日記(教育/「現代短歌」9月号のこと)

7/6(火)

ふと、自分が今までに一番多く降り立った駅はどこだろうと気になった。高校時代毎日使った地元の豊中駅か、十三駅か。それとも大学時代よく使った出町柳駅、阪急河原町駅、実家の最寄りの駅(豊中駅ではない)か。はたまた就職してから使うようになったなんば駅とか、会社の最寄駅、家の最寄り駅なのか。僕は通勤に電車を使わないので、高校時代か大学時代のどちらかだとおもう。乗り換えも含めると十三が多いような気がするけど、大学以降は梅田の利用が増えたから微妙なところだ。

7/13(火)

MLBのホームランダービーの映像の中で、選手も観客も皆、マスクをせずに現地で熱狂している。いま自分が暮らすこの時空とは全く異なる世界線がテレビに映っているようで、もぞもぞしたやり場のない気持ちになり、ひどく心が落ち込んだ。

7/14(水)

妻が買ってきた『文藝』に載っていた遠野遥の「教育」を一気に読んだ。長編を読むのは疲れると思っていたけれど、意外とあっさり読破することができた。二段組で書かれているのも大きいと思う。僕は散文に関しては二段組で読む方が好きだ。なぜかはわからないが、その方が文章に入り込める感じがする。目の上下動の幅が小さい方が疲れないからかもしれない。

「教育」という小説は、男性向けエロ漫画の学園もののような設定で、一日に三回オーガズムを得ることで「成績」が良くなると考えられている学校(?)が舞台となっている。しかもこの「成績」というのも、直観でしか当てようのなさそうな4択クイズの正答率のことで、直接的な因果がなくて馬鹿馬鹿しく思えるんだけれど、登場人物の多くはそのシステムを所与のものとして受け入れている。成績がよくなると上のクラスへ上がれることになり、下のクラスのものは上のクラスのものに敬語を使い従わなければならない。

途中で印象的な催眠のシーンが2箇所ある。主人公のように制度に対して順応して、それに疑いのない人間からは見えていない「現実」を催眠を通じて体験させているように見える。

制度を強く、強く描くことでブラックボックスを見せ消ち的に立ち上げる。それと同時に、催眠描写の中で現実のなかに無数にありえるような、制度や社会の中でブラックボックス化され、スポイルさてきた人の姿が描かれる。これはなんとなくわかる。それで、あと二つは主人公が訳している小説(怪獣とサッカーをしたり殺しあったりしている?)と、終盤に出てくる苺人間にまつわる演劇。ここの関連についても考えたいんだけど頭が回らない。

正直ぼくは小説の読み方がよくわかってない。映画の見方もよくわかってないんだけど。ただ、映画的に考えるならば、小説内で出てくる別の物語は、何らかの比喩表現として捉えるのが適切なんだろうと思うのだけど、一読した感じでは掴みがたく、でも全くかけ離れてるとも思えない、なんだかもにょっとした読後感が残る。こういうとき、短歌なら精読しながら、どこまで踏み込んで解釈するのがいい塩梅かというのがなんとなくわかるのだけども、小説だとなかなかそれが難しい。読み慣れるしかないのだろうか。

7/15(木)

「現代短歌」の9月号に10首選が載る予定だ。ありがたい。1990年以降の生まれの歌人となると、自分が学生短歌会にどっぷり浸かっていたときの先輩や後輩がたくさんいてへんな感じ。ただ、あと5年はやければ全然ちがう人が食い込んできていただろうなともおもう(もちろん、5年はやければそもそもこの企画が成り立たない可能性もある)。
名前を出すのは野暮だけれど、佐久間慧、小林朗人、N/W、町川匙、宝川踊、濱田友郎、小田島了、岐阜亮司など短歌を離れたように見えるけれど、確実に素晴らしい歌をつくっていたひとがいる。こういうことを書くとき、ぼくは「短歌を続けてしまっている」というような感覚になる。自分に短歌のセンスがとりわけあるとは思わないが、こつこつ周りを見ながら積み上げて積み上げてなんとか短歌にしがみついているように思う。
こないだとりあげた第三滑走路の3人から誰もアンソロジーに入ってなかったのも、なんだか印象的だ。版元の方針上関西に軸足を置きたかったのかな。まあ邪推をしてもしかたないんだけど。

※17日夜追記
「短歌を離れたように見える」と書いていますが、ご指摘いただきまして、岐阜亮司さんは昨年11月に「ぬばたま」五号に作品を発表していました。失念していました。岐阜さんすみません。また、N/Wさんもネットプリントで今年の3月ごろまで断続的に作品発表していたとのことです。N/Wさんすみません。「最近作品を見ないな〜」ぐらいのノリで「短歌を離れたように見える」と書きましたが、このように僕が見つけられてないだけという可能性が他の方にもあります。僕もここ最近ほとんど新作を発表していない(短歌研究5月号ぐらい)のでTwitterを見ていない方には「短歌を離れた」と思われてるかもしれませんね。

7/16(金)

「現代短歌」9月号について、編集長の書きぶりがひどいということでTwitterで話題になっている。現代短歌社の真野さんは、たしかもともと広告業界で仕事をしていた方だ。若手を煽って反論させることで、「いったいどんなことが書いてあるのか」と興味を惹かれたひとがさらに買い求める。単純に言えば炎上マーケティングの一環なのだと思う。

僕が、作品が掲載されている側の人間として一点納得できないのは、上記のツイートに引用されてるような「無検査のダイヤモンドの大売り出し」というような文句が書かれていることだ。他の方はどうか知らないけれど、僕のところへ届いた原稿依頼には、「稿料:掲載誌1部と小社刊行物をご購読の際にお使いいただけるチケット(3000円相当)をもって稿料に代えさせていただきます。」と書いてあった。今まで、図書カードやQUOカードで稿料が支払われることは多々あったけれど、稿料代わりに自社刊行物のクーポンチケットははじめてだ。とはいえ、企画は価値のあるものだと思ったから、短歌の世界により面白い刊行物が出て、それに参加させてもらえるのならばとタダ同然でも依頼を引き受けたわけだ。要するに若手側に「まあ青田買いなのはわかるけどアンソロジーやし載せてもらえるし、自分の名前も売れるからこの稿料ともよべないふざけたクーポンでも引き受けてやろうかな」と思わせるような形で成り立っている企画だと思う。編集サイドはそのことを理解できてないのではないか。タダ同然で歌と小文を徴収したあげく、「無検査のダイヤモンドの大売り出し」と掲載されたひとたちに宣える図太さには目を見張るものがある。その上、載らなかった若手への煽りによる炎上マーケティング。中井英夫かぶれのカリスマ編集者を気取るのは勝手だけど、やっていることは悪質な中抜きだ。

掲載されたひとに対しても、されてないひとに対しても誠実ではない冊子に歌を載せてしまったことを後悔せざるを得ないけど、(今までその片鱗はあったにせよ)ここまでとは思わなかった。
とりあえずは、真野編集長宛に、こんなやり方で売り上げを重ねようとするのならまず、全員に対して真っ当に稿料を払うべきではないかということをメールで伝えておいた。

そういえば、ツイートを見る限り第三滑走路の三人には普通に声がかからなかったということらしい。いま僕の観測範囲にある若手の中では最も「尖った」ところにいるひとたちだと思うから、声をかけてもよかったのになと思う。実績重視なんだろうか? それか真野さん、染野さんの好みではなかったということか。

7/17(土)

思い立って、ブルーレイレコーダーと、サウンドバーを昨日注文した。夏だし、コロナだし、ひきこもってアニメや映画を見るのならあって困らない。レコーダーでなにを録画しようか。段ボールがたくさん出るから捨てるのがたいへんそう。サウンドバーが届いたので早速セットした。低音が聴こえてきもちいい。最高の夏がやってくる。

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