砂子屋書房刊行)を読みました。
森岡貞香は1916年生まれ。早生まれっぽいので、1915年生まれの加藤克巳とかと同学年のようです。この二人は亡くなったのもそれぞれ2009年、2010年と近いので、同じ時代を生きた歌人、って感じなんですかね。ふたりとも長生きだなあ。ちなみにまだご健在の清水房雄さんも1915年の生まれのようです。
百乳文は「ひゃくにゅうもん」と読むっぽいです。昭和五十二年から昭和六十年、つまり、1977年から1985年の歌を集めた歌集ですね。森岡貞香はこの歌集で第26回の迢空賞を受賞しています。念のために書いておくと、迢空賞(ちょうくうしょう)は、その年の最も優れた歌集に与えられる賞で、基本的にベテラン歌人向けの賞です。わりとそれまでの功績も踏まえられた選考が昔はされていたらしい。今は知らないけど。でもまぁ、「最も優れた歌集」の選考に暗黙のうちに若手の第一歌集とかが除外されてるんだとしたら、それは悲しいことでしょうねえ。歌集の賞の棲み分けということだとは思いますけれど。
話が逸れちゃった。歌を引いていきましょう。
今夜とて神田川渡りて橋の下は流れてをると氣付きて過ぎぬ
巻頭歌です。森岡貞香のヤバいところを端的に言えば、「ねじれ」なんだと思うんですけど、この歌では空間把握がねじれている感じ。ふつうの人は「神田川渡りて」って言った時点で川が流れているのは暗黙のものだとしちゃいそうなんだけど、森岡はそれを言ったあとに「橋の下(=川)は流れてをる」と再発見してしまうわけですね。「今夜とて」ですから、日々の生活の中でしょっちゅう橋を渡っているのでしょうか。なんとなく川を渡っている日々が続いて、ある夜に急に「この橋の下、流れてる!」と気付いたっていうまあそれだけといえばそれだけの歌ですね。でもなんか異様なんです。森岡貞香の歌は「なんか異様」っていう形容がすごくしっくり来る。なにせ、この歌は巻頭歌なんですけど、「氣付きて過ぎぬ」という題で、この歌だけなんです。連作一首。連作一首を巻頭に持ってきてキまってるんだからかっこいいなあ。そしてこの歌は、「過ぎぬ」っていう流し方が結構大事なんでしょうね。気付いたこと自体が鮮烈なイメージを歌に与えるんだけど、ふっと橋を渡っていく行為に戻るっていう。日常生活の心のフックに何かが強烈に引っかかる瞬間というのを、確実に捉えきった一首だと思います。
この海星(ひとで)の場合 港灣に突き出たるconcreteのうへにて死せり
この歌は変ですね。まず初句(?)の「この海星の場合」がめっちゃ変。句跨り+句割れで「この海星の/場合 港湾に/突き出たる」って感じの上の句なんでしょうね。まずこの人はどんだけ海星の死のパターンを見てきたんだ!って感じに当惑しますよね。それでいてこの「場合」の後のcoolな一字空け。そして「concrete」ですよ。森岡貞香はあんまりアルファベットとか使わないっぽいので、歌集中で読むと異様すぎて笑ってしまいます。言ってる内容は「ヒトデが港のコンクリートの上で死んでた」ってだけなのに、この文体はなんなんでしょう。私はこれは成功してる気がします。海星が干上がってるのを見たら「この海星の場合!」って言いたくなりますし。こういう文体を選ばせるほどインパクトのある景だったのかもしれません。
をみな古りて自在の感は夜のそらの藍靑に手ののびて嗟(なげ)くかな
これは『百乳文』の代表歌として名高い一首ですね。しかし、「藍青」は「らんじょう」と読むのか「らんせい」と読むのか……。たぶん「らんせい」かなあ。音としては「らんじょう」が捨てがたいんですけど。
「をみな古りて自在の感」は、「をみな=〈私〉」が年を取って、自由自在になっていくという感覚なんでしょうね。まずこれが結構不思議というか、年を取る=老いるにつれて、体力が衰えたり、できなくなることが増えたりするというのが一般的なものの見方だとは思います。それを逆手に取ってる感じですかね。むしろ自在だぞ、と。そしてこの「は」という助詞は難しい使われ方をしていますね。これを主格だと取ると、「自在の感は嗟く」と繋がり、意味が不明瞭になります。こういう時は、主題化している「は」だと考えて、ちょっと切れを作ると読みやすいかもしれません。「をみな古りて自在の感は(自在の感があることだなあ)/夜のそらの藍青に手ののびて嗟かな」みたいな感じ。あるいは、「自在の感を得ている私は」ぐらいに補って下に繋げてやる感じですかね。「手ののびて嗟くかな」というのは、〈私〉の行動に間違いないと思いますが、「自在の感」から発生している行為でしょうね。手をのばすのではなく、手がのびる。こういう自在感。「嗟く」のニュアンスは結構複雑な気がします。自在の感によって手が伸びるんだけど藍青には届きえない、という悲しみの嘆き(→「をみな古りて」へ還っていく感じ?)なのか、あるいは、手がのびる自在感に単純に感嘆しているのか。なげく、っていうとやっぱり悲しみのニュアンスが宿る感じがあるから前者ですかねえ。もうちょっとファジィに、自在の感のなかで手がのびていて、なんか嘆いてるなあ、ぐらいに読んでもよいのかも。
とまぁ、だらだら一首単体で読んできましたが、連作二首とかバックグラウンドの内容から、若くして夫を亡くしているという文脈を盛り込んだ「嗟くかな」と取るのがかなり妥当なのかもしれません。そうすると「自在の感」にもかなり悲しみバイアスがかかるのかな。
人の顔に羽ひろげつつ來し蛾にて殺ししのちにちひさかりけり
上の句までの蛾のサイズ感が下の句で急にちっちゃくなるという転換。「殺ししのちにちひさかりけり」ってなかなか言えないですよねえ。普通は小さい蛾を殺した、って把握しちゃうんだろうけれど。蛾が来た、殺した、小さかったっていう意識の流れになにか空漠とした感じを受けます。
一團(ひとかたまり)飛びきたりたる水鳥の影が先きになりみづとまじれり
これも意識の流れの順に把握している感じですね。「ひとかたまり飛びきたりたる」でまずぼんやりと塊を把握して、そこから水鳥が水に入っていく描写。しかし、「飛びきたりたる」って文法はどうなっているんだろう。森岡貞香はそのへん怪しい歌がたまにありますね。
けれども、と言ひさしてわがいくばくか空閒のごときを得たりき
言いさすこと萌え、みたいなものはなんかありますよね。最近の口語の歌でもそういうのはありますけど、それの先例みたいな感じでしょうか。歌としてはよくわかる感じで、「けれども」と言いさすことで、自分がなにか空間のようなものを得た、という。抽象的ながらも説得力があります。会話の中の間を心の中の「空間」のようなものとして体積化して感受してるんですね。字足らずの感じで「空間のごときを得たりき」と「き」で脚韻を踏む下の句がいいですねえ。「いくばくか」あたりからのk音(いくばくか、くうかん、ごとき、えたりき)の反復のごつごつした感じと字足らずがここではある種の欠乏感を歌に与えているように見えます。
この先へ行く時閒なき旅の日に消えつつし白き芒かがやく
急速に日の過ぎゆきてこの先きにわれの居らざる日日のある
ふたつの「この先」の歌。前者は空間、後者は時間の「この先」ですね。前者は旅の果ての芒。「消えつつし白き芒かがやく」の畳みかけるリズムが魅力的ですね。「つつし」と「すすき」の音の対応がキマっています。しかしこの「し」は強意ってことでいいのかな。あんまり自信ないです。
「急速に」の歌も字足らずですね。結句五音。結構歌ってる内容は単純ですね。自分がいなくなる日が来るだろう、という死への予感。さっきの字足らずは空間を得る歌でした。それと比べてみると、こちらは、「われの居らざる日日」を頭の中で得た、みたいな感じに読んでもいいのかもしれないですね。それは時間・空間的な日々だと思います。森岡貞香の歌では時間や空間をすごく意識させるようなものが多い気がして、これもその一部かなあという感じで。結句五音でキマっている歌ってほとんど見たことがないんですけど、これはかなり成功しているような気がします。ほんとうに強い言い切りみたいな感じ。余韻をシャットアウトすることによる余韻(欠落感)みたいなものも感じます。
それじゃあ今日はここまでにしましょう。かなり粘りが強くて面白い歌集でした。同じく砂子屋書房から花山多佳子『森岡貞香の秀歌』も発売されているので、合わせて読むとおもしろいかもしれません。