映画「RAW 少女のめざめ」覚書

2016年のカンヌ国際映画祭でも話題となり、トロント国際映画祭やサンダンス映画祭をはじめとした、世界各国のファンタ系映画祭でもその名を轟かせたカニバリズム青春ホラー映画「RAW 少女のめざめ」。

TBSラジオのたまむすびで映画評論家の町山智浩さんが紹介していたの聴いて以来、絶対観るべしと心に決めていた作品だったので、鑑賞後の感想を踏まえた覚書。


本作は思春期における身体的/精神的な変貌を人肉種に目覚めるといった一種のメタモルフォーゼを成長譚として描いているが、本格派のカニバリズムホラーを目指しているというよりも、食肉とはあくまで性愛のメタファーであると監督のジュリア・デュクルノー自身がインタビューで答えている。成長期特有の内なる衝動をどうコントロールすれば良いのかわからず、どこへ向ければ良いのかもわからない、その苦悩を外部からホラーテイストのフィルターを通して眺めているといった印象を感じた。

この若き俊英はモデルばりの長身と美貌を持ち合わせながらも、あのフランソワ・オゾンなども輩出したフランスの名門映画スクール「La Femis *旧IDHEC」出身であるという、まさに才色兼備を誇る映画監督でありながら、クローネンバーグやトビー・フーパーなどのジャンル映画への傾倒を色濃く見せるあたりは、『エヴォリューション』を撮ったルシール・アザリロヴィック他、近年ヨーロッパから生まれてくる、ジャンル映画でありながらジャンルレスでハイブリットな映画群を撮り続けている映画作家たちの系統を想起させる。

物語の舞台は16歳の少女、ジュスティーヌが両親の元を離れ、姉のアレックスが通う獣医科大学に入学し新しい寮生活を始めるところから描かれる。映画の冒頭で起きる唐突な自動車の事故のシーンはのちの伏線にもつながるが、同時に、思春期に経験するありとあらゆる出来事の突発性と、その不安に苛まれることの象徴としてのイメージだとも言える。

この獣医科大学では先輩が新入生を厳しくしごく一種の通過儀礼的な儀式があり、白衣姿の新入生一同が集まっての記念撮影の場で、頭の上から大量の血を浴びせられたり、うさぎの生の腎臓を無理やり食べさせられるなどの度を超えた嫌がらせが続いていく。それまで神童として家族からも周囲からも持てはやされてきたジュスティーヌにとっては地獄のような体験となり、上下関係の徹底した縦社会のなかへと徐々に組み込まれていく。彼女がベジタリアンであることを知っている姉のアレックスですら、ここでは敵対する圧制者のような存在としてジュスティーヌの前に立ちはだかるのだ。

この映画では子どもから大人への成長を、何か外的要因によって少女の心が変化していく様を映すというよりも、自身の中で起こり始めている内面的な、ある種の胎動を見つめていくような節があり、そうした描写に徹底するために他の要因となりうるようなものを極力排除していく。例えば学生生活を描きながらも、講義のシーンではその内容よりも、試験体となる馬や牛の各部位のクローズアップや、解剖されていく犬の様がアップで映し出される。ジュスティーヌにとってはこれらは餌であり、食物なのだ。また、いわゆる学園を舞台としたものでありながら、主人公にとっての親友と言えるような、心を許せる存在が登場しない。同じルームメイトであるゲイのアドリアンは友人というには一定の距離がありすぎるし、その後の関係の発展からは異性愛としての対象から肉欲の対象として変わっていく様から想像するに、友人的なポジションには当てはまらない存在だ。校内で連夜のごとく催されるクラブパーティでもジュスティーヌはいつも独りで酔いしれているようなところがあり、唯一姉であるアレックスの前でだけは心を開いて、抵抗なく醜態をもさらす(ふたりでキャンパスの屋上で立ち小便をするシーン)。

その後も続くイニシエーションのなかで、無理な肉食がジュスティーヌの体に異変を起こさせ、彼女の身体中に発疹ができ、皮がむけ、極度に体調を悪化させていく。彼女はベッドの上でシーツにくるまりながら、全身を掻き毟り、次第に何者かに暴力を振るわれているかのような悪夢まで観るようになっていく。彼女が白いシーツに包まれているところなどは、羽化する寸前の蛹のようなイメージと重なり、カニバリストとして覚醒していくにつれ、こうした身体的/精神的な変調は収まっていく。劇中の中盤あたりで、解剖用に置かれた犬か何かの死体に覆いかぶさっていた白いシーツが風で飛ばされていくシーンが唐突に入り込むが、まさに蛹から蝶へと羽化していくような、少女としての殻が破れ大人の女性へと脱皮していくような、象徴的なショットだ。

主に新作映画についてのレビューを書いています。