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Neko,Moi,Neko



しばらく帰ってこなかったマキが、子供を抱いて帰ってきた。

人間の子供は知っている。普通の人間より小さいが、俺たちよりデカくて、バタバタと走り回るし、俺たちの尻尾を乱暴に掴んだりする。

人間の子供は嫌いだ。マキは子供を産んだのか。厄介だ。

家の人間たちがマキに寄って行って、マキが抱いている子供を覗き込んでいる。

「すんごい小さいねぇ。」「こんなに痩せてて、生きられるのかしら。」

こいつは他の子供と違うみたいだ。すごく小さくて、歩けないらしい。そういう種類の人間がいるのか。

布団に寝かされた子供に近づくと、確かに、俺たちより小さくて、黒くて、枯れ枝みたいだった。へっ、これなら尻尾も掴まれないだろう。ビビって損したぜ。

クミが言う

「チョコ、あかちゃんだよ。あーかーちゃん。」

あかちゃん?アカって名前なんだな、こいつ。すごく弱そうだ。

アカはときどき目を覚まして、弱々しくないた。お乳を飲んで、うんこをして、それからまた寝た。

「チョコとケビン、近くに寄らせて大丈夫なの?噛んだりしないかな。」

そんなことしねぇよ。こいつは俺たちより弱いからな。俺たちより弱いから、こいつは俺たちの子分だな。

タケは朝になると人間の布団を全部片付けちまう。俺たちは1日中布団の中に潜っていたいのに、人間はそうじゃないみたいだ。

でも、アカの布団は1日中そのままになっていて、アカはそこで1日中眠っていた。こいつは俺たちの仲間なのかもしれないな。そのうち、耳と尻尾が生えてくるかもな。俺たちはアカの周りで丸まって、アカが猫になるのを待つことにした。




季節が1周してもアカには耳も尻尾も生えてこなかった。

それどころか、アカの枯れ木みたいな体はプクプクと膨れていって、どんどん大きくなった。

それでも人間みたいに後ろ足だけで立ったりはしないで、俺たちと同じように4つの足で家の中を歩き回った。俺たちはペタペタと歩き回るアカのまわりをまわりながら「そうだそうだ。もっと早く歩け。そんなんじゃ、スズメを捕まえられないぞ。」と教えてやった。


しばらくすると、アカは他の人間のように後ろ足だけで立つようになった。

かわいそうに、アカは猫にはなれなかったらしい。人間になったら、1日中眠っていられなくなるっていうのに、どうして人間になんかなるんだよ。

人間の世界はまったく意味がわからない。日が落ちて沈むあいだにすることが決まっているし、したくもないことをしなくちゃならない。名前がなくてもいいものに名前をつけて、意味がないものの意味を考えて、噛まれたわけでもないのに泣いたりする。

そんな窮屈なことを、アカもしたいっていうのか?猫の方がいいに決まってる。

アカはどんどんデカくなって、マキと同じくらいの大きさになった。

アカと俺たちは相変わらず一緒に散歩に出掛けてスズメを探したし、道路に寝転がって日光浴をした。

俺がスズメを捕まえると、アカは「かわいそう!離して!」と言って、俺の口を一生懸命開けようとする。

かわいそうなもんか。このあいだケビンがアオダイショウを追い払った時はあんなに喜んでたのに、なんでスズメはかわいそうなんだ?まったく、人間は勝手だ。

アカはときどき、誰もいない部屋でないていた。俺たちは、アカが俺たちにだけ聞こえるようになくのを知っている。俺たちはすっ飛んでいって、アカのまわりをグルグル回る。

どこも痛くないのに、アカがなく理由が、俺たちにはわからない。だからグルグル回って、体を擦り付けて、人間なんてやめちまえと言う。時間の早さが違い過ぎて、俺たちだって、いつまでこうしてやれるかわからないんだから。





アカの背はもう伸びないらしい。家にいる時間もずいぶん少なくなった。ケビンは歩けなくなった。







ある日、ディズニーランドに行く朝、私はケビンが眠っている段ボールを覗き込んだ。ご飯も水も、注射器でしか食べられなくなって、敷きっぱなしのトイレシートからはひどい匂いがした。あの日アオダイショウを追い払った鋭い目つきだけが同じだった。

すぐ帰ってくるね、待っててね、と声をかけた。嫌な予感がした。チョコが玄関まで静かに着いてきた。

帰ってくると、ケビンはいなくなっていた。もうお墓に入れたよ、とおじいちゃんが言った。

暗くなった部屋で声を出して泣いた。遊びに行った自分に、見送らせてくれなかったケビンに怒った。チョコが来て、黙って私の膝に乗った。

どうして私は猫じゃなかったんだろう。同じように歳が取れればよかったのに。置いていかないで。チョコは黙って、耳を動かした。

時間が経った。チョコも少しずつ弱っていった。スズメを獲ってくることもなくなった。

酔っ払った親戚が、笑いながら「もう死ぬよ、この猫」と言った。私ははじめて本気で人を殴った。お前が代わりに死ねばいいのにと喚いた。

私の誕生日が近づいて、パパがディズニーランドに行こうと言った。行きたくなかった。帰ってきてチョコがいなくなっていたらどうしよう。日が沈む前にパークを出た。

家に入ると、リビングの入り口でチョコが呆れるようにこちらを見ていた。

ホッとして涙が溢れて、座っているチョコに縋り付くように抱きついた。チョコは私が泣き止むまで身じろぎひとつしなかった。くだらない心配してんじゃねぇ、とチョコが鳴いた。

また時間が経った。チョコはボケてしまった。あんなに無口だったのに、朝から晩まで悲しそうな声で鳴き続けた。話しかけても目が合わなくなった。

ある日、学校のチャイムがなって、また嫌な予感がして、駅までの道を走って帰った。

駅からバスに乗って、バス停からまた走った。涙と鼻水が後ろに飛んでいって、覚えたてのアイラインがぐちゃぐちゃになった。それでも走った。

玄関で蹴飛ばすように脱いだローファーが廊下に飛んだ。家の中は静かだった。

電気カーペットの上にチョコが寝ていた。窓際の日向で気持ちよく伸びるような格好で。

でも、もう動かなかった。

「さっき、息が止まっちゃったよ。ほんとに、ついさっき。」

おばあちゃんが小さな声で言った。

チョコの体を抱えるとまだ暖かくて、私はまた間に合わなかった、と言いながら泣いた。

花と一緒に小さな箱に入れて、チョコを火葬場に連れていった。

職員のおじさんはチョコを見て「とても立派な猫ですね。」と言った。

「20年も生きましたから。猫又になりますよ。」とおじいちゃんが答えた。

私はチョコの体を黙って見ていた。

この虫に刺されてカサブタだらけの耳も、白くて綺麗なお腹の毛も、これで最後。

私は、あとどのくらい生きなければいけないんだろう。

誰よりも私を解って、見ていてくれた兄たちはもういない。

耳も尻尾も生えていない私を仲間に入れてくれたチョコとケビンは、これからきっと何十年も生きる私を、こんな世界に置いて行ってしまった。

私も猫がよかった。一緒に生きて、一緒に死にたかった。うわごとのように帰りの車で呟いた。

死んだペットが夢に出てきたという話をよく聞く。

チョコもケビンも、私の夢にはいちども出てきたことがない。きっと私がすぐ泣くから、慰めるのもめんどくさいのだと思う。今ここまで書くのにだって、小さなバケツが満杯になるほど泣いている。私はあとどれくらい生きるのだろう。そればかり考える。

死ぬ前日、チョコは突然、大嫌いだった風呂に飛び込んだ。ずぶ濡れになったチョコを抱き上げてドライアーで乾かしているあいだ、チョコは突然ピタッと鳴くのをやめた。

スズメを獲っていた頃の鋭い目で私を見て、そしてゆっくり、まばたきをしたのだった。




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